ようこそ劇場へ・Act3
結局、俺が帰る頃にはすっかり日が落ちていた。
徒花を見送ってから暫く経ち、今日の出来事への熱が収まってきたせいもあるのだろうか。ついさっきまで弾んでいた足取りは、クリニックの明かりを見た途端泥にでも足を取られたように重くなった。
うちの両親が経営している、そこそこの規模の診療所。いつもの癖で近づいて耳を側立てると、遠くに低い声が二つとそこそこに高い声が一つ聞こえる。
……今日は父さんも母さんも、まだ仕事中なのか。内心ほっとした。こんな時間に帰るなんて不自然だから、バレないうちに帰れてしまうならしめたものだ。
足早に立ち去ろうとするとしかし、不意にドアが開く。全身が凍りついた。
「………おや、光輝君。こんな時間に珍しいな」
「扇さん!こんばんは!!」
良かった他の人じゃなくて、と次の言葉が続きそうになる。彼にもそれが分かったのか、特に不審げな様子も無く穏やかに微笑んだ。
「お父さんとお母さんなら、先程私が渡したデータを整理してから帰るそうだ。……君も年頃だし少しくらいやんちゃするのはいいが、あまり遅くまで出歩かないようにな。最近は物騒な話も多い。他のご家族も心配するだろう」
「はい…ありがとう、ございます」
―――扇 雷同さん。両親の同業者、つまり彼も医者だ。落ち着いた物腰で多くの人から慕われ、両親からも一目置かれている。何かと顔を合わせる機会が多いこともあって、昔から彼は…彼だけは、いつでもこんな俺に味方してくれる大人だった。
軽く会釈をしてから別れ、ようやく家の扉に手を掛ける。外気に温められて生ぬるくなっている金属のドアノブに、何故か全身の体温が吸い取られるように足先まで冷え切った。
「………ただいま…」
自慢じゃないが狭くはない玄関。響いてしまわないように、独り言にも満たない声で言う。
自然と俯いたままだったが、目の前から聞こえたあからさまな嘆息で先客がいたことに気が付いた。
「なんだ、光輝か。父さん達を待ってたのに」
「……暁兄さん」
研究か何かのことで相談がしたかったんだろう、分厚いファイルとノートの束を片手に抱えて立っていた彼は、至極つまらなさそうに俺を見やった。
日下部暁良。うちの一番上の兄貴。去年大学を卒業し、既に両親のクリニックを継ぐことが決まっている優秀な長男だ。
「さっき、扇さんと会ったから。父さんと母さんはもうちょっと後だってさ」
「ふーん………。で、お前はなんでこんなに遅いんだ?」
万年寝不足のすこぶる不健康な目付きが俺の手元をじろりと見遣った。――しまった、夢幻座のパンフレット!あわてて背中に隠して、出来るだけ平静を装う。
「…学校の自習室が、意外と使いやすくてさ。これからも結構使うかもしれないから……」
父さん達にも言っておいて…と言えばよかったのかもしれないが、言えなかった。
一応血の繋がった兄弟のはずなのに、暁兄さんには昔からなんとなく近寄り難い。それは彼の背負わされているものが重すぎるからなのか、俺がこんな出来損ないだからなのか。 どちらにせよ、彼はとっさに隠したパンフレットについても特に興味を示すことなく「そうか」とだけ応えた。そそくさと立ち去った玄関口から、小さな欠伸の音が聞こえた。どうやらまだここで待つつもりらしい。
「おっと!」リビングのドアの前で、うっかりもう一人と鉢合わせしそうになった。日下部灯栄、俺の二人目の兄だ。
「遅かったなあ光輝。晩ご飯の支度してずっと待ってたのに」
「ああ…ごめん、灯兄さん」
「暁兄はー?光輝帰ったけど。ご飯一緒に食べないのー?」
そのまままだ玄関にいる暁兄さんにと声を張り上げる。
「遠慮しとくよ。どうせ話で遅くなるだろうし」
「そうかー、残念だ。……ならしょうがないな。光輝、先に二人で食べとこうか」
