祝:バレンタイン
その広場へ足を赴いたウァレンティヌスは、それでも不安を覚えてはいなかった。
預言者たるイェスが人類の原罪を背負いゴルゴダの丘で処刑されてから早くも二百数十年が過ぎ去っていたが、イェスの威光はローマから消え去った訳ではない。
いや、十数年前に比べると今が絶頂期と言っても過言ではなかった。
──全てはガリエヌス帝の慈悲のお蔭、か。
今を遡ること九年前、ガリエヌス帝の命により彼らキリスト教徒への迫害はローマ中でなりを潜め、キリスト教徒は拡大の一途を辿っている。
ウァレンティヌスが司祭となったのはその大迫害を生き抜き、それでも信仰を捨てなかったためであり……彼は神の教えを心の底から信じていた。
──クラウディウス二世も分かってくれたのだ。
確かに彼は皇帝の命……ローマを守る兵士が結婚することを禁止する命令に逆らい、兵たちに愛を説き、結婚を勧めた。
愛し合う男女の結婚式を執り行い、自らの庭に咲いていた花を贈ったこともあり……彼が皇帝の命に逆らったことは紛れもない事実だった。
──しかし、私は善なる司祭だ。
それらの行為は全て神の慈悲、神の愛に従ったものであり……純粋に善意からなる行為であったのだ。
断じて邪悪な……ローマ帝国に、皇帝に逆らう意図があった訳ではない。
そのことをクラウディウス二世も理解しているのだろう。
彼、ウァレンティヌスの言い分を聞くや否や、たった一つだけを命じたのだ。
──この広場に赴いて、お前の信じる神の愛を説け。
……という、たった一つだけを。
彼を広間に連れてきた兵士たちが槍の石突で石畳を叩くのを聞いて、ウァレンティヌスは回想から意識を戻し、眼前の民衆たちを眺める。
──これは、確かに……
彼らは、みすぼらしかった。
彼らの身に何があったのかは神ならぬウァレンティヌスには分からなかったが……よほど苦労をしてきたのだろう。
身なりはボロボロ、ローマ人でありながら浴場へ足を運ぶ余裕すらないのか薄汚れていて、その上怪我人も多く、誰も彼もが俯き、絶望し切っていた。
──これは、陛下が私を……神の愛を試しているに違いないっ!
世界で最も素晴らしきこのローマ帝国なれど、ここ近年は異民族の暴挙が激しく、国境付近に兵士たちが出向くことも多いと聞く。
事実、そうして兵士たちが出征した際に邪魔になるからこそ、クラウディヌス二世は兵士たちの結婚を禁止する命令を発したのだ。
だけど兵士たちも人の子であり……何よりも愛が最優先される筈である。
ウァレンティヌスは自らの正しさを、絶望し切っている彼らに神の愛を説くために息を吸い込んだ。
「神は我々を見捨てることなど、ありませんっ!」
ウァレンティヌスの声は高らかに、広場中に響き渡った。
絶望に顔を伏せていた彼らでも、その声には興味を惹かれたのだろう。
未だその瞳は絶望に曇ったままではあったが、それでも彼の方へと視線を向け、彼の口から放たれる言葉を聞こうと顔を上げたのだ。
その反応を見たウァレンティヌスは気を良くして言葉を続ける。
「貴方たちの身に何が起こったのか、残念ながら神ならぬ私には知る術がありません。
しかしながら、如何なる夜であっても、朝が来ない日はないのですっ!
