肖像画-「少年は恐怖した」 前編
「……よし。ひとまずはこのへんにしとくか」
大槍に見立てた棹を置き、土橋大地はふうっと息を吐き出した。
「ありがとうございました。おつかれさまです、土橋サン」
相対していた這原もその一言で肩の力を抜いた。にこやかに一礼し、稽古用の短剣をしまう。
夢幻座の新作舞台「カンタレラ」の第一幕クライマックス、ヤンとラヴァルの決闘シーン。土橋演じるラヴァルは、親友同士だったバートリーに決別を言い渡した帰り道、運悪く出くわした復讐鬼カンタレラ——つまり、這原扮するヤンと死闘を繰り広げる。激しい戦いの末ついにラヴァルが敗れ、カンタレラではなくバートリーの名を絶叫して事切れる。そしてなんとか勝利したヤンに観客の視点が移り、そこからは彼を主軸とした物語が展開……場面の盛り上がりもストーリーの分岐としても、非常に重要な場面だ。
互いに軽い水分補給を済ませる。無言だが、居心地は悪くない。土橋は床に腰を下ろして、自分の台本とメモを広げる。
「こういう本格的な殺陣、実は初めてなんですよ」
うまくできるかずっと心配で、と這原が零した。ほう、とわずかに目を丸くする。初めてで、これだけの完成度にまで仕上げてくるとは。
「流石、筋が良いな。普通なかなかこうはいかん」
「そんな……買い被りすぎです」
しかし実際、彼の飲み込みの早さにはまったく目を見張るものがあった。行うべき行動の型やパターンを一瞬で盗み、あっという間に消化してうまく自分のものにしてしまうのだ。観察眼が優れているのだろう、と土橋は思った。演技にせよ殺陣にせよ、彼の功績の裏にあるのは他人の《観察》というたゆまぬ努力だと。そして、そんな彼を少しうらやましくも思う。
「似てますよね」
這原が唐突に言った。はじめ自分に言われているのがわからず、反応が遅れる。
「何がだ」
「ラヴァルと土橋サンですよ」
開かれたページは決闘の直前。バートリーとラヴァルが喧嘩になる場面だった。
「っていうか、この二人の関係が似てるのかも。座長サンと副座長サンに……なんて、言ったら怒られるかな」
土橋は顔をしかめたが、その後は特に何を言うでもなかった。
孤独に耐えかねて、ひとり吸血鬼としてのタブーを犯したバートリー。獲物のはずの人間を思いやる優しい心から、仲間達のコミュニティから浮いている描写もある。ラヴァルはそんな彼とどうしてずっと一緒に居たのか? 彼を演じるにあたり、その問いは避けては通れまい。土橋は瞬時に結論に辿り着いた。
(《放って置けねえ》と思ったからだろ)
結局、ラヴァルは最後までーー最期までバートリーを理解することはできなかった。しかし、理解できないことと友情を抱けないことは、必ずしもイコールにはならない。
絶交としてバートリーの根城を後にした後も、ラヴァルはなんだかんだでまた彼の元を訪れるつもりだったのではないか。いくら話をしても分かり合えないと知っているのに、それでもまたわずかな希望を持って……ラヴァルとはそういう男だと、土橋は解釈していた。
理解できないことは恐怖だ。
たとえば想像の範疇を超えた圧倒的な力。自然現象であったり、権力であったり、人間はそういった恐怖をどうにか克服しなければ生きてゆけない。そのために科学を発展させ、宗教を作り、ある時は革命さえ起こしてきた。歴史の始まりにはいつだって、自らの存在を脅かす恐怖がある。
それでいい、と土橋は考えていた。そういうものなのだ。所詮人間も、恐怖に追い立てられることでしか前に進めない生き物。
それに、彼は思う。怯えながらひた走るよりもっと愚かなことは、すぐ後ろに迫っている強大な力に気がつかずにいることだと。自分自身がいかに矮小な存在か理解しない限り、恐怖という感情すら抱くことができない。「怖いものなし」の末路に待っているのはただ、堕落だ。
そう——「主役潰しの土橋」にだって、怖いものくらいあるのだ。
肖像画-【少年は恐怖した】
役者の道に進むには、そこそこ恵まれた環境で生まれ育ったと思う。
親父はそこそこ名の知れた映画監督、お袋は彼と共通の友人を通じて知り合った一般人女性。
今から考えればお袋の苦労は計り知れない。ほぼ女手ひとつで子供の世話をしつつ、たまに親父関連でバラエティーやらマスコミの応対に駆り出される日々。もちろん肉体的にも精神的にも楽なものではなく、仕事に呼ばれた日は決まって疲れた顔で帰ってきた。宇多方と違って、俺が昔からメディア露出を毛嫌いしているのは、実のところ半分はそれが理由だ。
