SHOW just goes Act3
舞台が明るくなる。
一昨日の放課後に完成したばかりの大きな背景の絵、江戸の街並み。お初を演じる徒花実結はその道に沿うように上手側に立ち、何かを探すように辺りを見回している。
選択した題材が異色のものだったためか、観客の入りは上々らしい。最後まで見回りをしていた岸内から聞いた話だ——できるだけ観客と目が合わないように、見回す視線は少し上。薄紅色の着物の裾がずれないように、動きは自然控え目に、しとやかになる。
「『まあ、あれは徳様ではないの。徳様、徳様!』」
ピンスポット、舞台下手側。徳兵衛、袖にいるはずの従者に向かって。
「『ああ分かった、おれは後から行くよ。先方によろしく伝えてくれ』」
徳様と呼ばれて振り返った日下部光輝はひどく緊張していた。烈しく暴れ回る心臓とは裏腹に、身体の感覚がふわふわとして落ち着かない。このまま自分という存在ごと空中分解してしまいそうな気がして、彼は無意識に足の指に力を込めていた。「本番が近くなったら余計なことは一切考えるな」とは土橋の言。意識が完全に透明になるその前に、1ヶ月弱の間に創り上げた《徳兵衛》にすべてを空け渡してしまおう。何百年前に物語として遺された運命と、前島が書いた台詞と、土橋が研ぎ澄ましてくれた動きと、そして実結と光輝自身とが一緒になって練り上げた《彼》の心に。
実結の声の方へ反射的に振り返る。視界に入ったのは喜びに頬を染め、大きく袖を振るうら若き乙女。掌に力が籠もった。よし、やろう!
「『お初じゃないか!これは……どうしたことだ。宮参りから戻ったんだな!』」
「『ひどいわ、お手紙のひとつも寄越さないんだもの。嫌われてしまったのかと思いました』」
甘えと拗ねたのが混ざった声で詰りながら、お初が徳兵衛の胸元に顔をうずめる。——落ち着け、ここは《そういう世界》なんだ。実結の作ろうとしている世界に、自分も早く追いつかなくては。心の中だけで深呼吸をひとつ、できるだけ自然にと華奢な肩を抱き締め返す。
「『いや、本当にすまなかった。しかしお前がいない間、こちらにも止むに止まれぬ事情があったのだ……』」
舞台、暗転。
九平次を演じる前島は、どうやらすっかり《あがって》しまっているらしい。回想内での徳兵衛との掛け合いにお初として相槌やリアクションを挟みつつ、実結は思った。普段は賑やかな彼だけど、こういうところでは繊細なんだな。この回想シーンが終わったあとには私との掛け合いが控えているけど、その時には私が全体のスピードを調節するつもりで行ったほうがいいかもしれない。
対する光輝は若干動きは硬いものの、おおむね順調に演技を進めている。たくさん練習していたから、動きがちゃんと身体に染み付いているようだ。九平次の横暴を非難する台詞を言いながらもそのあたりまで考えて、はっとした。
——私、どうしてこんなに周りが見えてるんだろ。
いつも通り……いや、いつも以上に熱の入った演技をしている自分と、舞台全体を俯瞰している自分とが同時に存在する感覚だった。困惑をひとまず脇に押しやって、実結は思案する。客席後方からひそひそ声が聞こえる、押し問答に飽きてきたのかも。次の「『あんまりだわ!』」はちょっと強めに言ってみようかな。……あれ、お客さんも怖くない?
