表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
落涙 -ラクルイ-  作者: らめだす
過去編 アクター達の肖像画Ⅰ
23/34

肖像画-「ハロウ・マイ・ラブ」 後編

 ベッドに沈んで、何日も何日も考えたわ。

 あのあと私は――どんな手段を使ったのか覚えていないけれど――ホテルの一室に転がり込んだの。偽名を使って最上階にね。幸いお金は腐るほどあったし、チェックアウトの時間を告げずに内側から鍵を閉めて。

 私があの役を「やりづらい」と思った理由。簡単なことよ、彼女は《私》に似すぎていたの。愛されるために素顔をすてた、かわいらしい無垢な少女としての「子役・宇多方瞳」に。あの子は私が今まで創り上げてきた仮面そのものだった。台詞に込められた想いとか、行動の裏に隠された気持ちとか、はじめからそんなものどこにもなかったんだわ。

 私が見つけた唯一の希望が、私の全てだったものが、すべて偽物だと切り捨てられるなら。私の人生って、一体なんだったのかしら。

 堂々巡りなのは分かっていても一人で居たかった。始めのうちはマネージャーや事務所からお叱りの電話が来ていたけれど、なんだかもう全部に疲れてしまってね。良い子ぶるのもやめて適当な返事をしていたら、そのうち来る電話の種類が変わってきた。面倒だからいくらもしないうちに電源を切ったわ。

 そうしたらもう、静かなものよ。私がいなくなってしばらく騒いでいたマスコミも、次のスキャンダルが見つかればあっという間に流れていく。しょせん、そんなものだわ。事務所も、役者友達だと思っていたみんなも、誰一人《私》を心配していたわけじゃないのだもの。

 ……いいえ、「誰一人」は言い過ぎたわね。そういえばひとりだけいたわ。

 乱暴にドアをたたく音がして、その時私、数十時間ぶりに寝返りを打ってたのだけど。

「おい、宇多方! ここに居るんだろ!」

 どこかで聞いたような声がするのよ。慌ててフロントに電話してみたら、確かに来てるんですって。偽名の私を探してるっていう大地君が。

 ドアを開けないまま、もっと言うとベッドに寝転がったまま、まず率直に聞いてみたの。「どうしてここがわかったの」って。

「ちょっと考えりゃ分かんだろ。家以外に寝泊まりできて、情報管理の信頼がある場所っつったらここくらいだしな。それに偽名の『神条まきな』――てめえが今度演るはずだったドラマの役名だ」

「驚いた。随分、口の悪い探偵さんね」

 そこでやっと思い出した。言われてみれば私たち、子役時代のロケ帰りに二人ともここに泊まったことがあったのよ。大地君がまだ私のこと「瞳ちゃん」って呼んでたくらい昔の話だけどね。思い出しついでにからかってみたけど、たいして面白い反応は返ってこなかったわ。

「お互いそんな歳でもねえだろ。いきなり職場を飛び出して、何か月もこんなとこに引きこもってて許される無責任な子供じゃあねえはずだ」

「その『こんなとこ』まで、わざわざお説教しに来たのね」

「ああ、そうだ。言い訳なら俺の顔を見て言え」

「悪いけど、まだ誰にも会う気はないの。諦めてちょうだい」

「せめて納得のいく理由を説明してくれ、最悪マスターキー借りて引きずりだしてもいいんだぞ」

「私、今ほとんど裸よ?」

「…………!」

 これ言った途端黙りこくるんだもの、彼。

 あんまりおかしかったから、ご褒美にドアを開けてあげたわ。その時の大地君の顔ったら、今じゃすっかり定番の物真似レパートリーの一つなんだけどね。

 どんな顔していいか分からなかったんでしょうね。ああ、言っておくけど裸で出て行ったわけじゃないわよ? かなり薄手のワンピースだったけれど。

 イメージからかけ離れた服装。几帳面の欠片もない部屋の中。食事を摂っていなくて骨と皮になった手足。それと、にこりともしない死霊のような表情――目のやり場に困って、分かりやすく狼狽える大地君を、私はどこか冷めた気持ちで眺めていた。

