幕間③
性描写・不快な表現があります。
苦手なお客様はこのページは飛ばしてお読みください。
side:這原叡智
恋する瞳は美しいなんて戯言だ。
最初に言い出したのはどこの童貞なんだろう、こんなクソつまんねぇ綺麗事。内心欠伸をしながら、剥き出しになった女の肩に指を添わせる。ほのかに上気した頬、うっとりと綻んだ唇。あーあ、この女もこんなにつまんねぇ顔するようになっちゃったかぁ。恋してる女の顔なんて、どれを見ても全部同じですっかり飽き飽きだ。
「ねぇ……早く」
「分かってますよ」
丁寧に整えられた髪を軽く弄んで、そのままベッドへ押し倒す。いつも通り真っ白いシーツに広がった栗色の髪が、甘えるように互いの頬をくすぐった。仄かに、媚びた香水の匂いがする。
女が首筋に腕を回してくる。
「駄目じゃないですか。おねだりの仕方ならこの間教えたでしょう?」
「あら、こんな時だけずいぶん意地悪なのね?貴方だって、もう待ちきれないくせに……」
「ふふっ……言えてます」
それもその通りだ。こんなところで時間を潰すのは無駄なこと。こちらだって、どれだけ長い間この《本番》を待っていたことか。
髪をかきわけ、閉じ込めるように覆い被さりキスをする。角度を変えて深く口付けると、鼻にかかった吐息が漏れた。恍惚と目を閉じる女を愛撫しつつ、服のボタンを外していく。唇と唇の境が最早分からなくなったころを見計らって、這原は舌の裏に隠し持っていた「あるもの」を舌先で相手の口内に押しやった。
女は不信感を抱いたろうか。だが、最早ここまで来ればこちらのもの。ゆらめく掌で女の喉が小さく上下したのを確認すると、這原は内心ほくそ笑んだ。――お楽しみは、これから。
唇を離す。糸を引く唾液を眺める彼の口元にも笑みが浮かんでいたのか、女はほんの少しの疑惑を含んで言った。
「悪趣味なひと……何を飲ませたの?」
「《いいもの》ですよ、とびっきり……ね」
含みを持たせた淫魔の微笑。女が自分のこの微笑に惚れていることを、這原は女以上によく理解している。想像通り、女はそれ以上は何も言わず再び彼に身を委ねた。
女が明らかな、それもとても甘美とは言い難い身体の異変に気が付いたのは、その後のことである。
身体が冷たいのだ。心臓の底あたりが凍り付いて、送り出される血液がすっかり冷えてしまったかのように。
彼との行為に対する熱情が冷めたとか、そんなことでは一切ない。誰もが憧れる彼と男女の仲になれるなんて、こんな願ってもない幸せはほかにない。彼女だって、相手のほうからよく話しかけてくれるようになって少なからず期待した。こんなに素敵な男性と恋人同士になれたら、どんなにか幸せだろうと。それが今から、ようやく叶うというのに。
なんなのだろう、この違和感は。冬場に感じるそれとも寒気とも違う、もっと生理的な……内側からくる冷たさ。初めて味わうものだった。本来なら今は逆に、身体の芯が燃えるように火照っているはずなのに。
「どうしたんです?」
「……ううん、なんでもないの。ただ少し——」
激痛。取り繕うはずの表情が強張った。彼女の猜疑を境に、ぎちぎちと軋むように歪な鼓動を刻みはじめた心臓が呼吸器官を圧迫する。どくどくと不気味に波打つ血管が心拍に悲鳴を上げる。冷えを通り過ぎ、間隔がなくなっていく指先。おかしい、何かが絶対におかしい。やはり正直に彼に言うしかないと顔を上げて————ぞっとした。
笑っている。
「え……叡智、さん…………?」
「ああ……素敵です、やっぱり貴女は本当に綺麗だ……」
「わ、私に何を飲ませたのッ!?」
もう一度叫んだ声は疑惑ではなく、純粋な恐怖に満ちていた。彼は答えない。ただ熱っぽい眼差しで、今まで見たことのないような嗜虐的な表情で、醜く喚く彼女を恍惚として見つめるばかり。
「ねえッ!?答えてよ、私に何をしたのよッ!?私————」
そこから先は言えなかった。裸の胸元から、黒く大きな棘が飛び出る。呆気に取られるうちに手足の皮膚が泡立ち、自慢だった肌がみるみるうちに異形のそれへと変わっていく。ざらついて凹凸まみれになった手で頬に触る。手遅れだった。
