俺たちはヒーローじゃない Act5
息が苦しい。
おぞましい怪物達が周囲を取りかこみ、意味のわからない言葉を浴びせてくる。言葉尻のとげとげしさから、彼らがこちらを非難していることだけは痛いほど理解した。やがて多くの影のうちひとつが、こちらに向かって石のようなものを投げつけた。
一つ放てばそれに続いて、一つまた一つと石を投げはじめる。ただの石であるはずのそれは、岸内の心さえ抉り、削り落としてゆく。
誰か助けて。
叫ぶたび細かい石が口に入り、とうとう彼女は最後の抵抗を諦めた。かたく目を閉じ、体を縮め、ただ次の衝撃に怯える。早くこの理不尽な責め苦が終わりますようにと、一心に祈りながら。
―――
side:日下部光輝
速く、速く、速く。
思うたび加速する自分の体に、俺は今更ながら驚いていた。
感情や意思、つまりは《心》こそラクルイの力。風巻さんから聞いてはいたけど、こんなに体が軽いなんて。そうだ、このまま気を強く持たないと。俺の気持ちが競り勝てば、悪い奴らに勝てるかもしれない。岸内のことも助けられるかもしれないのだ。
たどり着いた場所は、俺にとっては馴染み深いところだった。
玉響総合病院。夜分で診療時間こそ過ぎているとはいえ、玄関ホールには人を拒むようなものものしい機械たちが鎮座している。家族と連れ立って中に入れば、院長の扇さんはいつも暖かく迎えてくれたが、両親に帰り際これみよがしに嫌味を言われることなど彼は知る由もないだろう。ともかく、この場所にあまり良い思い出はなかった。
その神経質に白いビル壁の一角、不自然に蠢く無数の影があった。――ラクルイだ! 一目見て確信する。見たところこの間の怪物・スカーレットはいないようだったが、重く張り詰めた独特の空気があの時とそっくりだ。胸の中に鈍い痛みと憎しみがこみ上げる。倒さなければ。これ以上、俺や実結のような目に遭う人が増えるなんてたくさんだ!
目標が定まると同時に、俺はあるものに目をつける。街灯に照らされてうすぼんやりと揺れている街路樹の、その《影》だ。わき道を駆け抜けながらそこに手を伸ばすと、すうっと自分の手に吸い付いてくる確かな感触がある。俺はそれをぎゅっと握りしめ、大きく跳んだ。
《影》。そう、俺のラクルイとしての能力の本質はそこにあった。
気づいたきっかけは風巻さんとの特訓だ。ろくに立体にすらなれない俺に頭(らしき箇所)をひねりながら、風巻さんは気まぐれのように、すこぶる軽いノリで摸擬戦を始めた。もちろん本気で戦うわけじゃないので怪我はなかったが、ただ突っ立って的にされるのも腹が立つ。「悔しかったらなんか反撃してみれば」という雑な助言に対して、俺が出した答えは、《風巻さんの動きをそのまま真似すること》だった。
ろくな攻撃手段もない俺には、とにかくまず武器が必要だ。何かそれらしいものをと咄嗟に考えた結果、ぱっと思いついたのは弓矢だった。
当たり前だ。いま風巻さんが持ってるんだから。
液体状の身体と同じように、今の俺は思い描いたものならだいたい生成できるらしい。色が真っ黒なこと以外はほぼ同じ形の弓矢を見ると、風巻さんは驚いたようだった。それからちょっと照れくさそうに一言、「うん、とりあえずはまあ、それでいいんじゃねーの」。いや、のっぺらぼうに表情も何もあったもんじゃないけど。
「彼女を離せ!」
空中から放った《矢》は、俺の叫び声とともに真っ直ぐ突き進む。怪物の背に突き刺さるかと思ったその瞬間、岸内を隠していたそいつの姿は煙のように消えてしまった。
「えっ、」
わずかに白っぽい空気の矢が、的を失ってほどける。敵方に届いたのは声と半端な風だけ。――しまった、初動に失敗した! さあっと頭が真っ白になる。さっきの矢で俺に気づいたんだろうか。大勢で岸内を取り囲んでいたラクルイたちは、一斉にこちらを振り向いた。
『ねー、邪魔が入ったんだけどぉ』
『なんだよノリ悪いなあ! せっかくこれから面白いのにさ』
『いい子ちゃんぶってんなよお、お前も仲間だろ?』
『てゆーかあんたも混ざれば? あはは見て見て、こんな情けない顔してさあ!』
黒い涙の跡をつけた怪物たちが笑っている。笑いながら石を投げている。肌に血をにじませて震えている岸内。彼女へ浴びせられる石と暴言はぞっとするほどの憎しみに満ちていて、思わず足がすくんだ。リンチじゃないか、こんなの。放っておいたら本当に岸内が死んでしまう!
「俺は、やめろ、って言ったんだぞ!」
自分を奮い立たせ、もう一度弓を構える。さすがに俺が味方じゃないことに気づいたのか、ラクルイたちの雰囲気は一気に剣呑になった。
『何、ヒーロー気取り? 萎えるんですけど』
『アタシらに、てゆーかジャック様の命令にケチつけんの?』
怯まないぞ。退かない、弱気にならない!
