後ろの正面 Act.3
side:日下部光輝
黒。
真っ黒。
どこまでも深い、黒。最初、嫌でも目に飛び込んできたのはそんな色だった。
その場を動けなかった。本来そこにあるはずのない色が、土気色になった徒花の頬を這っている。俺はどれくらいの時間立ち尽くしただろう。その得体の知れない液体に、俺まで何かを奪われるようにゆっくりと血の気がひいていく。
「近くに、来ちゃだめ……」
徒花の震える声が、やけに廊下に響いた。そのときはじめて気がついた。徒花が泣いていること。その黒いものが——彼女の目から零れていたこと。
「日下部くんに伝染っちゃう……。ごめんね、私…行かなきゃ……!」
ふらつきながらどこかへ去ろうとする徒花。俺から顔を隠すようにうつむいて、俺からじゃない、もっと大きな何かから逃げるように。
伝染る?何が?どういうことだ?何がなんだか分からないし、怖い。それでもなぜか、俺は彼女の手を掴んでいた。いま彼女を行かせちゃいけないことだけは確かだった。
「待って!」
冷たい掌。震えたのは、俺じゃない。
「……嘘を、吐いてたの」
掠れ声が自嘲するように揺れた。
「ほんとは聞いたことあるの、この黒い涙の話。いつかは化け物になっちゃうんだって、他の人も巻き込んじゃうんだって、なのに……なのに、わたし、ずっと隠して……
騙してたんだよ、日下部くんのことも! 夢幻座のひとたちとだって、嘘ついて一緒にいたんだよ!? 化け物なのに……みんなの仲間になんか、最初からなれるはずないのに。私、日下部くんに『すごい』って言ってもらえるような、立派な女の子なんかじゃなかったのに!」
彼女の両目からぶわ、と黒いものが溢れ出した。俺を気にする余裕もなくなったのか、剥き出しの感情と《涙》。
「……ごめんね、ありがとうね。もし私を気遣ってくれるなら、このまま見なかったふりをして。許してもらえないのは分かってる、だけど……全部終わりにするのは、一人じゃなきゃ駄目だから」
全部理解できたわけじゃない。ただ……これが、徒花の秘密。ずっと隠してきたもの。抱え続けていたもの。
だったら。
「そんなの放っとけるわけないだろ!」
「え……?」
「だって、お前……泣いてるのに」
徒花が呆然としたまま、自分の頬に触れる。黒い液体はどろっとしていて、少し触っただけの指先にべったりと絡みついた。これが《涙》だなんて、俺も徒花も、おそらくほかの誰だって認めたくないだろうけど。それでも、認めなきゃ始まらないなら。
「ここに来る前にさ」
徒花の手首を握る手に、少し力が入る。
「お前を追いかけようとした高嶺さんに、宇多方さんが言ってた。追いついたあとで、かける言葉の当てはあるのかって。……俺、ないのに来たんだよ。俺も、嘘ついてきたんだよ」
伝わるのは気持ちだけでいい。まだ泣いた名残のある徒花の眼を、できるだけまっすぐに見つめた。
「まだ、ここに居てもいいかな? ハンカチくらいなら、貸すからさ」
「……ずるいよ」
徒花の声の震えは大きくなっていた。
「わたしだって……私だってここを離れたくない! だからずっと隠してきたの、でも駄目なの! 今までが間違ってただけ……これ以上ここにいたら、お芝居のことだけじゃない、きっといつか、もっと取り返しのつかない迷惑を掛けちゃうから!」
「だからって、お前が一人だけで辛い思いをすることなんてない!」
こんなに強い口調で言い切ったこと、今までなかった。だから言えたのかもしれなかった。
「正直、今のお前の状況のこと、完璧に分かってるわけじゃないけど。でも……こんな誰にも言えない秘密抱えて、誰にも相談できないで、それでもここまで頑張ってきたんだろ?
