エピローグ、または新たなるオーヴァーチュア ‐ようこそ劇場へ‐
side:日下部光輝
「…………」
ここは何処だろう。
見たことのない部屋だ。そう広くはないが、壁やばかに遠い天井に古めかしい装飾が施された、ちょっと時代錯誤な高級感のある個室。わずかに体を起こすと、節々の痛みと同時に背中でスプリングが軋む音がした。どうやらここはソファらしい。体にかけられていた毛布が、赤茶のカーペットにずるりと落ちた。
「……目ぇ醒めたみたいだな」
聞き覚えのある声がする。辺りを見回そうとしたが、かなわない。頭痛と喉の痛み、おまけになんとも言えない倦怠感……
「あぁ、そのまま横んなってな。今しんどいだろうし。
頭は痛いし喉も痛い、おまけになんとも言えない倦怠感——そんな感じだろ? 《最初の時》は」
声の主……姿を見せた彼は、まるで同じ経験をしたことがあるかのようにピタリと俺の症状を言い当ててみせた。
「……座長さん?」
「風巻でいいよ。……こーゆー形で、夢幻座の団員と関わるつもりはなかったんだけどな」
灰色の長い髪は少し乱れていて、声のトーンも重い。結び損ねた横髪で表情が陰って見えないが、疲れているのは明らかだった。曖昧な息を吐き出した彼に、湧き上がる疑問をぶつける。
「あの……ここ何処なんですか? 俺、どうしてこんな場所に……」
視線が合わない。座長さんは押し黙ったまま床に落ちた毛布を拾う。骨張った手にぐっと力が入った、ように見えた。切り傷だらけの腕に巻かれた、いつもの黒いリストバンド。
黒。
真っ黒。その色が、すべての記憶を呼び醒ました。
そうだ。
「……実結、は」
そうだ。
「あ、あいつはッ!!」
「————ごめん」
勢いこんで跳ね起きる。掴みかかるように、すがるように見上げた俺に、座長さんはやはり目を合わせない。消え入りそうなほどの小さな声で、彼は言った。
「間に合わなかった」
たった一言。それだけで現実を思い知るには十分だった。
あの出来事は何一つ夢なんかじゃなかったのだ。いきなり怪物に襲われて、逃げ切れないと諦めた俺をかばって、実結は。実結は。
鈍い痛みで初めて、膝から力が抜けていたことに気が付いた。身体の中でまたあの感覚が甦る。胸の奥と眼の奥が冷たくなり、ドロドロとした罪悪感をまとって気分の悪さが頭の中を何度もつっかえながら回転する。
「……俺のせいだ」
あのとき硝子の檻を破って、実結を止めに行けていれば。あのときもっとよく逃げ道を考えていれば。もう少し諦めずに走っていれば。あのとき躊躇なんかせずに、さっさと彼女を帰してやれていれば。あのとき成功に舞い上がってなんかいないで、ちゃんと彼女を守れていれば。
もしもの話で作れたはずの分岐点。けれど、そのすべてにどこか真実味がない。俺はきっと、たとえ今日が何度繰り返されたとしても、同じように実結を失うのだ。そんな妙な確信があった。だから悔しかった。
あの声が言っていた通りじゃないか。
「俺は何もできなかった……実結が覚悟を決めて戦ったのに、俺があのときしたことなんて、諦めることだけだ!」
「光輝、」
「俺のこと庇おうとしなかったら、あのとき横に俺がいなかったら、あいつ……!」
「光輝!」
力強く肩を掴まれる。自分がみっともないことを言っているのは分かっていた。でも駄目だ、座長さんに言ったって仕方がないのに、言って何が変わるわけでもないのに、止まらない。
「なんで実結が死ななきゃならなかったんだ! あいつは俺みたいな奴のために死んでいい人間じゃないんだっ、あいつを差し置いて俺に生きる価値なんか——」
「それ以上何も言うな!!」
強い声。こんなに声を荒げる彼は初めてだった。次の言葉を繋げなくなった俺に、風巻さんはそっぽを向いて呟くように言う。
「……いいよ。お前が本気でそう思うんなら、おれが今すぐここでお前のこと楽にしてやってもいい。お前をもう一回スカーレットの前に放り出すくらいなら、そのほうが手っ取り早いしな」
けど、と彼は続けた。
「お前まで居なくなったら、今日お前と居たときの実結のこと覚えてる奴は誰もいなくなるんだぞ。あいつがどういう覚悟でラクルイになって、どういう気持ちで戦って、守りたかったお前に最後に見せた表情も。全部忘れられて、そのうち何もかもなかったことになる。そのことを実結自身がどう思うかは分かんないけど、お前は? お前は、どうなんだ」
目の前に放り出されたのは、見覚えのある小道具。『曾根崎心中』のときに使った、実結が最期まで握りしめていた脇差のレプリカだった。木切れと段ボールで作ったはずのそれは、戦ったときの返り血で黒く汚れてはいたけど、どうしてか何処も曲がらずにしゃんと形を保っている。