「あ……あ、あ」
なんだ、これは。こんなの私の肌じゃない、人間の肌じゃない! 慌てて自分の身体を見下ろす。そこに愛する男に身を委ねている女の姿はなかった。紫色に腫れ上がった肌、あちこちから飛び出した黒い棘。恐怖と絶望に思わずこみ上げた涙すら、最早。
「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!」
その絶叫も、途中からはもう人間のものではなかった。
「終わりました。後始末、よろしくお願いしますよ」
事が済んでからすぐにシャワーを浴びた。ひとしきり自分と今回の相手の身なりを整えて、奥にあった隠し扉に向かって声をかける。 いつも通りに鍵が開き、一体の怪物が闇を引き連れてベッドルームに入ってきた。
ようやく少し痙攣の収まった女だったもの——新たなラクルイを、同じように頬に黒い涙の跡を残した怪物少女が優しく抱擁する。彼等エピファネイアが行う《楽園への勧誘》の、一番はじめの儀式だった。儀式の次段階である《王》への謁見の支度のため、怪物少女は壊れ物を扱う手つきで女を闇たちに引き渡した。闇たちの行く先を名残惜しそうに眺めながら、怪物少女ことシェリィーナは這原に向かいあからさまに溜息をついた。
「いやだわ。叡智さまったら、またおイタですか」
言いながらもベッドルームの片付けに着手するらしい。乱れきった部屋をひととおり見回し、彼女は顔のない顔をしかめる。
シェリィーナはこの組織のメイドという位置づけである。人間の名を捨て、シェリィーナという新たな名とともにそう申し出たのだ。《王》たるノヴァを狂愛し崇拝する彼女は実力も確かで、参謀幹部という一大権力さえ有している。にもかかわらず自ら進んで使用人めいた仕事をしているのは、ひとえに彼女自身の奉仕の精神からだろうか。実際、ラクルイ化した今の彼女の姿もそれをよく表していた。黒涙の跡だけがくっきり残った、底無しの闇を溜め込んだような巻貝型の目鼻のない頭。女性的な胸元から腰にかけてのラインには夥しいほどびっしりと装甲が施され、エプロンドレスには得物が大量にぶら下がっている。ラクルイの身体はそのまま心を表す——シェリィーナがシェリィーナになる前の、彼女の心。しかし這原にはどうでもよかった。実際どうだか知らないが、この女はとことんまでに「処女性」が無くてまったく面白くないのだ。
「仕方がないでしょう。僕の場合、この方法が一番確実なものでね」
シェリィーナの持つゴミ袋にコンドームの殻を放り投げながら、興味なさげに返事をする。明らかに難色を示す彼女を尻目に、今日のはイマイチでしたね、前の女のがよっぽどそそる表情をしてくれました、などとわざと言ってみせる。どうしてこんな変態男が——しかも今のところラクルイですらないのに——幹部同様に組織で重用されているのだと文句の一つも言いたくなるが、実際《この方法》でかなりの成果を上げているのでそうもいかない。シェリィーナにつける悪態といえば、せいぜい「何も知らない貴方のファンの方は可哀想ですわね」と吐き捨てるくらいだった。
「それにしたって、どうしてこうも騙される人間の多いことかしら」
「ある程度は当然でしょう。何のために僕が役者なんかやってると思ってるんです?」
「……あら失礼。『貴方のファンと共演者は可哀想』の間違いだったようですわね」
いささか乱暴にシーツを交換し終え、シェリィーナは隠し扉の奥を見やった。もう謁見は始まった頃だろうか。愛しい人の威厳ある御姿を思い浮かべ、怪物少女は一瞬恋する乙女となる。
「まあ、今となってはどうでもいいことですわ。ノヴァ様なら、どんなに可哀想な方も愚かな方も罪深い方も、等しく愛し救いあげてくださいますから……」
虚ろな空洞の奥に与えられた狂信者の光を、這原は軽蔑の眼差しで眺めていた。
*
勘違いだけはしないでいただきたいんですがねぇ、僕は本来は本当に《素直ないい子》なんです。なんて、自分でいうのもなんだか可笑しいですが、実際そう《だった》んだから仕方がないじゃありませんか。