暁兄さんに比べると、灯兄さんはずっと気さくだ。彼は昔から理系科目より国語やら歴史が好きで、当然暁兄さんのように医学部へ進むはずだと思っていた両親の反対を押し切り、史学科へ進学した。そちらの勉強は楽しんでいるし、かなりの成果も出しているようだが、うちのクリニックの役には立たないではないかと両親の視線は冷たい。なのでどちらかというと、灯兄さんは俺の立ち位置に近いのだ。
「で、お前今日は一人でどこに行ってたんだ?学校ってわけじゃないみたいだけど」
炒飯の皿に手際良くラップをかけながら、灯兄さんが尋ねた。ついさっき自分が吐いた出まかせのこともあり、内心ぎょっとする。
「なんで分かったの?」
「見ればわかるよ。だって、光輝思いっきり私服だろ?学校なら、制服着ていかないとそもそも入れないからな」
推理するまでもないよ、と言いつつ表情が少々得意気だ。彼のいつもの癖だった。推理小説の熱烈なファンである彼は、得意科目の勉強を教えてくれる時も、何故か決まって探偵じみた口調になる。
「…それで。なあ、本当はどこに行ってたんだよ?」
声のボリュームを落とし、キラキラした目でもう一度聞き直される。こういう時の灯兄さんがしつこいことは重々承知だ。
「誰にも言わないでくれる?」
「分かってるよ。大丈夫、父さん達には内緒にしておくから」
「実はさ………」
そうして俺は、徒花にチケットを貰ってから今日までのことを順を追って説明し始めることになった。
「へえー!凄いな、光輝は役者になるのか!!」
「ちょっ、話飛び過ぎだって!まだそこまで考えてないし」
話もようやく一段落したところで、目の前の炒飯に手を伸ばす。やたらとにやにやしながら俺を眺めている灯兄さんの視線から逃れたい意味もあったが。……ちょっと味が薄いな…。
「でも、勢いにしたって思い切ったなあ。よく分からないけど、夢幻座って今かなりの有名所なんだろ?」
「えっ、そうなのか?」
「ああ。事前予約のチケットなんかもう飛ぶように売れてて、普通に買おうとしてもそうそう手に入らないんだと」
そんなに凄い所だったのか。初耳だったことに自分でも驚いた。そういえば徒花が手売りしていたのは当日券の引き換え用チケットだと言っていた気がする。もしかして何気に貴重な機会だったのかもしれない。
「それに。ちょっとパンフレット見ていい?…ああ、やっぱりそうだ。徒花君がここなんだっけ……まさか妹さんが光輝と同じクラスだったとはなあ」
「灯兄さん、知り合いなの?」
当然のように人名が出たので驚いた。
「知り合いというか何というか。そういう人がいるらしい、ってこっちが一方的に知ってる感じ。うちの大学じゃかなり有名だよ、彼」
「…確かに凄かったからなあ……」
劇団全体の中でも、彼の存在感は際立っていた。目で追える限りは視線を離すことさえ困難に思える、舞台上でのあの圧倒的な魅力。大学にもファンとかが居るんだろうか。
「学科も違うしかなり遠い存在だけど、やっぱり興味はあるんだよなあ。顔はいいけど変わり者だとかいう噂も聞くし…光輝、間近で見た感じどうだった?」
「見た感じ…………というか、なんかいきなり抱きつかれたよ」
「嘘だろぉ!?」
灯兄さんが大きな声を出した拍子に、お互い炒飯を食べる手がすっかり止まっていたことに気がついた。
二人が帰って来る前に食べ終えてしまいたいけど、続きの話も積もっているのでじれったい。俺の心情を察したらしい灯兄さんは仕方なく、まず食事を済ませる考えにシフトしたようだ。ありがたくも申し訳なくも思いつつ、俺も食事に集中することにした。やっぱり味は薄かった。