わかる。舞台の理想形が何で、今はどの段階にあるのか。
わかる。自分が今何をするべきなのか、これから何をしたいのか。
こんなことは初めてだった。今まで立ってきた舞台は、例えるなら真っ暗闇だった。自分の立ち位置も、共演者がどこにいるのかも分からない。障害物に怯えながら、脚本という名のToDoリストを順番にこなすだけで精一杯。手さぐりで歩く舞台はひどく恐ろしくて、手を引いてくれる共演者を待つだけの自分が情けなくて、こんなのもう辞めてしまいたいと何度思っただろうか。しかし、今は違う。
ライトがこんなに明るい。吸い込む空気が熱い。舞台がこんなに広いなんて、考えたこともなかった。
暗黒の視界に光が射したようだった。何か原因があるとするならば、それはきっと、隣に彼がいるからなのだ。
襖が開く音がする。回想の中の人物として登場していた九平治が、実際にお初の家を訪ねてくる場面である。劇中の「怒り」「緊張」だけでは説明のつかない心地よい興奮が二人の胸を包むころ、物語はいよいよクライマックスへ。
舞台、暗転。
——この世の名残、夜も名残。死ににゆく身を喩へれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えてゆく。夢の夢こそあはれなれ——
かの有名な「道行」の名文は、本人たっての希望で前島が読むことになっていた。自信があっただけあり、先程まで彼が演じていた九平治とは似ても似つかぬ荘厳な声色が簡易劇場に響き渡る。
照明、フェード・イン。背景は転換し、森の奥深くを表現した薄暗い照明を、蓄光剤を塗りこんだ月と北斗七星だけがぼんやりと反射している。
我とそなたは夫婦星。二人の声が、重なる。一本の帯紐で互いを繋ぎ合った徳兵衛とお初は、ただならぬ緊張感をまとってそこに佇んでいた。
夜鳥の声。「夜明けが近いわ、急ぎましょう」と足を速めて森の奥へと進めば、そこは二人きりの世界。舞台中央、同時に腰を下ろすと、徳兵衛は重々しく言った。
「『さあ、ここに極めん』」
取り出したるは一振りの脇差。その刃の不吉なきらめきとお初の顔を交互に見、少しの逡巡の後あわてて頭を振る。
「『いいや、悲しさなんてあるものか。
世話になった親方様、恩返しのひとつもできぬままの過ちを赦しておくれ。幼いころ死に別れた父母よ——徳兵衛は、いま、逢いにゆくぞ』」
それにつられてお初も答える。
「『うらやましい、あなたはご両親に会えるのね。私の両親は田舎で元気に暮らしているもの、まだまだ会えそうにはないわ。兄さまたちも、この初の心中を嘆くかしら。本当にお別れなのね、なつかしい母さま……名残惜しい父さま……! かあさま、とうさまぁ!』」
わっと泣き出したお初に徳兵衛も哀れさを抑えきれず、結ばれた帯の上から強く強く抱きしめた。死ぬのは決めた、でも怖い、とてつもなく悲しい。震える肩を隠そうともせず、泣きじゃくるお初は年齢相応の少女だった。——少女、だった、はずだ。
次の瞬間、ゆらりとお初が起き上がる。
いつまで言うてせんもなし。
乱れ髪の隙間からこぼれた呟くような一言は、不気味なほど静まり返った舞台に異様な迫力をもって響いた。
「早く、殺して」
その顔色は、その眼は、その一瞬、まるで鬼女のようにも見えた。
「殺してッ!!」
この大人しそうな少女のどこに、こんな激しさが隠されていたのか。果てしなく強い声だった。劇場全体がびくりと揺れたような錯覚の中、動じないのは二人だけ。
「『————心得たり』」
静かだが、震えている。
柄に力が入る。ばっ、と掲げられた刃が月明かりにぎらりと光る。主の惑う心を映し、切っ先が彷徨う。手元が狂う。お初の体が硬直する。そして直後、脱力。
絶叫。
「『南無阿弥陀仏!!』」
崩れ落ちる骸。掻き抱く腕。
「『南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!』」
取り憑かれたようにただ喚いて。濡れた切っ先をあらんかぎりの力で睨みつけて。正面へ、客席へ、掲げて。
「『南無阿弥陀仏————』」
迷いなく喉元へ、突き刺した。
強く、深く、決してお初に遅れぬように。約束通りしっかと彼女を抱いたまま、重なるようにどうと倒れる。
誰が告ぐるとは曽根崎の、森の下風音に聞え。取り伝へ貴賤群集の回向の種。未来成仏疑ひなき恋の手本となりにけり——。
フェードアウトする照明。
幕が降りる。痛いほどの、静寂。
「……すごい」