神の子イェスは我々全ての人の原罪を贖罪するため、十字架にかけられゴルゴダの丘でその命を落としました。
されど我々は未だに原罪からは解き放たれた訳ではありません。
命を未来へ繋げるためには、未だに罪を犯し続けなければならない、不完全な存在でしかありません。
だからこそ我々は、神に祈り贖罪を続ける必要があるのです」
ウァレンティヌスの語りに人々は僅かながら興味を惹かれたのだろう。
彼の説法を聞こうと、彼らは徐々に近づいてくる。
その反応に気を良くしたウァレンティヌスは更に声を大きく張り上げることにした。
「そう。
だからこそ神の似姿たる我々も、神に倣い愛を重んじなければならないのです。
隣人に、家族に、妻に、子に。
彼らを大切に思う気持ちを重んじることこそ、我々が神に近づくための道なのです」
彼の言葉に感じ入るところがあったのだろう。
群衆の中にポツリポツリと俯く人たちが現れていた。
今は亡き家族を思っているのか、それとも遠くにある家族を思っているのか、それは分からない。
彼らが信じる神が何であれ、誰かを重んじる気持ちに違いはない。
その事実にウァレンティヌスは軽く頷き……この場を与えてくれた神と、ローマ皇帝クラウディヌス二世へと感謝を捧げる。
──ああ、これも神のお導きに違いない。
そして、思い立つ。
彼自身も皇帝の命に背き、だけどそれに許されてこの場に立っていることを。
罪を犯さぬ人はいない。
だけど、神に祈れば、その罪は許され……人は幸福に生きられるのだと。
そのことを伝えれば、彼らももっと神の愛を理解してくれるに違いないと。
「罪を犯さぬ人はおりません。
こうして貴方がたに神の愛を説くこの私も、皇帝クラウディヌス二世の命に背き、国を守る兵士たちに結婚を勧め、その司祭を務めたこともありました。
しかし、皇帝陛下は神の愛に気付き、その罪を許してくださいましたっ!」
そう彼が告げた瞬間だった。
今まで絶望に沈んでいた民衆たちの瞳に、色が戻る。
今まで悲しみに暮れていた彼らの瞳に、炎が灯る。
だけど……彼はそれに気付けない。
自らの語る神の愛を信じ切り、疑うことすらしていない彼には、民衆たちが神の愛に触れ涙する未来しか見えていなかった。
「だからこそ私は……っ?」
その所為だろう。
彼は自分の言葉を遮るように放たれたその石が額を打つまで、その存在に気付くことすら出来なかったのだ。
──何が、起こった?
……いや、違う。
額に石がぶつかり、視界が一瞬暗転したとしても、ウァレンティヌスは自分の身に何が起こったかすら理解できていなかった。
額から後頭部へと突き抜けるような痛みと、額から顔へと流れ落ちる赤い液体を見たとき、彼はようやく『自分が石を投げられた』という事実を理解する。
「……何をっ?」
「黙れっ!
薄汚い十字拝みどもがっ!」
「貴様の所為で、俺の妻はっ!
アイツらに、犯されっ! 畜生がぁあああっ!」
「私の夫も、ああ、生きたまま手足をもがれてっ!
私も、アイツらに……」
ウァレンティヌスの悲鳴に返ってきたのは、その数十倍の罵声と怒声だった。
確かにローマ帝国において、キリスト教の地位はあまり高くない。
むしろ迫害の対象となったこともある、泡沫宗教と呼ばれる程度の存在であるのは事実である。
しかしながら……
泡沫であるが故に、ここまで直接の憎悪を向けられることは、そう多くはなかったのだ。
「貴様がっ!
貴様らがいなければ、俺の娘はっ!」
「そうだっ!
てめぇら、十字拝みさえ存在しなければっ!」
「兵の方々、彼らを止めて下さいっ!