とにかく誰かの笑顔を見るのが好きだったんです。家族でも、好きな女の子でも、まったく口を利いたことのない赤の他人でも、案外それは関係ない。頬がほころんで、口角が自然と三日月を描くさまを想像したら、それだけでなんだってできるような気がしたものです。実際、大抵のことならやりましたよ。学校の成績だって良かったし、周りの人たちがどんなことをすれば喜んでくれるのかは、そのために大体わかるようになっちゃって。なんたって、僕は自分にも素直なものですから。
しかしあるとき――中学2年になるかならないかくらいの時でしたか。短く言えば、ただのいい子だった僕のある種の転機です――なんだったか忘れましたけど、とりあえず事件が起きたんですよ。僕のいたところじゃなくて、近くにある別の中学校。そこに通ってた当時僕が好きだった子の彼氏が、その事件に巻き込まれて行方不明になったんだとか。
そこでまあ、僕は初めて失恋したことを知ったわけですけど……重要なのはそこじゃないんです。
その子が泣いてたんです。
クラスのアイドルでしたからね。なかなか綺麗な顔をした女の子だったんですが、もう他の連中は見てられなくて思わず目を逸らすくらいぐっちゃぐちゃの顔して泣いてるんですよ。よっぽどその彼氏さんが心配だったんでしょう、友達に宥められながら、たまにみっともなく喚いたりもしてね。幸い彼女たちから信頼を得ていた僕は、その光景を間近で見ていたわけなんですが。
正直言って、この時ほど欲情したことってありませんでした。
考えてもみてほしい、普段取り澄ました顔の美少女が、いま僕の前で体裁も何もかも脱ぎ捨ててこんな醜態を曝している。言っちゃうと意外と遅かった精通がこのときでした。だって、こんな興奮ってあります? あんなに、あんなに綺麗な可愛い顔の一枚めくった裏側に、こんなみっともない、誰も見たことがないような汚らわしい一面が隠されていただなんて! 幻滅?いやいやとんでもない。今まで僕は一体何をしていたんだろうと思いましたね。これこそ僕が本当に求めていたもの。喜びや笑顔なんかじゃ全然、生ぬるかったんだ。もっとこういう、人間の裏側の表情を見てみたい。男とか女とか、そんなのいっそどうでもいい。絶望、号哭、激怒、嫉妬、軽蔑、恐怖、そのほか言い表す言葉が作られてないほど複雑で醜いものをブっ飛んじゃうまで見られるなら、もう死んだっていい。もっともっと、いろんな人間のナカを視姦して、犯して、蹂躙したい。今の僕の行動原理は、こんなふうにして起こりました。
その後のことですか? 嫌だなぁ、わざわざ聞かないでくださいよ。先に言ったでしょう、僕は自分にも素直な人間なんです。
演劇を始めたのだって、当然《都合がよかった》からです。最初から嫌いだった人間より、一度は信頼を置いた人間に裏切られたほうが大きく感情が動くものですからね。僕の望むように他の人間に動いてもらうためにも、まずは己の振る舞いを見直して鍛える必要があったわけです。
もっとも僕自身、演劇に関しちゃやりたくてやってるわけでは決してないんですけどね。なんだってこんなバカバカしい職業が曲がりなりにも成立しているのか、未だにさっぱり見当がつかないくらいです。俳優なんて、僕みたいな立場からしたら質の悪い淫売みたいなもんじゃないですか。
まあ、それで色々と恩恵を貰ってるんだから、あんまりバカにするようなことは言っちゃいけないんでしょうけど。実際この『淫売』に徹することで、そこそこ美味しい思いもしてるわけですし。
そう、たとえば――――。
*
《用事》を済ませた後で、這原は遅れて夢幻座の稽古場に到着した。大きなレッスン室の中からは、ダンスの振り写しでもしているのか、活気のある声が聞こえてくる。
扉を開けようとして……立ち止まる。廊下の奥、ピアノ室の鏡越しに人影を見つけた。徒花高嶺である。