「あなたの尋ね人なら居ないわよ。神条まきなは死んだ。お利口ないい子の幼馴染は、女優・宇多方瞳は、私が創り出したただの亡霊よ」

 彼、私の目を見なかったわ。それでいいと思った。本当ははじめから、こうなるはずだったんだもの。

「分かったらもう帰って。ひとりになりたいの」

「お……おい待て!宇多方!」

 大地君が我に帰るより、鍵が閉まる方が一歩早かった。なんだか一気に疲れてしまって、ドアを背にしてしゃがみ込んだ。バスルームの鏡に映った私は、笑っちゃうほど醜い顔をしていたわ。

 ドア越しに、彼が観念したように手をつくのを感じた。

「……それがてめえの本性ってわけかよ」

「…………」

「だが、だからどうしたって言うんだ。そんな事ァどうでもいい。主演ドラマ一本、まるごとすっぽかす理由にはならねえぞ」

「それならそうと事務所の人達もはっきり言えばいいのよ。彼らが一言も『仕事に戻れ』と言わないのは、求めているのが《この私》ではないからでしょう。つまりは、そういうことよ。今さらあの場所に、いいえ、どこにも《私》の居場所など無い」

「分かったようなこと言いやがって。本性がなんだ。俺はむしろ昔のいい子ぶりっ子よりか、さっきのてめえの方が好感が持てるね」

 強がっちゃって。突っ掛かるのが面倒で、言い返すのはよしたけど。

「また来る。いつまでも腐ってられると思うなよ」

 そのへんで、彼はドアから手を話したみたい。息と一緒に力を抜いたら、首が反って柱に頭をぶつけそうになった。糸の切れたマリオネットみたいだと、我ながらぼんやり思ったわ。

「おかしな噂が立っても知らないわよ」

 捨て台詞みたいにそう言って、私はそのまま、カーペットに吸われる彼の足音をなんとなく聞いていた。


 実際彼、そのあとも何度か来たのよね。さすがにしょっちゅうって訳には行かないけど、思い出したときにちらっと。根っこの性格がマメなんでしょうね、あのひと。カッコいいと思ってるのかチョイ悪ぶってるけど。

 やることといえば初日と同じ、ドアを挟んだままあの調子で押し問答。隣の人とかが何も言わなかったからよかったんだけど。彼も彼だけど私も私よね、たぶん、ふつうの登校拒否の子とかにはそういうことしない方がいいと思うわよ。

 とにかくまあ、なんだかんだで私も大地君の強がりに救われたのかしら。マスコミ嫌いの彼でしょう、こんな風にふらっと顔を出せるくらいなら、ここの周りにそういう人達は居ないってことだし。そろそろ部屋の中だけでお腹を持たせるのも辛くなってきた頃だもの、人が少ない時を狙って、部屋の外に出るようになった。

 朝食時間の終わりがけにレストランへ行って、売れ残ったパンとかを貰ってくるの。そうするとロビーを通るのだけど、そこでいつも妙なものを見るのよね。

 ロビーにはふかふかしたソファーが何台かと、奥のほうに大きな薄型テレビがあった。そのテレビの真正面に、小学校中学年くらいかしら、いつも同じ男の子がひとり座って、かじりつくように番組を見ているの。毎日、毎日よ。四、五日すれ違ううちに、着ている服がずっと同じだってことにも気がついた。

 それだけならまだ《妙なもの》とまでは言えないわね。ちょっと不思議に思ったものだから、その子が何をしているのか観察してみたの。

 見ている番組の種類は様々だった。ニュース以外のものはなんでも……ドラマ、バラエティ、それからアニメも見ていたけど人形劇はダメ。年相応のチョイスかと思ったんだけれど、極端に小さい子向けの童謡番組とか、知識人を招いた政治討論なんかも見ていたし、どうも、ただ趣味で見ているのとは違うらしいのよ。

 もっと詳しく見てみると、その子は何か気がつくたびに小声で何か呟いていたの。

 