およそ信じられないくらいテンションが高かった噂の舞台の花形の話を、案の定灯兄さんは心底面白そうに聞いてくれた。それからめちゃくちゃ怖かった師匠…改め副座長さん(おそらく彼が土橋大地さんだ。灯兄さんが言うには、たまにテレビにも出ていることがあるらしい)や、対照的に引くほどあっさり俺を入団させてくれてしまった座長さんの話も。
「入団………しちゃったん、だよなあ……」
自室の勉強机に頬杖をつき、誰にともなしに呟いた。こうして実感し直すのも何度目か。だけどこう落ち着いてからだと、なんてことをしてしまったんだろう、という後悔の割合がいっそう膨れ上がってくる。
あの劇団が魅力的なところだというのは分かっていたが、そんなにとんでもない所だとは夢にも思わなかったのだ。有名人が何人も居て、俺が見たとおりの有無を言わせないクオリティの高さに知名度も鰻登りときた。……普通に考えれば分かるはずだ。そんな所に、俺なんかが入っていける訳ないじゃないか。
開けっ放しにしているドアの向こうに、灯兄さんの部屋の中身がちらりと見えた。史料の山の奥には、古文書の研究で貰ったという賞状のようなものがいくつか貼ってある。
灯兄さんだって、決して《できない》訳ではない。大学での功績はかなりのもので、今進行中の研究も評価が高いらしい。文句を言いつつ両親が彼を好きにさせているのは、それだけの結果を残しているからなのだ。
それに比べて―――俺には何もない。学校の成績は全教科、どんなに頑張っても中の上を超えることはほぼ無いといったレベル。そもそも今通っている高校も、暁兄さんが余裕で合格した第一志望校に落ちた結果だった。
いわゆる「滑り止め」だったここですらトップを取れない俺に、両親はいよいよ期待するのをやめた。反対に頭のいい暁兄さんに異常なほど期待を寄せるようになり、暁兄さんの隈はさらに濃くなった。両親の前じゃ俺は《居ないもの》同然だ。ただ時折思い出しては、面倒事や恥晒しがないよう、目を光らせる必要があるだけの出来損ない。
仕方の無い、ことだった。俺の出来が悪いのは、俺の責任だから。俺は余計なことをしないで、誰にも迷惑をかけないようにひっそりと生きていさえすれば良かったのだ。
元から俺には劇団に入るような余裕も、資格も、権利も無かった。灯兄さんはこの秘密作りに協力してくれると言ったが、もし彼以外の家族にこんなことが知られたら?「お前にそんな無駄なことをしている暇はない」と一蹴されるに決まっている。能力のない自分と置かれた状況から逃げているだけだ、なんて言われたら――――俺はきっと言い返せない。
やっぱり断ろうか。頭の片隅に否定の虫が湧いた。公演期間はあと6日。まず夢幻座の裏方をさせてもらうことになった俺は、明日もあの劇場へ手伝いに行くことになっている。一旦は引き受けた身だし、流石に明日行かないわけにはいかないが、それからのことは……また考え直すことになるかもしれない。
時計を見ると11時半を少し回っていた。普段ならまだ勉強している時間だが、どうにもそんな気分じゃない。一応広げたはいいが結局肘置きにしかならなかった参考書を閉じ、そのままベッドに滑り込む。どうせ今夜は眠れまい。
横になると案の定、否定の虫と例のふわふわした衝動とが頭の中できいきい騒ぎ出した。「でも」と「それでも」の応酬。つくづく自分が嫌になる。八つ当たりのようにタオルケットを手繰り寄せた。
電気を消すと、オレンジがかった半端な暗闇の中に、今日出会った夢幻座の人達が思い浮かんだ。舞台上、舞台裏。両方知ることで、さらに余計に輝いて見えた。あんな目が眩むほどの光に――近付けるとでも、思ったのか、俺は。
自分で考えたって迷惑な話だ。勝手に憧れて、勝手に諦めて。こんな気持ちでいるのを話したら、彼らはどんな顔をするだろう?