夢幻座の人たちだって、それを分かってるから必死でお前のこと支えてるんだ。迷惑だなんて思う人、きっといないはずだよ。
お前は――徒花実結は、ちゃんと立派だ。夢幻座に居ちゃいけない存在だなんて、そんなの絶対違う。
俺は、お前の居る夢幻座だから入ったんだ!」
「……日下部くん」
逃げようとしていた徒花の腕から、力は抜けかけていた。俺の手を離したいのか違うのか、迷いをそのまま表すように小さな手がさまよう。
「でも……でも、私、そのうち化け物になっちゃうかもしれないんだよ? ほかの人も巻き込むかもしれないし……このままでいたら、日下部くんまでこんな風になるかもしれないんだよ!?」
目のふちに溜まっていた涙がもう一筋、すうっと徒花に黒い線を刻んだ。不思議と初めほど恐ろしくは思っていない自分がいた。
「もしもそうなったときは、そうなったときで……お前と二人で悩みながら、なんとか生きていくしかないだろ」
俺がそう言ったあと、なぜだか徒花は急に黙りこんだ。必然的にしばらく待っていると、
「え……えっと、それ……」
青ざめていたはずの顔がみるみるうちに赤くなる。何だ? 俺今なんか恥ずかしいこと……
あ。あっ。あああっ!!
「待っ……い、今のはその! ……いや嘘じゃないけどっ……え、ええとっ!! そうだ、ハンカチ渡すって言ってたのにまだだったよな、ちょっと待ってくれ……!」
「ふふ、ふふふっ……あはははっ!」
あわててポケットの中身をさぐる俺を見て、徒花はやがてけらけらと笑い始める。ううん、若干複雑ではあるけど。俺からハンカチを受け取る前に、彼女は自分の手の甲でぐいっと涙を拭ってみせた。
「やっぱり日下部くんって、ちょっとずるいよ……でも、ありがとう。私、やれる気がしてきた」
そう言った徒花の表情は、なんだかすごくすっきりとしていた。
「……いた」
ひとしきりお互いが落ち着きかけたところで、向こうの曲がり角から不機嫌な声が聞こえた。
オレンジの髪をがしがしとかき上げながら、声の持ち主は大股の早足で近寄ってくる。
「なんだ、元気そうじゃん。二人してこんなとこで何してんのさ」
「えと……ウタコちゃん?」 どうしてここに、と続けたそうな徒花に、火ノ迫は呆れたように溜息をつく。
「なんで当のあんたが他人事みたいな顔してるわけ?
折角まともに歌を習えることになったのに、いきなり飛び出していくんだもん、あのひと。話聞いたらあんたが出てったっていうしさぁ……大したことにはなってないなら良かったけど」
大したことにはなってない、か……。俺たちは思わず顔を見合わせた。まあ、これはこれで、解決の形としてはありだろう。俺までちょっと笑えてきてしまう。
「はいはい、随分楽しそうで結構ですこと。言っとくけど、みんなわりと心配してたんだからね? あのおっさんだって……ああ、あの人はいいや。とにかく!」
と、火ノ迫は改めて徒花に向き直ると言葉を探しはじめる。彼女も俺と同じで器用なことがすぐ言えるタイプではないのだろう、唸りながらも彼女なりになにか伝えたいのはよく分かった。
「何があってあんたが出て行こうとしたのかは知らないけど。
あんた、女優なんでしょ?あたしそっちのことはよく分かんないけど、難しいこと考えずにどっしり構えて偉そうに振舞ったらいいんじゃない? うん、多分あんたはそれくらいで丁度いいんだよ。徒花高嶺なんか余裕で飛び越えちゃうくらいのカッコ良い芝居、どうせならあんたがあたしに見せてみなよ」
きっと、今までの徒花なら複雑な表情で返していただろう。だけど。
「うん……うん!そうだよね!」
彼女は憑き物が落ちたかのように、見たことがないほど爽やかに笑っていた。
ほう、と隣で火ノ迫が目を丸くしたのがわかる。
