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落涙 -ラクルイ-  作者: らめだす
第一幕 ようこそ劇場へ
10/34

後ろの正面 Act2

side:日下部光輝


 その日は稽古場に入ったとたん、足元に座長さんが転がってきた。

「……あの、大丈夫ですか」

「全然だいじょーぶじゃねーよお」

 呆れながら覗き込むと、駄々をこねる子供にしては低すぎる声が不機嫌に答える。

「やっぱり大変そうですね、バートリー」

 俺のすぐ後ろにいた徒花も苦笑いだ。そういえば言ってたか、今度のミュージカルは座長さんが初めて主役についたって。

 座長さんはそうなんだよお、とさらに一回転すると、今日俺達が学校で授業を受けているあいだの夢幻座での稽古がどんなだったかを事細かに説明しはじめた。

 演技については問題なしと言いたいところだが、どうも役の理解がえらく大変らしい。ダンスに関しては立羽さんに「リズム感覚はあるんだけどぉ……なんて言うのかしら、キレがない?」と言われる始末。その上さらに困っているのが歌らしい。

「アイツの前じゃあんまり大きな声で言えねーけどさあ」と彼は、部屋の奥のほうにいる人――知らない人だ――を顎でしゃくって小声で話す。「無理だよ、マジで出来る気しねーわ。こっちが分かんねーのを分かってくれねーんだもん。なんか嫌われてるしさあ」

 そのとき丁度その人が振り返り、俺達と目が合った。若いけど見るからに怖そうな人だ。徒花が軽く会釈したが、ちょっと顔をしかめただけで返事もしようとしない。

「ええと……なんていうか、頑張ってください。俺達も頑張るんで」

「あー、ああ、そういや大地がそんなこと言ってた気がすんなあ。二人でやるんだっけ? 頑張れなー」

 よっこらせと反動をつけて座長さんが立ち上がると、ちょうど奥の人も口を開いた。

「おいゴミ屑」

「あいよー」

 ……ゴミ屑!?

「ゴミ屑の分際でいつまでダラダラ休んでいるつもりだ? 今日の時点でせめて簡単な音取りくらいはできるようにさせておけと達しが来ているんだ。ここまでレベルを下げさせておきながら今後一秒でも俺の手を煩わせてみろ、即刻捨て置くぞ」

 かなりイラついた口調。それにしたっていくらなんでもこの……なんとかならないのか? 普通に返事する座長さんも座長さんだけど。

「ん、厳しくいくぜって? おっけー……じゃないけどおっけー。お手柔らかにたのむぜ、律心」

 普段通りというかなんというか、座長さんは顔色ひとつ変えずにひらひらと手をふってみせる。一方の毒舌さんは、自分が呼んだようなものなのに歩いてくる座長さんには目もくれない。忌々しげな鋭い目は、そして今度、《こちら》を向いた。

「それから貴様ら。そうだ、そこの《出涸らしども》」

 ————俺が何か考える前に、徒花のほうが反応していた。

「土橋大地から伝言だ。稽古は第三レッスン室裏の旧グラウンドで行う、準備が出来次第来い、だそうだ。貴様の兄には来たければ来ればいいと伝えろ」

「わかりました、ありがとうございます」

 徒花は静かに言った。一種の放心状態だったのかもしれない。俺はそのときの徒花がどんな顔をしていたのか、なにひとつ覚えていない。ただ、

「……えへへ。行こっか、日下部くん」

 どうしてだかその声色は、今でもやけに深く記憶に刺さっている。


 確かに座長さんのことはそこそこ不憫だなとは思っていた。はっきり言って他人事だったのだ。ただ、今になって俺はようやくその思考を改めかけている。

 簡単に言おう。俺は副座長さんのレッスンを二つ返事に受けることにしたのを、既にちょっと後悔していた。

 一通り普段のレッスンの流れを説明され、次の日曜の練習から基礎練にも参加するように言われる。そこまでは良かった、のだが。

「そこ、フラフラ立つなァ! 舞台でも同じ事やるつもりか!?」

 怖い。とにかく、怖い。

 まずは演技をする時の身体の使い方の基本みたいなものを教えてもらっているけど、ここからなかなか先に進めない。俺なんかは普段からちょっと猫背気味になる癖があるらしくて、普通に真っ直ぐ立つだけでも一苦労なのだ。