俺が生まれた頃には、お袋はもうすっかり芸能界にウンザリしていた。だから居間ではほとんど自分からテレビをつけることはなかったし、親父の仕事についてもなんだかんだではぐらかされていた気がする。
しかし兎にも角にも忙しいもんで、多少モノの分別がつく年頃になると、親父はちょくちょくガキの俺を職場に連れ込むようになった。当然仕事の邪魔にならないよう隔離された部屋にだが、それでも関係者とまったく接触がないわけじゃあない。俺のことを知ると、撮影の合間を縫ってわざわざ構いに来る連中も居て——《師匠》は、その中の一人だったわけだ。
頂岳祥一朗って、わかるか? もう今時の連中は聞いたことがないかもしれんが、俺を本格的にこっちの世界へ導いた人だ。自身が日本最高峰とまで言われた名優であったほか、個人で教室を開いており、次世代の俳優の育成においても多大な功績をあげたことで知られている。そんな男が、ひょっと俺に興味を持った。
俺の何がそんなに面白かったのかは知らん。我ながら可愛げのない子供だったと思う。無愛想は生まれつきだ、親父の職場にもそこの人間にもそれなりの興味はあったが、どうも表に出すのが癪だと思ってた。
気難しい子供に周囲がまごつくのを見て、派手に笑い声を立てたのが頂岳だった。頂岳はその時点で既に結構年を食っている。当時の俺からすりゃあただの知らねえオッサンだ。その知らねえオッサンに顔見て突然笑われりゃ腹も立つ。だが頂岳は俺が睨みつけても、目尻にある笑い皺をいっそう深くするばかりだった。
それどころか、
「このフテブテしい面、気に入った!」
こんなことまで言ってのけやがった。そしてグシャグシャと雑に俺の頭を撫でると、わかりやすく曇った俺の顔を見て、また大声で笑った。
その後間もなく、親父も頂岳が俺によくちょっかいを出していることに気付く。もともと互いの腕を信頼し、プライベートでも気心の知れた仲だったらしい。一度そういう話題にでもなったのか、ある日親父は特別にと、俺を収録現場に案内した。
そこで俺は、はじめて頂岳や親父達の《職業》について知ったのだ。
……もう、改めて説明するまでもねえだろ。衝撃的だった。親父の合図一つでその場にいる全員、文字通り《人が変わっちまう》んだ。親父が魔法使いに見えた。
どうしてこんな面白いものを、今まで知ろうともしなかったんだろう。我がことながら無性に歯がゆくなった。意地っ張りがいちばん損をするのは、こういう時だ。
翌日から俺は、自分から親父の職場に行きたいと言い出すようになる。ガキなりに精一杯熱心に頼み込んで、前みたいに現場を見せてくれとせがんだ。親父ははじめ驚いたが、悪い気はしなかったらしい——それで、ある気まぐれを起こした。契約先の事務所の、同年代の子役と一緒に、ひとつ小さい役を俺にやると言いだしたのだ。
本当に奇跡的な気まぐれだった。親父はもともと、個人的な好みや人柄で役者に仕事を与えるようなことはしない人間だ。その親父がなんの経験もない俺を使うと言いだしたのだから、周りはえらく驚いたらしい。息子が自分の仕事に興味を持ったのがよっぽど嬉しかったのか……とにかく、そんな事情は露ほども知らず、俺は無邪気に期待した。親父が作る魔法の世界の仲間に入れてほしくて、前の晩からずっとうずうずしてたんだ。別にいいだろ、俺にだってそんな時代はあったさ。
俺と同い年か……いや、一つ二つ下くらいのチビどもに混じり、喜び勇んでスタジオ入りした。そいつらの見学に来ていた親や今回のシーンに出ていない役者、そして頂岳祥一朗に見守られる中、生まれて初めての撮影は始まる。
————結果は散々だった。
映像は探せばまだどこかに残っていると思う。まったくひどいザマだ。まあ普通に考えりゃ、芝居ってものがどういうものかも知らねえガキに「芝居をやれ」とは、モグラに空の絵を描けと言ってるようなもんだ。親父も驚いたろう、俺の認識がそこまでだとは思っていなかったらしい。お袋が俺にほとんど芝居を見せた事がなかったのも、その後で初めて知ったようだしな。
当然そのシーンは没だ。さっぱり意味がわからなかった。「なんだ今のは、俺が思ってたのと違うぞ」ってわけだ。周りのチビどもに何が起こったのかも分からん、どうすればよかったのか……いや、そもそも何かしなきゃならねえもんだったのか、それすら分からん。はっきりしていたのはただ、ここにいる人間の中で、俺だけが道理の分かってねえ間抜け野郎ってことだけだ。