 ――全身に電気が走ったみたいだった。また、あのすべてが繋がる感覚。

 見ていた番組の共通点。重要なのは番組の内容ではないの。「生身の人間が出ているかどうか」ともまた違って、求めていたのは、むしろ。

子供向け番組は無邪気な笑顔。政治討論は理不尽への怒り。ニュースと人形劇を見ないのは、その両者では彼の欲しい情報が……「表情」が見られないから。


 あれは、かつての私の姿だわ。


「『喜び』は眉を上げては駄目。『楽しさ』のときの笑顔とは区別をつけて。目を細めるときは頬を持ち上げるより、顔の上部から力を抜くイメージで」

 思わず声をかけてしまった。男の子は一瞬不思議そうな顔をしたけれど、やがて私の言葉に従ったの。随分と筋のいい子なんだわ――すぐに、さっきのテレビの中身と同じ顔が私の前で完成したわ。

「そう……上手よ」

 かれは同じ顔のまま「ありがとう、おねえさん」と返事をしたの。その瞬間になってようやく我に返った。私、一体何をしてるのかしら、って。途端にきまりが悪くなって、その日はそれきりでその場を後にしたの。


 けれど次の日も、その次の日も、やっぱり同じようにそこでテレビを見ているのね。顔を覚えられてしまったものだから、会うたびに挨拶までしてくるの。無視するわけにもいかないし、なんとなく私も隣に座って、またいろいろと何か言う羽目になってしまって。

 やめなくちゃ、やめなくちゃって思うのだけど、どうしてもその子のことを放っておけなかった。かれを昔の自分に重ねて、人ひとり救った気分になりたかったのかもしれない。実際、かれはいつも一生懸命だったわ。とてもよく笑う子なの。褒めてあげたら、嬉しかったのかしらね、もっとよく笑顔を見せてくれるようになって。歳のわりに子供っぽい言動が目立つけれど、きっとその分素直なんだわ。だからこそ、これ以上私のエゴに付き合わせるわけにはいかなかった。

 私が彼に教えている《処世術》は、一時的に人目を欺くためのまやかしでしかないのだから。いつかはボロを出すか、嘘の自分を演じ続ける孤独に心を蝕まれることになるでしょう。そうなれば最後、築き上げた偽りの幸せは瞬く間に崩壊する。暗い現実にたたきつけられて、底無しの絶望に身を沈める――ちょうど今の私のように。あの子まで私と同じ苦しみを味わうべきじゃない……そうよ、そんなことを思える程度には、私はあの子のことをいとおしく思っていたの。

 かれを愛すればこそ、別れを告げなければと思った。もう昨日までのようにお話はできないから、今後は赤の他人に戻りましょう、なんて。言葉にしてみれば随分自分勝手だけれど、そうするしかないじゃない。今のままでは、彼はきっともっと不幸になるだろうだから。

 そうしてある日、私はついに覚悟を決めた。

 いつも通りにロビーのほうまで行ったのだけど、なぜかその日に限ってあの子はいなかったの。そのうち来るかと思って、一時間待ち、二時間待ち。一緒に見ていた連続テレビドラマも終わったら、さすがに私も諦めることにした。風邪でも引いたのかもしれないし、そもそもここはホテルなのだし。親御さんの都合が済んで、チェックアウトしたのかもしれないわ。さよならも言わずになんてあの子らしくないけれど、別れの形としてはそれもいい気がした。

 これ以上待っても仕方ないと思って、私は部屋へ帰ることにしたの。普通にエレベーターに乗って、普通に廊下を進んでいって。

 普通じゃないなにかに気が付いたのは、私の泊まっている部屋が見えてすぐのあたりだわ。


 怒声と、悲鳴が聞こえる。それから、なにかをぶつける鈍い音。

「ーーーけるな、親子そろってーーーーてーー」

「やめてあなた、わたしはーーーーが全部ーーーー」

「ーーの教育がーーーーーーの男のーーーー」

「ーーーーして、ーーーーは違うーーーーーお願いだからーーー」

 どこかの部屋の中からだった。怒っているのは男の人で、悲鳴は女の人。ただの喧嘩にしてはあまりに一方的だし、何かをなぎ倒すような音で声は途切れ途切れ。中で暴力沙汰が起こっているのは間違いなかった。