びゅっ、と矢を放つ。空を切り、確かに矢は狙ったラクルイに刺さったのに、やはり跡形もなくそいつは消えた。
『人間の味方するとかありえねー。危険分子認定でいいっしょ』
どうしてだ。みんな、余裕だ。図体のでかいのがさっきと合わせて二体も消えたのに、まるでそんなのどうでもいいと言わんばかりの態度だ。なんなんだ、こいつら。《仲間》が消えたのにお構いなしなのか? 動揺は、次のミスを生む。俺は既に、次の攻撃のことを忘れていたのだ。
手前にいた一体が、俺に向かって石を投げる。一つ放てば次にまた一つ……いや、そんなレベルの話じゃない! ここまで来たら多勢に無勢、嵐のような攻撃からは逃げるので精一杯だ。
いくら身軽になっているとはいえ、全部の石を避けるのは不可能に近い。不意をつかれて一撃を食らった瞬間、頭をガンっと殴られたような衝撃が襲った。
――「黙れ」。「邪魔」。「ウザい」。「なんで生きてんの?」。「消えろ」。「キモイ」。「来んなよ」。「死ね」。
突然、大量の罵声が脳内に流れ込んだ。ひっきりなしに鳴り響く心無い言葉たちは、耳をふさいでもどこへ逃げても容赦なく襲ってくる。痛い、苦しい。何の根拠もない軽口だとわかっているのに、頭では理解しているのに、ダメだ、こんなの折れてしまう。気持ちがマイナスに傾けば傾くほど、全身を打つ痛みは強さを増していく。思考は、麻痺していく。どろどろに溶けた自分の体に、汚れた泥と石が混じっていく。
――冷静になれよ。舞台も戦いも、「負けだ」って思った瞬間、負けなんだからな。
ふっ、と。自分の中から聞こえた声だった。
風巻さんの声だ。
模擬戦で不利になると動揺して、保っていたはずの「形」が崩れてしまう俺。その姿を見て笑いながら、風巻さんはいつもこう言って変身を解いた。
「逆に言や、『負けだ』って思わない限りまだ勝機はあるってこと。お前、優しいのはいいけど、精神的にもうちょっとタフになんなきゃな」
静かだ。
全身を襲っていた痛みも、じんわり残ってはいるが収まっている。不思議に思ってあたりを見回してみたら、さっきのラクルイも岸内も、もっと言ったら病院もどこにもなかった。完全な暗闇だ。
(俺は、どうなったんだ?)
なぜだか、怖いとは思わなかった。宙に浮いているような、布団に横になっているような……そう、まどろみに似た感覚。自他の境界線があいまいで、自分の身体も見えない。そうか、たぶん、これは「影の中」だ。攻撃から逃げ回っているうちに、街灯の影かなにかに溶け込んでしまったんだろう。
耳を澄ましてみると、さっきのラクルイが慌てて俺を探している声が聞こえた。さっき聞いたような醜い罵声もあるのに、さっきほど無条件に「怖い」とは感じていない自分がいた。
怖い――怖かった、すごく。
何も考えられなかった。あのラクルイたちと会ったのは初めてだし、相手は俺の何を知っているわけでもない。なのに、あんな数任せの暴言を耳にしただけで、まるで俺の人格人生すべてが否定されたような気分になっていた。もう少しあの場にいれば、ただでさえ自信のない俺は簡単に自分を責めていただろうし、たぶんそれこそ相手の思うつぼだ。どう考えてもさっきの俺は「冷静」じゃなかった――風巻さんの言葉とこの能力がなかったら、実結の二の舞になっていただろう。
そこまで考えてはっとした。冷静じゃなかったのは、相手のラクルイも同じじゃないのか?
冷静な人間は、初めて会った人間にあんなことは言わない。どうして気づかなかったんだろう。相手のラクルイだって、もとは人間じゃないか。なにかの理由があって、人間として「冷静」でいられなくなったから、だからあんな姿で他人を傷つけるしかないんだ。
ラクルイを暴走させるのは悲しみだけじゃない。強い怒り、苦しみ、あとは逆に絶望とか、放心・虚脱状態も。
それから極度の興奮状態。今回の敵の場合はそれかもしれない。あれだけ同じ意見で群れられる仲間がいるんだ。より強気に、攻撃的になるのもうなづける。全員で一斉に責めたてれば、相手に勝ち目がないのをわかっているからだ。
(……《一斉に》?)
そこで俺はある違和感に突き当たる。
何かがおかしい気がする。どこでそう思ったんだろう……風の弓矢で撃ち抜いたとたん、居たはずの敵が消えたこと。周りの奴が動じたそぶりすら見せなかったこと。確実に二体は消えたはずなのに、攻撃の手や話し声の騒がしさはちっとも減った気がしなかったこと。そもそも――そう、最初だ!
そうだ。おかしいのだ。一番はじめ、出会い頭に奇襲をかけた時。俺の攻撃は、最初の奴に当たらなかった時点で失敗していたのだ。そいつの周りの二・三体ならまだしも、全員が、それも全く同じタイミングで攻撃には気づくことはできない。《一斉に》こっちを振り向けたわけがないんだ。
ぱちん、ぱちんと頭の中でパズルが組み上がる。すべて繋がった気がした。俺は、曖昧な方向感覚の中で「上」を、地上を目指す。
いける。俺はまだ負けちゃいない。今度は俺が、勝利を確信する番だ!
ぐっ、と全身に力がこもる。
(――跳べっ!)
意識の中で叫んだのとまったくの同時。ようやく確かにかたちを得た俺の身体が、夜の空気の中へ飛び出した。




