SHOW just goes Act4
side:日下部光輝
割れるような拍手と口笛、歓声。
俺の耳にそれらがちゃんと流れ込んできたのは、完全に幕が下りきってしまって随分経ったあとだった。
収まらない興奮の中、それこそ夢から醒めるみたいにゆっくりと我に返る——そうか、終わったのか、俺たちの舞台。
なんだかさっきまでの記憶が曖昧だった。とにかく必死だったことは覚えているけど、なんせ頭の中が真っ白なのだ。本当に集中している時って、こんな風になるものなのかもしれない。今日初めて経験したことだけど。
「実結ーっ! 日下部ーっ!」
起き上がりはじめたばかりの俺たち二人の真ん中へ、岸内が勢い込んで飛びついてきた。袖でずっと見ていた彼女は、舞台転換の段取りを気にしながらも手短に、ありったけの熱をこめて叫ぶ。
「めっちゃくちゃ、よかった!!」
後ろがつかえているので、演目が終わった後もなかなか慌ただしい。大道具も小道具も手当たり次第に引っ掴んでばたばたと劇場の外へ運び出した。余韻も何もあったものじゃないけど、誰も文句なんて言わない。作業の合間、たくさんのクラスメートに声をかけられた。良かったとか、迫力があって凄かったとか、果ては最後泣きそうになっただとか……普段ほとんど話さない奴まで、当たり前みたいに笑顔で肩を叩いていく。作業して、しだいにいつも通り働き始めた頭の中で、そんな言葉を一つ一つ噛み締めた。
——人生で一番褒められたかもしれない。
大袈裟かもしれないけど、本気でそう思った。だって、本当にこんなこと初めてだ。
思い返せば今まで、こんなに何かに打ち込んだことがまずなかったのだろう。確かに周りに、兄さん達に遅れを取らないように、差を埋めるための努力はしてきた。でも自分で決めた目標と憧れに向かって、ゼロから励んだことなんて……しかも、誰かと一緒に。それが認められることが、こんなにも幸せなことだなんて。
残りの文化祭を四人で過ごして、終わったあとの結果発表で『曽根崎心中』の優勝が告げられて、最高潮になったムードの中で俺は確信した。
俺たちは、やりとげたんだと。
「終わったんだなあ……」
「終わったんだねえ……」
このやりとり、もう何回繰り返しただろう。
まるで実感が湧かないのである。閉会式も済んで、一日ぽっちの玉響学園高校文化祭はあっけなく終了してしまった。少々の余韻を残しながらも、今はもう祭りの後の撤収作業だ。それもおおかた片付いて、劇場での作業に当たっていたメンバー達もちらほら帰り始める頃だった。
短かったけど、文化祭自体は去年と比べ物にならないほど充実していた。実結と一緒に、公演の成功で調子に乗った前島や岸内に散々いろんなところへ連れ回されたのだ。前島の奴なんか「我らが主役様方を自慢して歩くんだよ!」と大口を叩きだすもんで、流石に小突いておいた——が、あいつも案外ばかにはできない。なんと他の演し物をしている生徒の中に、俺達のクラスの公演を観たって人が結構いたらしいのだ。実結は夢幻座について聞かれることも多かったようだが、きらきらした目で堂々と、嬉しそうに返事していた。
俺は特別に友達が多いわけでも、活動的なわけでもない。去年も文化祭はあったが、クラス発表を終えると暇で、何もせずに過ごす時間もそれなりにあった。それが今年は随分沢山の人に会って、話して……まるで去年の俺とは別人になったみたいだ。
——《別人に》。
思えばそれが演劇に、夢幻座に惹かれた理由だった。
自信がなくて、失望されるのが嫌で、人に言われるまま回り道を避けてきた。どうせ俺には無理だからと諦めた事もあった。息苦しい生活、どんどん嫌いになっていく自分自身のこと。こんなのは嫌だって何度も思ったけど、駄目だった。だって俺には、何もかも捨てたっていいと思えるくらいの情熱なんてはじめから無かったのだから。そう、思っていた。あの日夢幻座の舞台を見るまでは。
何かに衝き動かされて入団宣言をしたあの日から、俺は、少しは《変われた》だろうか。……こんなこと、実結に話したら笑われるだろうか。