………こういう時だけ、夏をありがたいと思う。ぐずぐず思い悩んで寝付けないのも、夜が蒸し暑いせいにできる。俺はちっとも重くならない瞼を閉じるのに疲れ、また寝返りを打った。
ーーー
「あのね、今日が初日だから、明日から6日間が8月の公演期間なの。お手伝い来てくれるんだったら、明日は午前からだよ。初めてだといきなり要領掴むの難しいし、混乱しそうだったら明日は他のコ達がやってるの見ててくれればいいや」
昨日徒花と一緒に帰る前、例の少女が「STAFF」の札を渡しながらこう説明した。俺をいきなり舞台裏に連れて来て、しかも注目と身代わりのために突き飛ばした張本人である。抗議したかったが、可愛く謝られて流されてしまった。
それにしてもてきぱきとよく動く子だ。小柄な彼女が大人に混じり、余りのパンフレットやチケット半券の束を持ってぱたぱたと駆け回る様はついつい目で追ってしまった。他のメンバーも、彼女の指示を真剣に聞いている。あまりじっと見ていたのか、後で徒花が「えそらちゃんです、破鏡えそらちゃん。夢幻座の戯曲家さんの妹さんで……まだ中学生だけど、ここでは最古参のひとりなんです」と教えてくれた。
そして来たる公演二日目だ。
かなり早く来たと思っていたのに、劇場に着いた時には既に準備は始まっていた。昨日顔を合わせた人には軽い挨拶をしてくれる人も居たが、共通して皆忙しそうだ。
「あ、新入りさん。そっちの箱取ってくれるー?」
不意に後ろからよく通る声が聞こえた。あわてて辺りを見回すと、壁際に積んである段ボールが目に入る。
「箱………これですか?」
一番手前のものを持ち上げると、大きさに反して軽い。「うん、それもだね。一応そっちに置いてあるの全部なんだけど。楽屋横に持ってくんで、ついてきてくれるかな」
言いながら彼…… じゃなくて彼女、水走さんは軽く勢いをつけて、隣の段ボールを持ち上げた。歩くときに中からゴト、と鈍い音がしたので、どうやら俺が持っているものと中身が違うらしい。
「これ、中に何が入ってるんですか?」
「衣装とか小道具の予備だねー。で、わたしが持ってるのが再加工用の工具類。昨日確認作業に使ったから、もう一回運び込み直すんだ」
よいしょっ、と慣れた様子で水走さんが段ボールを抱え直す。重そうだし代わりましょうか……と言い出す前に楽屋横に着いてしまった。
「この辺りに置いておけばいいですか?」
「ああ、うん。ありがとね」
ぱんぱんっ、と手を叩き、髪をかきあげながら彼女が応える。姿勢を正すとその背の高さに驚いた。
「いつもだとわたしがここに居るんだけど……今日、わたし放送の担当で行かなきゃなんだよね。全部運び終わったら、代わりにここで番しててもらえない?いざというトラブルの時用に念のため、さ」
水走さんが急に真剣な表情になる。思わず気圧されて退け腰になると、今度は一変してぷくくく、と笑い出した。「冗談冗談!昨日点検したばっかなんだし、十中八九そんな大事にはならないから安心して!」
さて残りも運んで来ようか、と戻りかけたところで、破鏡が水走さんを呼びに来た。
「えそら、今日も音響さんのお手伝いだから。ヒョウくんももう一緒に行っちゃお!」
「いいけど『くん』付けはちょっと本気で勘弁してくんないかな……じゃ、留守番頼んだよ!」
そうして舞台裏へ二人を見送る。ついでに残りの作業をことづけられ、俺はあと何往復かして他の段ボールを運ぶことになった。特に重いものは残っていなかったので簡単に片付いたが、それならばやっぱり水走さんのを代わればよかったと今更になって思うのだった。
頼まれた単純作業が終わると、他にやることが見当たらなくなってしまった。今から仕事を見つけに行こうにも逆に足手まといになりそうで、昨日言われた通りただ見ていることしかできないことになる。
ひと段落して落ち着いたせいか、寝不足がたたったのか。思わず欠伸が出そうになって、あわてて口を押さえて息を飲み込んだ。いけない、他の先輩達が忙しそうにしているのに、こんなところで欠伸だなんて。失礼にも程が、
「ふぁ〜あ………」
「座長、おはようございまーす!」
「んー、おはよー。早いなー」
「別に早くもなんともないっスよ、座長が来るのが遅いだけでしょ」
団員の挨拶やら恨み言に余裕の笑顔で軽く返しながら、当然のように座長さんが歩いてくる。呑気な人だな………というか!