 大変なことになっている。そう直感した私は、必死で頭を回転させた。中で騒ぎを起こしている人たちのことは何も知らない、私に直接できることはないけれど――そうよ、通報。とにかくこのことを誰かに知らせなくては。ただでさえ平日の真昼間、ホテル内に人の少ない今では、私がやらなければ取り返しのつかないことになりかねないわ。

 廊下を這うようにして、隅に備えつけてある内線電話に近づいた。一歩動くたびに怒声は大きくなる。厄介なことに、電話がある位置は問題の部屋を曲がってすぐのところにあったの。死角とはいえ、危険な場所ね。

 ヒートアップする罵詈雑言に片耳を塞ぎながら、震える指でフロントに繋ぐ。ホテルスタッフの案内さえ聞かず、部屋番号と要件だけ口早に伝えようとした、そのとき。


「パパ、だめだよ。女のひとに暴力はよくないよ」

 ――――あの子の、声だ。

 あの部屋の中にあの子がいる。


『もしもし?』

 もう電話の声も耳に入らなかった。あの子の声がした瞬間、部屋の騒音が不気味なほど静まり返ったの。次の瞬間、ガラスの割れる音と、これまでで一番ひどい、感情的な言葉が廊下にまで響き渡った。

『……お客様、後ろの音は………お近くの部屋で何かございましたか? もしもし、お客様!?』

 答えようとしたけど、駄目だったの。口を開こうとした瞬間、その部屋のドアが蹴破られたから。

 悪態をつきながら出ていく男性と、泣きじゃくりながら追いすがろうとする女性。私は息を殺してその場にうずくまるしかなかった。内線に出たホテルスタッフの人は、何か察したのか『そこから動かないでください』と言い残して電話を切ったわ。

 女の人はしばらく男の人を呼んでいたけれど、帰ってこないと分かったのかしら。正気を失った人のようにぶつぶつ何かを呟きながら、男の人の去った方をフラフラ彷徨っていた。

 そのあたりで私はようやく我に返ったの。息を整えながら、何が起こったのか考えようとした。だけど唯一分かったのは、どういう経緯で事件が起こったにせよ、あの男の子が危険だということ。

 まだ、部屋の中にいるかしら。あの二人が夫婦にせよ誘拐犯にせよ、あの歳の男の子があんな恐喝に――しかも、一度や二度じゃないかもしれない――晒されて、精神的にも肉体的にもまともでいられるわけがない。テレビの前でのあの行動も、異常な周辺環境のせいで歪まされたものだったとしたら? なおさら、放っておけない。かれは私とは違う。かれは、幸せになれる存在だから。

 私があの子を連れて逃げるのだ。それ以外頭になかった。私がかれを救わなくてはと、当時は本当にそう思っていたのよ。愚かな、話だけれど。

 気が付い時には件の部屋の前にいて――目の前には、さっき出て行ったはずの女の人が立っていた。

 息が止まりそうになったけれど、不幸中の幸いというか。正気を失っているらしくて、目の前に私がいるのに気付いてさえいなかったの。さっき出ていったときと同じおぼつかない足取りで、部屋へ戻ってきた。

 生気のないまなざし。けれどそれは、鏡に映る私自身のそれとはまるで違った。例えるならなにか、深く暗い絶望の底で、不気味にゆらめく炎のような。

 部屋の中のかれが振り返る。このとき、私にも部屋の中身が見えた。あの音のとおり、いいえそれ以上の地獄絵図がそこには広がっていて。割れたガラス、ぼろぼろの洋服、壊れた家具、壁に突き刺さった無数のナイフ。かれは、当然のようにその真ん中にいて。

 男性を失い、ただならぬ様子で部屋へ戻ってきた女性に向かって、何の迷いもなくこう言い放った。

「おかえり、ママ」

 私が褒めてあげた、嬉しそうなあの笑顔で。

「あんたのせいで……」

 すぐ側で、声が聞こえた瞬間だった。人間離れした速さで男の子に飛びかかった女性は、

「あんたのせいでェ!!」

 身もすくむような金切り声で、確かにそう叫んだ。

「これで何度目だと思ってんの!アンタがくっついてるせいで、何人の男が離れていったと思ってんのよォ!? あんたが!あんたが気持ち悪いからっ!!」

 私の眼の前で、かれが「ママ」と呼んだ女性は、私の方へ背を向けてギリギリと小さな首を締め上げる。顔色が変色し、息をするのさえ苦しいはずのあの子の表情が見える。人懐っこい笑みはそのまま、心底不思議そうな顔をしていた。