 怒られるのは俺だけかと思いきや、徒花にもかなり容赦なく怒号が飛ぶ。副座長さんがグラウンドのかなり離れたところに立ち、声を届かせる練習になると、それがますます顕著になった。

「『まあ、あれは徳様ではないの!』」

「小せえよ! 本番はマイクなしで講堂使うんだろ、そんなんで後ろの客まで声届くと思ってんのか!」

「ご、ごめんなさ……」

「まだ届いてねえぞ!」

 前から徒花が一番気にしていたのが、この声のことだった。彼女の声はちょっとウィスパーボイス気味で、綺麗ではあるがどう考えても大声には向いていない。向こうから副座長さんの声がしっかり届いている以上、理屈としては徒花にもできるはずだって事なのかもしれないが……

 徒花は健気にも、再び目一杯に息を吸い込む。

「『まあ、あれは徳様ではないの!』」

「棒読みになるな! 何年夢幻座で役者やってんだ!」

 無茶だろ、じゃあどうすりゃいいんだよ。この練習に入ってから怒られるのは徒花ばかりで、俺にはほとんど出来ることはなくてもどかしい。こっそりと徒花の方を盗み見た。すっかり真っ赤になって、自分を落ち着かせるように肩で息をしている。もう一度顔を上げると、一瞬だけちらりと横の方を見遣った。

 ——高嶺さんだ。

 誰かが伝言したのか、俺たちが稽古場を出た後にあの口の悪い彼と出くわして直接聞いたのか。どちらにしろ彼は副座長さんの誘いに乗っていたようで、少し離れたところから俺達を見ていた。

 ひょっとして徒花は気付いていたんだろうか。彼があそこにいたことに、ずっと。

「余所見すんな日下部! 他人事と思ってんじゃねえぞ!」

「は、はいっ!」

 流石に俺や徒花が疲れたてきたのは分かったんだろうか。副座長さんは一度チッと舌を鳴らすと、

「この調子じゃ埒があかねえ。今から5分間だ!その間に水分なり休憩なり適当に摂っておけ」

と半ば諦めたように叫んだ。


 ペットボトルのお茶の残りを一気に飲み干した。ちっとも喉が潤った感じがしない。タオルに顔を埋めて、ひとまず長い一息をつく。

「なあ、徒花……」

「…………」

 ちら、とタオルの間から顔を出す。徒花は俺の声なんか聞こえなかったみたいに、口の近くに水筒を持ってきたままずっと硬直していた。

 黒目の動きに落ち着きがない。一目で分かる、徒花は焦っていた。水筒に添えた手はよく見たら小さく震えているみたいだ。おそらく、まだ一口も水を飲んでいない。

 もう一度声をかけようと心持ち距離を詰める。と、

「実結!」

「…………っ!」

 見かねたのか、遠くで見ていたはずの高嶺さんがこちらへ早足に向かってきた。徒花の眼の動きが、止まる。なのに高嶺さんの方は見ようともしない。

「実結、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」

 徒花は答えない。

「……今は、お前も少し辛いかもしれない。でも、いいか? 師匠だって、お前を嫌って言っているわけじゃ……」


「そんなの分かってるよおっ!!」


 絶叫。

 がらん、と水筒が音を立てて落ち、びちゃりと中身がぶちまけられる。

 初めて聞いた徒花の大声は、ひどくひび割れていた。温和で真面目な彼女が、ずっと心の中に隠してきたもの。ようやくはっきり目の当たりにしたそれに、俺達はまるで大きな針かなにかに突かれたように動けなくなる。

「……実、結?」

 高嶺さんの目が次第に大きく見開かれる。信じられないものを見たというふうに、ただただ徒花の顔を凝視する。その間、彼は身動きひとつしなかった。

「————あ、」

 一方、徒花は。

「あ……あ、わたしっ……!」

 何かに気付いたように、おもむろに顔を覆う。さっきよりさらに掠れた声は震えて、湿り気が混じっていた。

「ごめん、なさい……ごめんなさい……!!」

「お、おいっ!?」

 一方的に叫んで、脇目もふらずに飛び出した。相変わらず顔を隠したまま、逃げるように。水筒からこぼれた水は蹴散らされ、その飛沫が止まないうちに、俺達は。

「……実結、」

「《追いかけないで》、徒花君」

 崩れ落ちるように駆けだしそうになった高嶺さんの腕を、誰かが掴んで止めた。

「宇多方さん……?」

 いつから見ていたのか、彼女は俺達の隣に悠然と立っていた。しかし高嶺さんを引き留めている手はやけに力強くて、その生気のない瞳にはきっぱりとした意志が宿っていた、ように感じた。