あいつが生きた証。
「……そのへん、ちゃんと考えてからどうするか決めな。選ぶのはお前だぜ、最後のあいつのこと知ってるのは、おれじゃないからさ」
「…………俺は」
柄をぐっと握りしめる。真っ直ぐな刃を、食い入るように見つめた。
「……ずっと、持ってます。これ」
「そっか」
返事はそれだけ。でも背を向けたままの彼は、その後わずかに微笑んだような気がした。
「さて!」 場面転換のように手を打って、風巻さんはくるりと振り返る。
「お前もラクルイになっちゃった以上、これから色々と知らなきゃなんないことが山積みだな。これからどうするにしろ、とりあえずはある程度《こっちの世界》ってモノを分かっとく必要がある。たとえば、お前が今どういう状況なのか……とかな」
ビシッと指を差され、 ようやくまともに頭が動きはじめる。 そうだ、そもそも俺はなんでここにいるんだろう。風巻さんは俺のことだけじゃなくて、実結のことも知っているようだった。あいつは秘密にしてたはずじゃ……?それから、一番気になるのは。
「あの……さっきからちょくちょく出てきてる、『ラクルイ』って……何なんですか?」
風巻さんは少しの間目を丸くして、
「……ああー、そっか、そこからか。っつか、お前どこまで知ってんだっけ? 」
「どこまでも何も……ひとつも分かんないです。実結からの話をチラッと聞いたくらいですけど、それでも何のことだか……」
そこまで聞いて失笑か苦笑か、とにかく体の力が抜けたらしかった。一息ついたら、風巻さんはおもむろに後ろへ一声かけた。
「だってさ、嬢ちゃん」
彼の視線の先を追って驚いた。その時まで全く気がつかなかったのだ、この部屋に居るのが、俺と風巻さんの二人だけではなかったことに。
車椅子に座って、一心不乱に書きものをしている女性の存在に。
風巻さんが声をかけたあとも、女性はしばらく手を動かし続けていた。どこか見覚えのある銀の万年筆を紙上に遊ばせ、姿勢はピクリとも動かない。聞こえていないみたいだ——と、次の瞬間万年筆の動きが止まる。カタン、と重い音が部屋に響く。
どことなく神秘的な雰囲気の女性だった。
不気味なほどに艶めいた豊かな黒髪。一本の三つ編みに結わえられ、ロングスカートの上に溜まるそれに、あの惨劇に舞った黒い涙を思い出してぞっとする。俺の心情を知ってか知らずか、女性はきい、と車椅子を鳴らしてゆっくりとこちらへ振り返った。
銀縁の眼鏡の奥の——眼。見開いたのはこちらの方だ。灰色……銀、双眸に嵌め込まれた鏡。およそ見たことも聞いたこともない色をした虹彩が、ただただ無機質に俺を映し出している。
初めて会ったはず、だ。当たり前だ、こんな独特な雰囲気の人、一度会ったら忘れるはずがない。なのに何なんだろう。まるで相手は俺のことなど何でもお見通しで、全部知られてしまっているようなこの感じは。
「この子の名前は破鏡なつめ。一番分かりやすい肩書きは、夢幻座の《脚本家》」
風巻さんが車椅子の後ろに回りこみ、背もたれ越しに彼女の肩へ手を置いた。その間も彼女……破鏡さんはじっとこちらを見据えている。
「もう一つは……人間と怪物との歴史の観測者、あるいは傍観者。いわば物語の《語り部》。
——っつっても難しいからまあ、嬢ちゃんに訊けば《こっちの世界》のことは大体分かる、くらいに思ってていいんじゃねーかな」
「こっちの、世界……」
「《ラクルイ》」
突然女性が口を開いた。
抑揚のない、合成音声の機械のような無機質な声。観測者だとか語り部だとか、正直さっぱりだけど……とにかく何か、常識を超えたところに彼女がいて、俺もこれからそこへ行こうとしている。それだけはなんとなく感じとれた。
「風巻作楽に代わって先程の質問に答えようか。
君は必然の出会いに導かれ、大いなる物語の一部になった、なってしまったということだ……
落涙。徒花実結や例の怪物スカーレット、それから今や、君も。君らのような人ならざる者には、そういう名前がついているのだよ」
小説を朗読するようにすらすらと、流れくる散文にまた唾を飲み込む。彼女はふたたび一直線に俺を見つめて、皮肉とも同情とも、また無関心とも取れる鏡色の声で言うのだった。
「ようこそ、劇場へ————日下部光輝。初めて直接に顔を合わせるのがこんな形とは、実に不本意なことだがね」
Thank you for seeing STAGEⅠ.