 ああ、この時ようやく気がついたわ。私はこの子に対して、何かとんでもない勘違いをしていたんだと。

「何よ、その顔。なんとか言いなさいよぉっ!!」

 この子、《わかってないんだわ》。

 気づけばかれの足はとっくに宙に浮いていた。めちゃくちゃにわめく女性の声に、いつしか恐怖が滲んでいた。私は、なによりそのことがおそろしい。

「死ねっ、死ねよ!殺してやる、このxxxx――」

 私から見えない顔は、かれが見ている『ママ』の表情は、きっと、私の絶望と同じ色をしているから。

「やめてえええええ!!」

 叫んだのは、私だった。

 瞬間、私の真横をざっと通り抜ける人の群れ。ホテル内の警備の方かしら、大人の男性が数人がかりで女性を引き剝がしにかかった。

「おとなしくしてください!」

「くそっ、押さえつけろ!」

「何だこれ、どうなってるんだ!?」

 割れたガラスを更に踏み割って、女性はまだ何か叫び散らす。突然の乱入に手が緩んだのか、あの子はようやく解放された。切り傷だらけのカーペット、あちこちへこんだフローリング。その上にくたりと座り込んだかれは、しばらく一切の表情を亡くしていた。

 後ろの騒ぎとは別の次元のような、不気味な沈黙だった。それでもかれは私に気が付いて顔を上げる。

 あの時のかれを、あの時の私を、私は一生忘れはしないだろう。

「こんにちは、おねえさん」

 私の胸に、たった一つ初めての思いが溢れ出す。


 ああ、私が、普通の女の子でなくてよかった。


「こんにちは。あなたとここで会えて、幸せよ」

 こうしてかれを抱きしめることができるなら。

「今日も会いに来てくれたんだね。ぼくも嬉しい、嬉しいよ。……おねえさん、泣いてるの?」

「ひとはね。たまらなく幸せなとき、涙を流すことがあるのよ」

「ほんとう?おねえさんは、《幸せ》なの?」

「ええ、そうよ」

 不思議そうに繰り返すかれの顔を、見てはならないと思った。一回り小さい頭を自分の胸に抱きながら、その髪を撫でてみる。久々に口に出した、真実だった。

「おねえさんは、変わり者なのかな。

ぼくといると不幸になるって、まわりのひとはしょっちゅう言うんだ。お前なんか憎まれて当然だって。おねえさんは、そうは思わないの」

「思わないわ。人を愛するとは、そういうことだもの」

 くぐもった声から、少しずつ《笑顔》が消えていく。最後にぽつりと聞こえた命題。

「ぼくも、いつかおねえさんみたいな気持ちになれるのかな」

 そう、これが、かれの真実ならば。

 なれるわ、と、はじめに発した一言は、震えたけれど。

「なれる!あなたは幸せになれる!どこかが他人と違ったって、同じ夢を見ちゃならない理由にはならないの。苦しくても難しくても、望めば救いを掴めるのだと、なんなら私が証明してみせるから、だから!」

 あなたも幸せを諦めないで。

 言葉は、かれに届いたかしら。私の意識は、どうしてだかそこで途切れた。



ーーー


 次の記憶は、病院のベッドまで飛躍するの。

 私にも状況はよく分からなかったのだけどね。ただ「私はホテル内での暴行事件に巻き込まれ、子供をかばった拍子に負傷」し、「子供は別の病院で療養中である」ということだけ伝えられたわ。

 サスペンスドラマの一幕みたいで、どうも現実味のない事件だったのよね。実際、「負傷」って言うわりに身体はどこも痛まなかったし。はじめは現実逃避の末に見た妄想の類かと思ったくらいだわ。