「木材のバラシもこんなところかなあ。あとは休みの間に業者さんがやってくれるみたいだし……私達も帰ろっか」
片付いてすっかり殺風景になった簡易劇場を見渡し、実結が呟いた。いつの間にか二人で一緒に帰るのが当たり前になっていたな、とふと気付く。
校舎を出るともうすっかり真っ暗だった。さっきまではちょっとした後夜祭のつもりなのか、運動場のほうで花火なんかがあったらしい。そういえば去年も見られなかったけど、まあいいや。来年もあるしね、と実結は事もなげに微笑んだ。
花火を見終わった生徒達ももうほとんどが帰ってしまっていて、今歩いている人影は俺達だけ。はじめは二人とも特に話すことが見つからず、満ち足りた溜息を吐きながら黙々と歩いた。目の前が少しだけ白く濁っては澄む……もう、秋になるのか。
下り坂を降り切って信号待ち。車もほとんど通らないのだが、とりあえず横断歩道の前で立ち止まった。この状態で黙っているのはさすがにつらいので、俺から口を開く。
「とりあえず……成功してよかったよな、『曾根崎心中』。お前がいたお陰だ」
「えっ、そんな私のおかげだなんて……私は何もしてないよ」
実結は驚いたようにこっちを見上げて首を振った。ただしそのあと、
「成功したのは、嬉しいね」
とはにかみながら付け足して。
信号が青に変わる。俺達は同時に歩きだした。再び黙った二人だが、実結が突然「そうだ、そういえば!」と二、三歩先へ出た。
「私が演劇を始めた理由。いつか訊いてくれたことがあったよね」
「あ、そうだ。訊いたなそんなこと」
少し前、やっぱり二人で歩いていたときのことだ。あの時は確か、結局返事を聞けずじまいだったっけ。
「……やっぱり、きっかけはお兄ちゃんだったんだ。
お兄ちゃんって変わり者だけど、昔はそのせいで苦労してたこともいっぱいあって。その頃はなんていうか……私とそっくりだったの」
「そっくりって……お前とあの、高嶺さんが?」
思わず聞き返す。予想通りの反応だったのか、実結はくすくす笑い「びっくりするでしょ?」と続けた。
「なかなか友達もできなくて、人に話しかけられるたびにびくびくしてた時なんかもあってね……それが変わったの。もちろんいいことばかりじゃなくて、つらいことも色々あったみたいなんだけど。夢幻座に入ったお兄ちゃんのお芝居を初めて見て、ほんとに驚いた。こんなに生き生きできるんだって、感動したんだよね」
そうか——俺と同じだ。実結も始まりは憧れからだったんだ。
俺と実結は似ている、と何度か思ったことがある。今もそうだ、だからよく分かった。兄弟という存在がどれほど近くて、同時にどれだけ遠い存在なのかということは。
実結は相変わらず俺の少し前を歩きながら、子供のように笑いながら言う。
「お兄ちゃんたらおかしくてね、舞台からは星空が見えるんだって言うの。
スポットライトとお芝居の中の人たちが、お客さんの瞳の中でキラキラ光って、客席全部が星の海みたいに見えるんだって。ありえないよね? 私もそうだと思ってた……《お兄ちゃんだから》見えるんだって、私には絶対無理だって思ってた」
陰りをみせた表情。でも、ほんの一瞬だった。実結はくるっと振り返り、迷いの消えたこれ以上ないほどの晴れやかな顔で笑った。
「でも今日、初めて私にも見えた気がするんだ。客席に、星空!」
そう言った彼女の真上にも、言葉通りの光景が広がっていた。
「光輝くんのお陰なんだよ」
だから、お礼を言わなきゃならないのは私の方なんだ。言葉が鈴の音のように澄んだ夜空に融ける。
何か言わなきゃならない気がした。もうすぐ実結のバス停に着いてしまう。ここで別れたら、この気持ちを伝えるのはきっと、またずっと先になってしまう。隣に並び立った実結と目があった。覚悟を決め、一度ごくりと唾を飲み込む。口を開いて、
「うおぁあっ!?」
開いたが——用意した言葉は出なかった。
思いっきり前につんのめって転び、袋に入れて持っていた小道具を盛大にアスファルトに撒き散らしたのだ。
「だっ、大丈夫!?」
「痛ったぁ……」
こちらを気遣いながら、散らばった荷物の整理を手伝ってくれる実結。……情けないにも程があるだろ、俺!