余所者の醜態を目の当たりにしたチビどもはいろんな意味で残酷だったが、もっと残酷なのは親たちだ。そりゃあ、監督とのコネってだけで我が子の見せ場に土足で踏み込まれ、挙句台無しにされちゃあ文句の一つでも言いたくなるだろうが。その頃の俺だって馬鹿じゃねえ、芝居のなんたるかが分からなかろうが、自分に向けられた聞こえよがしの皮肉くらい分かる。だが、何もできなかった。落ち度はどう考えても俺の方にあるからだ、それが分かっててぎゃあぎゃあ喚き散らすのはみっともねえ。だから耐えた。半べそかきながらな。
出来なかったことに対してなのか、馬鹿にされたり悪口を言われたことに対してなのかは忘れたが、とにかく悔しかったことだけは覚えている。地球ごと呪い殺さんばかりに床を睨みつけていると、下から覗き込んでくる見知った顔があった。
頂岳だった。
頂岳は珍しく黙って俺の手を引いていくと、チビども、もとい子役の引率の人間に「台本貸せ」と一声かけた。そいつの鞄から出てきた紙束を取り上げ、慣れた手つきでめくってみせる。
「お前さん、字は読めんのか」
「……だいたい」
「そいつぁいい。ほれ、ここがさっき撮ったトコだ」
示された文字列には多少わかりやすく振り仮名がついていたものの、まったく妙なシロモノだった。ト書き形式の文書なんざ、六つだか七つだかの子供にそうそう見る機会はない。
なんとか解読してやろうと奮闘する最中、頂岳は簡単にあらすじを話した。恋愛要素ありきの家族もの。俺の役どころとしては、ヒロインの出身地域に住む子供の一人……親父の奴、「撮影の流れを見てればなんとなく察しが付くだろう」とかなんとかでこの程度の説明も寄越さなかった。買い被りもいいところだ。
「土橋監督! この役ってなんか名前あんのか」
「いや、そこまでは考えていないな」
「ふむ……じゃあ、お前さんの名前でいい。名前は」
「ダイチ」
「そうか、ダイチか」
頂岳は頷き、俺の正面に回った。
「いいか? ダイチ、お前さんは今までずーっと長い間、大好きな仲間の帰りを待ってんだ。待って待って待ち続けて、それでたった今、ようやくそいつが帰ってくるっつー情報を掴んだ! 手紙が来たんだ。あいつが持ってる封筒の中身がそうなんだよ」
さっきのチビどもの中でリーダー格らしいのを指さす。と、頂岳は唐突に言った。
「お前さん、何が好きだ? なんでもいいから好きなもん言ってみろ」
「……カレー」
「良いねェ。よし、じゃあお前さんが夕方になってよ、すげえ腹ァ空かして家に帰って来んだろ。
台所に行ったら母ちゃんが一所懸命野菜を切ってる。まな板の端に人参とジャガイモと玉葱の切ったのが置いてあった、もしかしてと思うだろ? 思い切って訊くよな、今日の晩飯はカレーかって。そしたら言われた、その通りだとよ! お前さん、その時どうする?」
よしッ、と小声で叫んでガッツポーズを作ると、「そうだ、うまいぞ!」と大げさに褒められる。
そうしてさっきの没カットの映像に映る、右も左もわからずにただ突っ立っているだけの俺を——《ダイチ》を指さして言った。
「《こいつ》は、本当はさっきのお前さんみてえな気持ちだったんだ。
わかるか? たしかにここに居るお前さんは、あの手紙の価値も手紙の送り主のことも何も知らねえ。あんな手紙一通見たって嬉しくもなんともない、むしろ馬鹿にされて腹が立ってるかもしれねえな。
だがなダイチ、芝居ってのは、『無いものをまるで有るみてえに、有るものをまるで無いみてえに』見せる技なんだよ。手紙の送り主との思い出は、お前さんに無くても《こいつ》が持ってる。父ちゃんと一緒に仕事してる俺らみたいな連中は、そういう芸当ができるように鍛えてるワケだ」
「鍛えたら俺もできるようになる?」
「そうとも」
力強く頷いて、頂岳は意味深に片目を瞑ってみせた。
「そうなりゃ——《次》はもっと、やれるようになるかもな?」
《次》。
次のシーンの撮影のため去っていく頂岳を見ながら、その言葉で頭がいっぱいになった。
さっきの没カットには当然納得できない。やり直せるもんならやり直したいが、さっきあれだけヘマをやらかした以上、親父は俺を役者として使うというのを案ごと取りやめるだろう。それに今もう一度やったところで、少しマシになるにしてもたかが知れている。
だが、このまま終わるわけにはいかない。
馬鹿にしてきたチビどもを見返してやる。しかしそれだけじゃねえ、本格的に興味が湧いちまったんだ。頂岳がチラッと見せた新しい世界の片鱗を、確かめないでは終われない。ここで踏み込まなきゃ、本当にただの間抜けか腰抜けになっちまうってな。
《師匠》はとにかく、人をその気にするのがうまい人だった。