距離があるので細かい表情までは分かりづらいが、元気そうとはとても言えないのは確かだ。いつも堂々としている彼が頼りなく壁に背を預け、俯いて物思いに沈んでいる。這原でなくとも、何かあったのだとは勘づくだろう。
唇を舐める。
部屋へ滑り込んですうっと近づき、彼の斜め前に立つ。表情を覗き込むが、これだけ近くへ来ても高嶺は気付かないのか微動だにしない。重症らしいな、と思う。胸元をきゅっと掴んでいるのは、彼の心が揺らいでいる証だった。長い睫とともに伏せられた目に普段のきらきらした輝きはなく、不安に淀んでいる。
そもそも、Theaterガラクシアス所属の這原が夢幻座に近づいた一番の理由が彼であった。団体交流の一環として観にきたこの劇団の舞台で、彼以外の役者など誰一人覚えていない。演技とはあくまでフェイク、リアルを手に入れるための手段にすぎないというのがかねてからの彼の立場である。よって彼にとっては、舞台上で演技をするという行為も、わざわざ金を払ってまでそれを観に行くという行為も、はなから軽蔑の対象だった。そんな這原に、徒花高嶺という男の演技はあまりに衝撃的であった。
徒花高嶺の演技は演技ではない。散々使い古されたそんなフレーズには当然這原とて辟易していた。だが実際に彼の舞台を見て、メディアがそう言わざるをえない理由をようやく理解した。
あの男は確かに生きていた。ステージの上で喜び、悲しみ、怒り、ひたむきに生きたあの男の生き様は、這原をもってしても「所詮は偽物だ」と鼻で笑うことができなかったのだ。つまり本人の言葉を借りれば、彼はこのとき初めて《ツクリモノ》であるはずの男の表情に欲情を覚えた。そして、そんな演技を彼に見せた役者に対して強い興味を覚えた。もちろん、間違っても尊敬などではなくて。
天才という生き物は大抵何かしらの事情を抱えているものだ。そしてそういう事情を掘り起こし、美しく誇り高い実績に見合わぬ醜い部分を暴き、晒し上げ、人間たちが絶望や悲痛に狂う姿を拝むことをこそ這原は至上の悦びとしていた。幸か不幸か、徒花高嶺もその例外ではなかったのである。
「おはようございます、徒花サン」
至近距離から囁くように声をかける。と、高嶺はぴくりと一瞬だけ目を丸くした。
「っ……ああ這原くん、おはよう。今来たのか」
急に声をかけたので驚くだろうと予想したのに反し、彼の反応は薄い。疲れと這原への苦手意識を隠し切れていない、引きつった微笑。舞台ではあれだけ完璧な演技をするというのに、こういう所で嘘がつけないのがこの男だった。善い、隠しきれるはずのない痴態をなんとか隠そうと取り繕うのもまた扇情的だ。
「ひとりっきりでこんなところにいらっしゃるなんて、珍しいですね?」
いかにも不思議だと言わんばかりの声色に、人好きのする笑顔を浮かべる。防音扉は後ろ手に閉めた。「ああ……」と曖昧に返事をしながら、ほぼ無意識に高嶺が半歩後ろに下がる。が、そんな些細な仕草を見逃す彼ではない。
「どうかなさったんですか?少し顔色が悪いように見えますねぇ……ご気分が優れないとか」
「いや……そんな、ことは」
実際少し血色の悪い頬を流れるように撫でると、高嶺は分かりやすく身体を強張らせた。同時にようやく気付いたらしい——這原の身体で壁際に追いやられているいま、彼に逃げ場などないことに。
這原は整った顔を高嶺の耳元に寄せ、ひとつの毒を流し込んだ。
「《また何か、なさったんですか》」
「……っ!!」
目が見開かれる。息を呑む音、苦虫を噛み潰したように歪む表情。ぞくり、と這原の背に快感が走る。これだ。これを待っていたんだ。高揚して温度の上がった息で自らの唇を濡らしながら、彼は言う。
「図星……ですかねぇ。貴方がそういう表情をするのって、大抵そんな時でしょう」
「う、うるさいっ……君には関係のないことだ!」
高嶺が声を荒げる。ああ、こんなことって!思わず溜め息が漏れてしまう。見よ、世間には博愛主義者だとさえ思われている徒花高嶺が、こんなに醜く剥き出しの怒りと嫌悪を露わにしている。それも僕に向かって——この美しい男の恥部を、広い世界の中でたった一人、僕だけが独占できるなんて!