「ごめん、うっかりしててつまづいた……」
「あはは……あるよね、そういうこと。でもこんなところに段差なんてあったかな?」
何気ない一言。言われてみれば確かにそうだと思って、多少恨みをこめて足元を見る。
俺の足にひっかかったもの。確かにあった。
(縄……?)
それにしては太さが不均等で、節くれだったもの。縄じゃないな、木の根とかだろうか。こんなもの、どこから——探ろうとしたとき、
「光輝くん、逃げてッ!!」
実結が叫んだ。
一瞬、意味がわからなかった。緊迫した声……発した当の本人は引け腰のまま固まっている。その目線の先を辿って————絶句する。
すぐ真横に化け物が立っていた。
「——————」
異形、だった。木の根のように見えたものはそのままそいつの手だったのか、足だったのか、それは分からない。真っ黒い塊が辛うじて人型を成して、こちらへにじり寄ってくる。
——こいつの顔を見てはならない! なけなしの本能が叫んだ。
「は……走るぞ!」
とっさに実結の手を掴み、弾かれたように駆け出した。片付けかけていた袋の中身もそのままに、今来たばかりの道を逆戻りする。右へ、左へ、直進、今度は左折。通ったこともない道をひたすら、めちゃくちゃに走った。走った、はずなのに……全く進んでいる気がしないのは何故だ?
おかしい。まるで夢の中にでもいるみたいに、気持ちばかり急いて足がついてこないのだ。全身に何かが絡みついたように身体が重い、だるい。周りの景色は大して変わっていないのに、息だけが上がっていく。隣の実結の眼からいつかの黒い涙がこぼれるのがわかった。
もう走れない。だめかもしれない。そう思った途端、俺達の足は同時に動かなくなった。
自重を支えきれなくなり地面にへたり込む。どこだろう、ここは。わけもわからず走ってきたら、人の気配さえない場所にたどり着いてしまった。荒い息を吐いて見下ろした地面、視界の端にさっきの木の根が映った。
どうしてここが分かったのかとか、いつのまに先回りしたとか、もう疑問さえ浮かばなくなっている自分がいた。諦め。胸の中に渦巻いているねばっこい感情が、手足を動かすことを許してくれない。
じゃり、と、すぐ隣で地面を踏む音がした。
「…………実、結?」
高校指定のローファーを履いたか細い足が、すぐ横で震えている。袋にしまい忘れたまま持ってきてしまったのだろう、今日使った小道具の脇差の切っ先が、地面にぎりぎりと押さえつけられている。実結はそれでも立ちあがって、確かに自分の足で俺の前まで歩いた。
そして——ゆっくり両手を広げて、俺に背を向けて立つ。
「待て、……待て、何する気だよ」
「私ね」
芯の通った、透明な声。
「この黒い涙が見つかった時……あんな優しい言葉をかけてもらえるなんて、思ってもみなかった。一人で抱えなくていい、支えるから、一緒に悩みながら進もうって。
光輝くんがそう言ってくれて、本当に嬉しかったの」
目の前にいるものをまっすぐに見据えながら。
「だけど、私はやっぱり化け物なんだよ」
ほんの少し、震えていたけど。
「心配しないで。私、ちっとも辛くなんかない。これで大切な人のこと守れるなら、こんな自分でも《よかった》って、本気で思えるから」
それでも、それでも実結は、その黒い涙をぐいっと拭って。
「光輝くん——《私、もう大丈夫だよ》」
堂々と、言い放った。