ぽつり。誰の声だろうか。あまりに単純で純粋な一言だった。重苦しい沈黙はそうして裂かれ、洪水のように溢れ出た割れんばかりの拍手が劇場に響き渡った。
ーーー
新月色の割れ鏡が臣下達の侵攻開始を告げる。銀の万年筆を胸ポケットに忍ばせて、風巻は薄く匂うラクルイの感覚をたどった。
俯きがちに歩く街、日はとっくに暮れている。不気味に光る宵の明星に心が波立ち、足も自然と速まった。人気の減り始める時分、影と死角を選んで歩く彼の姿に、気がつく者はほぼ居ない。
張り詰めた神経に僅かな違和感が引っかかり、思わず彼は歩を止める。万年筆に手を伸ばし、強く握り込むと同時にきっと顔を上げた。次の一歩を、アスファルトを思い切り踏み込む。
地面を蹴る。壁を蹴る。窓枠を蹴る。バルコニーの柵を蹴る。高度と速度を一気に上昇させ、銀色の長髪をもつ男はいよいよビル風に融けた。高度を上げきって空中に静止するまでになったころ、風巻の姿はすっかり変化していた。
それはまるで風化した彫像。薄汚れた白の身体は流線型で、一切の無駄も見られない。目も鼻もない仮面に覆われた頭部は、しかしある一点を見咎めたらしかった。
こんな時間に下校だろうか。中学生くらいの少女である。地面にへたり込んだまま動けないのは、目の前にある《もの》を信じたくないからだ。
全身紫色の怪人。内側から破裂して飛び出したような無数の黒い棘が、肌さえ突き破り表出している。わずかに身体を覆っているのは人間だった時に着ていた衣服か。女性型のラクルイ——今まで見たことのない姿だが、拭われた涙痕とぼんやりした瞳の光で、エピファネイアの新顔であることはわかる。彼は黙ったまま万年筆をぴん、と跳ね上げた。
遠い街明かりを反射して回転する銀色は、突如吹き荒れた烈風に包まれその姿を変える。弓形に白銀の刃がついた、大型の弓。手に取るや否や見えない矢をつがえ、目標点へとひと思いに撃ち放った。
衝突音。
女性型ラクルイの肩口から、その涙と同じ色であろう黒い液体がぼたぼたと落ちる。
「ひっ……!?」
少女の声は、遅れて巻き上がった爆風にかき消された。その中心地に降り立った異形の白い怪人に、透明な雫のたまった両目はますます見開かれる。顔無しの白い怪物はゆっくりと振り返り、冷たく少女を見下ろす。
「い、……いやぁあっ、お姉ちゃあああああああん!!」
震える脚に鞭打って一目散に駆け出した。少女が去っていくのを確認すると、風巻は無言で目の前の敵に向き直る。
「……kな、コ、ぉ……でェ、っnえチャ、t……じゃm、sアydぁナt……ッタしたtnニgア"ぁ」
不明瞭だが話そうとしている——しかし、話し合いの余地はない。彼女は既に、そういうイキモノなのだ。
無数の棘とともに掴みかかってくる腕をかわし、そのままざん、と一息に斬り落とす。とっくに人間のそれではなくなった悲鳴を無視し、風巻は相手の首筋ぎりぎりに弓をつきつけ問うた。
「訊かれたことにだけ簡潔に答えろ。あんたのボスは何処だ」
「…………ぁ、ア"……」
きりきりきり、敵に弓を密着させたまま弦を引けば、どこからか集まった風が不可視の矢を形作る。ともすれば怯えているようにすら見える女性型ラクルイは身悶えながらもうめく。
「ぁ"……さn、sカーれ……t、sマァ……」
「……《スカーレット》?」
ぴくり、切れぎれの一単語に耳聡く風巻が反応する。近頃はめっきり聞かない名だった。その凶悪さ故に、エピファネイアから非常に重用されている《成功例》。あいつら、この段になって一体何考えてんだ?——気配。手を止めていた彼は、次の一瞬で咄嗟に身体をよじる。直後、先程まで風巻が居た場所から黒い血飛沫が上がった。
また新たなラクルイだ。彼を仕留め損ねて軌道の変わったナイフが、腕を失った女性型ラクルイの腿に突き刺さる。互いに怒りの咆哮を上げる二体——面倒なことになる前に、二連射で両者の心臓部を射抜く。
「……ふざけんなよ」
ふと振り返り、出くわした光景に舌打ちする。そこには無数のラクルイ達がひしめいていた。いくら人通りが少なくなったとはいえ、こんな数の化物を誰か《マトモな人間》が見咎めでもしたら——エピファネイアの考えがまるで分からない。分かりたくもない、あいつの考えなんざ。背筋を這い上がる嫌な感覚を左手に注ぎ込む。もっとも彼が真にそれをぶつけたい相手はここには居ないようなのだが。
(どうせ裏で指揮でもやってんだろ……雑魚遣わして高みの見物気取りかよ)
二度目の舌打ちを噛み潰し、弓を構える。馬鹿馬鹿しい、とっとと終わらせてやる。雑念ごと振り払った右掌に、色のついた風がびゅうと渦を巻いた。