恍惚として高嶺の身体に腕を回す。抵抗こそされるものの、這原の腕はまるで蛇が絡みつくようにがっちりと固定して離さない。最後の悪足掻きに高嶺が手をついた先は鏡。嫌がってまだ暴れる彼の耳の後ろ、弱い部分をちろりと舐めてやれば、一瞬その身体は痺れたように動かなくなる。
「んっ……」
「ほぅらごらんなさい。また貴方の才が、無意識のうちに誰かを傷付けた。やっと見つけた、大切なお仲間である夢幻座の団員サンを……ほんと、不思議でたまりませんねぇ? 何度も同じ夢を追う仲間を舞台から突き落としておいて、どうしてまだそんな被害者面してられるんですかぁ?」
抵抗する力がどんどん弱くなっていくのがわかる。彼の言葉が堪えているのか、鏡越しに見る表情は次第に絶望に染められていく。なんて素直で、なんて愚かで、なんて罪作りな人だろう。昂った身体を相手に密着させ、さらに問いただす。
「それで、誰なんです?貴方が今日壊した夢の持ち主っていうのは」
「ッ…………み……実結、だ……」
ほとんど操られるように答える、掠れた声。ああ厭らしい! 全身がとろけてしまいそうな至上の快楽に震えながら、それでも這原は責め苦を止めようとはしない。
「へえぇ? 誰かと思えばこの段になって実結ちゃんですか、そりゃあまあ……。ただでさえ貴方と比較されてばかりで苦しんでいる実結ちゃんに、まだ追い打ちかけるようなことしたんだ? 意外とイイ性格してるんですねぇ、徒花サンって」
「そんな……つもりじゃ…………」
大袈裟に驚いたような声色が、いっそう高嶺の心を抉る。もう壊れてくれるんだろう。もうまともに動くことさえできやしないじゃないか。ああダメだ、もう一押ししたらイっちゃいそう……。ぞくぞく疼く身体をきゅうっと絡ませて、耳の内側に唇が触れるほどの距離でとどめの一単語。
「《留河巡》」
————高嶺の息が、止まる。
「どうして……どうして君がその名前を!!」
動揺の質が先程までと明らかに違った。光を失った目をそれでも大きく見開いて、身体は震えが止まらない。酸素を吸うことさえ忘れそうなのか息は切れぎれで……目の前に鏡があるのに、今自分がどんな表情をしているのかなんて全く見えていないようだった。
「縁って不思議なものでねぇ、僕にもたまたま共通の知り合いがいるんですよ。まあ、そんなことは今どうでも良くって。
貴方、また繰り返すんですねぇ?《彼》に対してやったことを、今度は最愛の妹さんですかぁ? 徒花サンってほんと、ほんとッ…………!!」
ああ、もう耐えられない! 余裕を取り繕うのも限界だ。はあっと熱の籠もった吐息を吐き出すと同時に、這原の我慢の糸もぷつりと切れた。
「ほんッッとうにいつもいつもイイもの見せてくれますよねぇ!? ダメですよ今更俯くなんて、その顔もっとよく僕に見せてくださいよ! ああもうっ、そんな恥ずかしいとこ、僕みたいな人間にまで簡単に曝しちゃうなんて……ほんと、徒花サンって淫乱なんですからぁっ……!!」
「違うっ……違う!!私は……僕はそんなんじゃない、そんなんじゃないんだ…………!」
何に対しての否定なのか、おそらく高嶺にもよく分かっていないのだろう。何度頭を振っても、影のように後から後から立ち上がりつきまとってくる過去。あやまち。消えていった、彼が消した、大切な人達の笑顔。
ふら、と意識が遠ざかる。あれほど警戒し這原から逃れようともがいていた高嶺の身体は、今になっていとも簡単にくずおれた。鏡についた手でさえも自分自身を支えきれなくなり、がくりと膝をついてしまう。
と——そのとき、不意に扉が開いた。
「……うわビックリしたぁ!? なんや、先客がおったんかいな。何なんあんたら、使うんやったら電気くらいつけぇさ」
言いながら実際に自分でも電気をつけたのは、夢幻座の新入りでピアニストの雪町歌音。そのときには既に、這原は高嶺を支えているかのような位置に回り込んでいた。
「ははは……驚かせてしまってすみません、雪町サン。なんだか徒花サンが体調悪いみたいだったので、少しここを借りて休んでたんですよ」
「あぁ、そうやったんや……這原さんやった? あんたほんま人がええねんなあ。兄ちゃん、あんまり迷惑かけたらあかんでー……ってちょ、大丈夫かいな!? 顔真っ青やんか!」
あたふたと頬を叩いたり、顔の前で手をふってみたりする歌音を「落ち着いてください」と這原が制する。
「確かに、ちゃんとゆっくり横になった方がよさそうですよね……。僕、副座長サンに伝えてきます。医務室で休むにしろ帰るにしろ、報告はしておかないと」
「せやなぁ……悪いなあ、何から何まで」
「いえいえ。……徒花サン、立てますか」
エスコートするようにさっと手を差し出されて、反射的に、または操られるように高嶺も立ち上がる。まだ心配してくれている歌音に微笑を返す余裕はようやくできたが、未だに心だけすっぽり抜け落ちてしまった奇妙な感覚は残っていた。
彼の手を引く這原は最後に一瞬だけ、歌音と高嶺をちらりと見やる。そして——ごちそうさまでしたとばかりに、ほんの少し唇を舐めた。