 でも、はっきり覚えてることがあって。

 抱き締めたかれの冷たさと、柔らかい髪の感触。それから自分が言った言葉。記憶の中にこれだけの《リアル》があれば、それが現実かどうかは関係ないから。

 ベッドの周りにはやはりというか、医師や看護師以外にも昔の関係者が控えていた。意識がはっきりして難なく起き上がれた私は、その一人に言ったの。

「動けるマスコミをできるだけ集めてちょうだい。記者会見を開きたいの」


ーーー


 芸術(こっち)の世界において、「リアル」とは必ずしも「現実的である」ということを指さないの。実際私自身もそういう基準で「真実」と、「事実」「現実」という言葉を使い分けているわ。

 どんな嘘や偽りや、ご都合主義のツクリモノの中にも、「真実」ってあると思うのよ。たとえば私と(あのひと)が、歪ななかでも必死にお互いを愛そうとしていたこととか。たとえばあの男の子が、最後にぽつりと言った反語の願いとか。

 俳優や脚本家が、舞台やファンタジーの物語に込めるものもきっと同じ。そんな風に思えたら、私も少しは「嘘」じゃないお芝居が出来るようになった気がするわ。いちばん世間から持て囃されてた頃はこんなことにも気付けなかったなんて、なかなか皮肉な話だけれどね。

 そういうわけで《女優・宇多方瞳》は、一度死んだけどまだ生きています。

 夢幻座のメンバーとしてゼロからお芝居を始めた私が、思いがけずあの男の子と――人見(ひとみ)流星(りゅうせい)と再会するのは、もう少し先のお話。


宇多方瞳復帰記者会見 全文


 本日は急な発表にも関わらず、お集まりいただき誠にありがとうございます。

 まずは謝罪させてください。突然の失踪で、関係者の方に多大なご迷惑をおかけしたこと、本当に申し訳ございませんでした。親しい方やファンの方には、心配して下さっていた方もいらっしゃったかもしれません。芸能人として不誠実であったと、心より反省しております。

 今回の失踪の理由についてですが、いま私の顔をご覧になっている方はもうお気付きでしょうか。念のためお伝えしておきますが、これは、現在の私の感情を表すものではございません。これが、《本当の宇多方瞳》なのです。

 出演させていただいた舞台やドラマ、バラエティ、その他プライベートに至るまで、多くの方は私を普通の女の子だと考えていらっしゃったと思います。私は、自分自身の無表情が嫌いで、それを隠すためにお芝居を利用していました。皆様がご存知の《子役の宇多方瞳》は、私の理想の姿でした。つまり、普通の幸せを、愛を欲した私が作り出した、偽物の私なのです。

 あの日私は、この《偽物の私》が急に恐ろしくなったのです。理想を演じることは、周囲の方々を騙すことになってはいないかと疑いました。偽物の私が得た愛は果たして本物なのかと疑いました。何もかも信じられなくなって、私はとうとう全てから逃げ出しました。そうして、今までずっと逃げてきたのです。

さて、冒頭で、私は今までのことについての謝罪を述べました。しかし本日はもうひとつ、これからのことについて、皆様に謝罪しなければならないことがございます。

 私は、今後一切、皆様がご存知の《子役の宇多方瞳》として皆様にお会いすることはできません。

 信じて待っていて下さった関係者の方、ファンの皆様を二重で裏切ることになってしまい、本当に申し訳ございません。けれど私はもう、これ以上自分も皆様も騙すようなお芝居を続けられません。それは、私をここまで連れてきてくれたお芝居そのものを冒涜することでもあると考えるからです。

 今までの自分が間違っていたことを思い知り、絶望に暮れていた時、ある出会いが、愛すべき人との出会いがありました。

 本当の自分から目を逸らすのが間違いならば、大嫌いな本当の自分を受け入れて、本当の幸せを探すのだと。そういう人生もあっていいのだと、胸を張ってその人に伝えると。一方的にではありますが、約束したのです。

 私の選択が正しいのかどうか、私にはよくわかりません。多くの人に不満を残す、芸能人としてふさわしくない答えだと、自分でも思います。私を間違っているとお考えの方は、批判してくださっても石を投げてくださってもかまいません。覚悟はできているつもりです。もう逃げません。

 最後になりましたが、今の私の本心を、言葉以外の方法で皆様にお示しできないことを、大変心苦しく思います。

 ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