「座長さん何やってるんすか!? 他のキャストさんもうみんな楽屋にいますよ!?!?」
「え? ………あー」
もう放送の準備まで進んでるというのに、どうして普通に私服でこんなところに居るんだ。大慌てで言うと、座長さんは暫く考えたあと納得したように言葉を続けた。
「今日はおれ出ないんだよね。ほら、パンフレットにあったろ?ジドル、ダブルキャストなんだよ。今日はおれじゃないほうの役者が演るわけ」
ダブルキャスト。…正直、パンフレットにはあったけど意味は分かってなかった単語だった。そこだけ名前が二つ並んでいたので不思議に思っていたのだが、その二人で交代で役を演じるということなのだろうか。
「そう、だったんですね……」良かった、焦って損した。恥ずかしい。
「それはそうと眠そうだな、光輝。疲れたか?初仕事」
「ほんの少し…」
眠そうなのは貴方に言われたくないと思ったが、心配されているようなので曖昧に笑って頷く。
「あっはは、そっか。ならそろそろ小休憩しよーぜ。劇場のオーナーが差し入れくれてさ………お前、コーヒーとか飲むタイプ?」
座長さんは持っていた大きなビニール袋を少し掲げてみせた。中身の詰まった鈍いスチールの音。もう先に先輩達に配ったのか、既に数が減っているとはいえまだ十分に種類があった。
「いえ、……実はあんまり飲めないんです」
「あ、一緒。おれも苦いのは全ッ然ダメだ」
ブラックコーヒーとかそのまま飲む奴人間じゃねーよな、なんていう極論に思わず苦笑い。彼は段ボールの横に腰掛けて、俺にも隣に座るよう促した。言われるがまま座り適当にジュースを手に取ったが、ここで飲んでしまっていいのだろうか。ふと横を見ると、座長さんはもうとっくに炭酸飲料の缶を開けていた。
「うちのが世話んなったな」
不意に座長さんがそう口にした。破鏡のことだろうか、どう返事すればいいのか分からずとりあえず頷く。まあそのとばっちりのお陰で知り合えたんだけどな、と、彼はからから笑った。
「つかお前、あの流れでよく決めてくれたよな。夢幻座に入ること」
――缶を傾ける手が固まった。聞かれたことは昨日の徒花と全く同じなのに、一晩考えた後だと心模様がまるで違う。俺は無意識に足元を見つめていた。
「………迷惑…でした、よね。やっぱり、いきなりこんな…」
「なんで?むしろ、今から礼言おうと思ってたんだけど」
即答だった。驚いて顔を上げたが、彼はお構いなしに缶の中身を口に含み、話を続ける。
「うちさ、評判の割に、ここ最近新しく入る奴がほとんど誰も居なかったんだ。大地はあんなだけど役者伸ばすのは上手いし、入りたい奴が基本誰でも入れるのは変わってねーのに………な。
昨日お前が入団するってなった時、高嶺が超喜んでたろ?」
控え目に頷く。昨日会った徒花のお兄さん――喜んでた、というか、今思い出せば高揚の中に、どこか安心したような表情だった、気がする。
「えーっとな。どっから説明すっかなー………。まず、だ。高嶺、超上手いじゃん?」
予想以上に当たり前の確認作業だった。大きく頷く。
「上手いって一口に言ってもさ、あいつの上手さってこう……《天才》的なアレじゃん。あいつ、あんなだけど演劇始めたの中学の頃なんだぜ?しかも部活の弱小校。
―――凄すぎたっつーか、周りと差がありすぎたんだろーな。人間関係でもなんか色々あったみたいだし…それでしばらくふさぎ込んで演劇から離れてたところを、大地が拾った」
『お兄ちゃんと比べたら、私なんて』。昨日の徒花の言葉が脳裏に浮かぶ。彼が舞台に立つのを見れば、多くの人がそんな感想を抱くだろう。どちらかと言われれば俺も間違いなく、そちら側の人間だった。