「申し訳ないけど、あなたには行かせられないわ」

 寸分の迷いもない断定。どうして、と虚ろな目だけで訴える高嶺さんに、宇多方さんはやはり強い口調で言った。

「実結ちゃんの立場になってみなさい……なんてはなから無理なことを言わないかわりに教えてあげる。

今あなたが彼女のもとに行ったとして、何か彼女を励ませる——いいえ、彼女が自信を取り戻せるような言葉を用意する当てはあるの? はっきり言って、今のあなたは実結ちゃんの地雷そのものよ。あなたが彼女を気にかけるほど、彼女の心は救いようもなく惨めになるわ」

「……そんな」

 俺は宇多方さんの言葉を聞きながら、徒花が消えていった暗がりにじっと目を凝らしていた。俺ならあいつの立場を、気持ちを、なんておこがましい考えかもしれない。でもこのまま放っておくことだけはどうしてもできそうになかった。

「宇多方さん。俺」

「ええ」

 言いかけながら、半分もうやることは決まっていた。あいつの方へ向かう足を思いきり蹴りだすのと、彼女の返事は聞こえたのはほぼ同時だった。

「行きなさい」


side:徒花実結


 走っても走っても足がついてこない。

 とにかく誰とも会わないように、顔を隠したままあちこちに身体をぶつけながら走った。歯の隙間からうなるみたいに声が漏れる。

 見つかったかもしれない。ばれてしまったかもしれない。ずっと必死で隠していたのに、こんなに簡単に壊れてしまうなんて。もう、全部、おしまいになるのだ。夢幻座のことも文化祭のことも、日下部くんとも。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 夢を、見ていた。あまりに綺麗で、しかも近くにあったから、何も考えず無邪気に手を伸ばした。現実なんて本当は分かりきっていたのに、頭の片隅に追いやって見ないふりをした。

 きっと、それでバチが当たったのだ。いつのまにか本当の私は、見るのもイヤになるほどのおぞましい姿に変わっていた。私は、とっくの昔に怪物だった。

 それでもどうしてもここに縋り付いていたかった。だから隠し続けた。ひとに偽って、自分に偽って、まるで私は何の罪もない善良な人間ですと言わんばかりに。お芝居でもなんでもない、ただのひとりよがりな嘘。こんな私を包んでくれていた幸せなんて、いつか終わるに決まっていたのに。

 行き止まり。

 息が上手にできないせいで、身体が思い通りに動かない。もう走るのも限界だった。よろよろと壁に近付き、両手をつく。がくん、と肘からも力が抜けて、私は私と同じ温度をしたコンクリートの壁へなし崩しに顔を押し付けた。

「っひ、うぇ……どうしよう、止まらないよぉ……」

 両目からとめどなく溢れるそれは、容赦無く喉を塞ぎ頬を汚していく。きっとこれ以上なくみっともない顔をしているだろう、今の私は。分かっているのに、どうしようもない。これまでずっと出来ていた我慢が、今になって完全に切れてしまった。こんなの、こんなの私、まるで————。


「徒花ーっ!!」


 思わず振り返る。——日下部くんの声、だ。

 嫌だ。なんで、どうしてここに。私を追ってきたの?いきなり飛び出したから?待って。いま、私の顔を見られたら。嫌だ。嫌だ。お願い、日下部くんにだけは。

 隠れなきゃ。逃げなくちゃ。なのに身体は振り向いたまま固まって、いよいよ使い物にならなくなっていた。それでも無理矢理足を動かそうとしたら、もつれてバランスが崩れる。

 どさ、と絶望の音がした。

「……あ、」

「徒花……そこにいるのか?」

「嫌……だめ、来ないで……!」

 顔を覆うための手すら、震えで動かない。ごぽ、と私の両目からせりあがる音が響いたような気がした。

「落ち着いてくれよ、大丈夫だから……」

 もう、だめだ。手遅れだ。分かっていても溢れ出る。かりそめの幸せが壊れる瞬間を、よりにもよって、いちばん間近で見るのがあなただなんて嫌だ。


「来ないでっ……見ないでえええええっ!!」

 彼が息を呑む音がいやにはっきり聞こえる。掻き消したくて、叫んだ。

 両の瞳から、夜を煮詰めたような真っ黒な涙を流しながら。

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