「随分長い間、お稽古抜けちゃった。二人も付き合わせちゃってごめんね。
私、もう大丈夫だよ。心配かけた皆さんにも謝りに行かなきゃ。ね、行こう!」
輝きを取り戻した彼女の瞳には炎でも宿ったようだった。さっと背を向けて、徒花は先に稽古場のほうへ駆け出す。その背中を見ながら、火ノ迫がひとりごちるように言った。
「あの子、あんないい顔できたんだね」
見直したかも。そんな言葉に、俺まで少し嬉しくなった。
side:宇多方瞳
実結ちゃんたちが飛び出していって、しばらく経つ。
呆然自失の「お兄ちゃん」をひとまず稽古に戻させて、この場に残っているのは私と大地君、二人だけになる。
「ねえ大地君」
「……分かってるってんだ」
「めちゃくちゃ気にしてるじゃないの」
はあーっ、と派手な溜息をついて、彼は額を抑えた。こういう時の大地君は、私以外の人なら笑ってしまうほど素直になる。この姿を一度、実結ちゃんに見せてみたいのだけど。
「何というか、タイミングが悪かったのね。彼女の中でなにかしら、前からずっと溜まってきていたものがあったんじゃないの。それがさっき、たまたまあなたとかその他諸々が一気に重なったせいで爆発した……そんなところかしら」
「…………」
「まあ、ここでこれ以上あなたをいじめても仕方がないのだけどね……」
原因はあなた一人ではないようだし。付け足してみても、おそらく効き目は薄い。あなたのその、悩みだしたらとことん悩んじゃうところは私嫌いじゃないけどね——そう言ってみると、力なく鼻で笑われた。
「とりあえず、私達も戻りましょう。どのみちあの子達が帰ってきたって、まだこの練習を続ける気はあなたにもないんでしょう」
「……ああ」
レッスン実に戻ると、水分補給をするところだったらしい這原君が私達に気付いた。
「ちょうどいいわ。這原君、実結ちゃんと日下部君はこっちに帰ってきていない?」
「実結ちゃんと……?ああ、あの新しい子ですか」
2人の顔を思い浮かべるように、彼はしばし口元に手をやる。そして、
「いえ。僕は遅れて来たので、今日は一度も……何かあったんです?」
と、私と大地君を同時に見た。彼もなかなか聡いものね、事情にはだいたい目星がついているらしい。大地君はそのまま居心地悪そうに目を逸らした。頭を掻き、溜息に混ぜて一応返事をする。
「稽古の途中に厳しく当たりすぎたらしい」
「ああ……」
それだけで大体を察したらしい。口元を覆っていた手をふっと外すと、這原君はとろけるように柔和に微笑んだ。
「きっと大丈夫ですよ、副座長サン。実結ちゃんは賢い子ですから……貴方の本当の気持ちは、ちゃんと伝わってるはずだと思います」
彼、この笑顔で今まで一体何人の女の子をオトしてきたのかしら。昔は同じようにしていた私だから、彼の器用さは十二分にわかる。これじゃあ由宇ちゃん達が熱を上げるのも仕方がない。
大地君もその一言で少し救われたようで、「気を使わせてすまんな」と心持ち表情を和らげた。
「戻ってきたけど!」
比較的雑に扉が開いて、最初に入ってきたのはウタコちゃんだった。その後ろには日下部君と、実結ちゃん。——誰も、泣いてなんかいなかった。
実結ちゃんがいつになくしっかりした足取りで、すたすたと大地君の前に進み出る。面食らったように固まっている彼に向かい、実結ちゃんはとてもきれいに頭を下げた。
「副座長さん!お稽古、途中で抜けちゃってすみませんでした!みなさんも、心配をかけちゃってごめんなさい!
私、もっと頑張れますから……これからもご指導、よろしくお願いします!」
ぴょこんと顔を上げた実結ちゃんは、何かが吹っ切れた、自信に満ちた表情をしていた。
Scene3 end.