「燻ってた高嶺の気持ちが吹っ切れたのはいいんだけどさ、今度は代わりに夢幻座の方がほんのちょっと変わっちゃって。何人か辞めた奴も居たし、なんかそういう風潮が出来て、自分から入って来る奴がぱったり居なくなった。実結と、あいつが直接連れて来た未麗は別だけどな。
辞めた奴のことは辞めた奴の中身の問題だから、高嶺の所為じゃないとは言ったんだけど…やっぱ、どっかで責任感じてた部分はあったんだと思う」
だから、夢幻座はお前みたいな奴をずっと待ってたんだよ。
はっきりと、そう言ってくれた。高嶺さんのあの喜びようも、少し納得ができた。
けれど、だから。……俺は。
「俺は………そんな価値のある人間じゃないです」
「…ほー」
相槌のつもりだろうか。空き缶が置かれる音。片膝を立て、横目で俺を見る視線。こちらが俯いたままで目を合わせようとしなくても、彼はそのまま動かないでいた。
…話を聞いてくれるにしては、俺も座長さんも奇妙な体勢だった。けれど彼は、確かにそこに居てくれて―――それが何故だか心地良くて。友人に話すより素直に、独り言を零すより気楽に、俺は気持ちを吐き出していた。
「……俺、昔っから本当何をやっても冴えなくて。周りの期待に応える力も、自分の思う道を切り拓く勇気も無いから…ずっと、こそこそ生きてきたんです。こんなんで今までなんとかなってきちゃったのが不思議というか、狡いくらい……。
だから夢幻座の皆さんに憧れたんです。けど、よく考えたら皆さんの側に俺なんかが居ていいのかって。皆さんと俺とじゃあまりに違いすぎるから申し訳なくて――――」
「――っていうのは、誰が言ったわけ?」
ずっと黙って聞いていた彼が、不意に俺の話を遮った。責め立てるわけじゃなく、極めて自然な口調。それでもその言葉に思わず口ごもる。
「そ、それは………」
「『何をやっても冴えない』はまあ置いとくとして、『期待に応える力と切り拓く勇気が無いまま生きてきたのが不思議』とか、『夢幻座に居るのが…』えっと、要は《釣り合わない》?とか。つーか、仮にそーゆー系のこと誰かに言われたことあったとしても、別に今それ関係ねーわ」
「か、関係ないって………」
それなりに本気で悩んでいたことを平然と笑顔のまま、しかもすこぶる軽い調子で復唱されたら、流石に情けない気分になる。
そうして彼はさっきまでより……というか、今まで見てきた中で一番爽やかなんじゃないかと思うほどの笑顔で言い放った。
「安心しな。聞いた分だと多分お前、自分で思ってるより誰からも期待されてねーから」
「………………」
………え、ええー。
そんなはっきり言わなくても。
なにもそんなはっきり言わなくても。
恨みがましい視線をありったけ座長さんに送りつけたら、「まあまあ話は続くんだから」とばかり手で諭される。俺の言わんとすることを察しつつ、しかし変わらず独特なペースで。
「いやあのな、これ褒めてんだぜ?
だってよくよく考えてみろよ、《期待されてない》ってスゴくね?すげー自由じゃん。何にでもなれるぜ、お前。それなのに自分でもなんだかよく分かんねーもんに囚われて、感動で間違い起こすほどピンと来たものにも尻込みとか、バカバカしいと思わね?」
最初は馬鹿にしてるのかと思った。けれど、途中からどうもそんな意味じゃなさそうだということに気付く。からかうような口調と裏腹に、どこか見えないところから背中を押してくれているような。
座長さんはそのまま、すい、と遥か遠くに視線を投げた。
「自分が背中に背負ってるもんがどっから来たのか分かんなくなったら、そっからはもう破滅の道だ。せめて自由に探せるうちに、自分が背負って歩いてく荷物の種類くらいは好きなよーに決めたいじゃん?
道が長くて辛いのは変わんなくても、それが自分の出した答えならしょうがないって思えるだろ。大人になるって、結局そーゆー事だと思うぜ、おれは。よくわかんねーけど」
しばらく黙っても、座長さんはやっぱりこっちを見ない。温くなったジュースをそっと一口飲んだ。酸味の強い林檎の味が、さっきより澄んで身体に染み入る、気がした。
「…いいんですか……?何の力も無くても、ここに居ても」
「うちの連中ならそう言うと思うぜ」
それに、と彼は付け足す。
「何の力も無いのはおれも一緒だしなあ。ぶっちゃけ演劇の経験おれが一番浅いもん」
「えっ!?座長なのに!?」
「うん。大体は大地に頼ってる」
うん、って。あんまり悪びれずにさらりと言うものだからうっかり流しそうになった。…昨日の様子でなんとなく察してはいたけども!
「なんで経験ないのに座長やってるんすか………」
「さあ?言い出しっぺだからじゃね?」
「言い出しっぺなんすか!?経験ないのに!?」
「うるせーな!こっちも色々あったんだってば!」
たしなめるような口調にはまるで説得力がなく、しかも彼はそのままからからと軽快に笑う。団員にとっては全然笑い事じゃないような気がするが。道理で皆さんしっかりしてるわけだ…。
「だからさ、」ひとしきり笑った後、彼は表情を変えないまま言葉を続けた。
「光輝の思うようにやってみな。ここでお前がどういう選択しても、おれは止めない」
そこで俺は初めて、座長さんが今やっと正面から俺と向き合っていることに気が付いたのだ。
「………座長さん」
胸のつっかえが取れたように、気持ちがすっかり軽くなっていた。結露で床を濡らす安物の林檎ジュースが、今まででは考えられないくらい美味しく感じる。
―――ひょっとして、彼はずっと、このために。
「座長さん…ありがとう、ございました。俺………俺は、」
「………すぴー」
「って寝てるし!?」
ついさっきまで起きてたのに。流石にここで寝るのはまずいだろう。躍起になって肩を揺すっていると、楽屋の扉が開いた。
ある人は緊張、ある人は集中、またある人は高揚。それぞれ違った面持ちで、舞台袖へ向かう団員達が出て来る。その中には当然、アンナの衣装を身に纏った徒花の姿もあった。
ひどく表情が強張り、緊張しているのが目に見えてわかる。立羽さんや宇多方さんが励まそうとしても、あまり目立った効果が見られないほどだ。
「てめぇら、支度は済んだな?使うモンの確認も出来てる、このまま直で本番に向か……………おい起きろ風巻ィィ!!!!」
「む……大声出すなってば、お客に聞こえんだろ…」
「るせぇっ!誰のせいだと思ってんだよ!?」
……このやりとり、毎回やるのだろうか。
「ッたく。おい、徒花。……妹の方だ。
てめぇは何はともあれリラックスしろ、断じて実力が無いわけじゃねえんだからな。…流石にこうなれとは言わねえがよ」
空き缶片手にようやく立ち上がった座長さんを顎で示しながら、副座長さんが言った。徒花はまだぎこちない動きでこくりと頷いてみせる。
「徒花!」
びくっ、と音がしそうなほど大きく華奢な肩が跳ねる。まだ緊張が解けないようだけど、目は真剣だ。俺は精一杯の力強い声で言った。
「頑張ってこいよ!」
「………!!う、うんっ!」
徒花は大きく頷いて、覚悟を決めたようにとたたた、と他の団員のもとへ戻っていく。
舞台袖への列が動き始める。本格的に集中する人が増えたのか、一気に静かになった。………俺もちゃんと果たさないとな。ここでの、役目を。
『―――皆様。本日は、夢幻座8月公演にお越し頂き、誠にありがとうございます。まもなく、開演致します―――』
すっかりがらんどうになった廊下に、スピーカーから良く通るハスキーボイスが響き渡る。間違いない、水走さんの声だ。俺はふと目を閉じて、今日の舞台に思いを馳せた。それから昨日の俺のように、舞台に魅了されるであろう沢山のお客さんたちに。
『――あなたに、良き夢を!』
劇団・夢幻座の幕は、今日も開く。
sceneⅠ fin.