彼らは、一体、何をっ!」
目を狂気に血走らせる群衆を前に、ウァレンティヌスは自らの言葉によって彼らに神の愛を説くことを放棄した。
否が応でも放棄せざるを得なかった。
群衆に背を向け、彼をここまで案内してくれた兵士へと懇願する。
……だけど。
「馬鹿が。
コイツらはパンノニアからの難民……あの野蛮なゴート族に襲われた村の生き残りだよ。
この度の陛下が親征によって、ようやく救い出せたんだ」
「……ゴート、族?」
世界で最高の国であるローマ帝国ではあるが、その周囲に敵がいない訳ではない。
中でもデキウス帝を討ったゴート族は、その中でも凶悪な部類に入る。
軍人皇帝とまで呼ばれたクラウディヌス二世が彼らをドナウ川の向こう側へと追い返すまで、彼らはローマ帝国の領土を度々侵し続けていたのである。
「ああ。
ゴート族の侵攻を許したのは、前線の兵士が脱走を続けた所為だ。
故郷にいる妻子に会いたいと、逃げ出す連中が多くてな」
「そんな……」
その兵士の言葉に、ウァレンティヌスは自らの逃げ場が断たれたことを悟っていた。
──ならば、私のやってきたことは。
彼は良かれと思って兵士たちに結婚を推奨したのだ。
神の愛が、人々の愛を繋げ育み、このローマがもっと素晴らしい国になると信じて。
……だけど。
その兵士たちは、妻子に会いたいと兵役から逃げ出していた。
仲間が命惜しさに逃げ出し続けるような戦場で……残った兵士たちがどうして士気を保ち続けられるだろう。
そうしてローマ帝国軍はゴート族の侵略を許し……彼らパンノニアに生きていた民草は、ゴート族の暴挙に晒されたのだ。
そこで行われたのは、略奪と強姦と虐殺だ。
幸せに暮らしてきた彼らの幸せは、愛は……異民族の侵略の前に、儚く散り、彼らも奴隷として地獄のような生活を送ってきたのだろう。
──そんな、バカな。
──神は、神の愛は……
その事実に、ウァレンティヌスは胸につるした十字架の飾りを握りしめ、呆然として座り込む。
そんな彼へと、民衆が……パンノニアの生き残りという彼らが迫って来ていた。
その手に石を、棒を、杖を持ち。
兵士たちを堕落させ、自らの地獄を生み出した泡沫宗教の司祭へと、その憤りを叩きつける。
「がぁっ」
最初に叩きつけられたのは石だった。
その殺意の込められた投石によって頬骨を砕かれたウァレンティヌスの口からは、知らず知らずの内に悲鳴が上がる。
次に叩きつけられたのは棒だった。
憎しみを込めて振り下ろされたその一撃に彼の額は割られ、彼の身体は力を失って地に伏すこととなった。
「この、糞がぁっ!」
「くたばりやがれぇっ!」
……だけど。
彼らの怒りがその程度で収まる筈もない。
当然のことながら、彼らがウァレンティヌス司祭へ怒りをぶつけるのは、八つ当たりの意味合いも近い。
それでも……彼らは止まれなかった。
今までの地獄が、肉親を失った悲しみが、なすすべもなく犯された嫌悪が、子を笑いながら引き裂かれた絶望が、彼らの身体を突き動かす。
「っ、っ、っ」
そうして振り下ろされ続ける棒は、ウァレンティヌスの身体を打ち続ける。
骨を砕き、肉を裂き、彼の口から既に悲鳴が上がらなくなっても、だ。
ウァレンティヌスは既に痛みすら感じなくなった身体で、十字架を強く握りしめる。
だけど、神は救わない。
彼ら……パンノニアの民をゴート族の暴挙から救わなかったように。
打ち下ろされ、叩きつけられる棒に、ウァレンティヌス司祭だった身体は既に原型をとどめておらず……
「死ね、この十字拝みがっ!」
結局。
隻眼の、身体の半ばが焼けただれた老人が振り下ろした棒の一撃が彼の頭蓋をかち割ったことが、ウァレンティヌス司祭の命を絶ったのだった。
とは言え、彼が死んだ程度では、民衆の怒りは収まらない。
彼らは未だに晴れぬ怒りと絶望を、司祭だった肉の塊に向けて、振り上げ、振り下ろす。
何度も。
何度も。
何度も。
……何度も。
そうして、群衆が去った後。
「どうするよ、コレ」
「……知るか。
胸糞悪い。
適当にどっかに捨てるしかないだろう。
狼かカラスが食うだろうよ」
石畳に残された残骸に向かい、兵士たちがそう呟く。
人間同士が殺し合い、人間が刹那の内に人間だった肉に変わっていく戦場を経験していた彼らにとっても……その「ウァレンティヌスだった肉塊」は直視に耐えないほど、酷い状態で……
「ったく。
十字拝みのクズが、要らん仕事増やしやがって……」
「ああ、何が神の愛だ。
てめぇの糞ぐらい、てめぇで処理しやがれってんだ、ああ汚ねぇなぁ、くそったれ」
結局。
彼らはその肉塊をゴミのように鍬で板の上に乗せると、そう吐き捨てながら板を持ち上げる。
「しかし、クラウディヌス二世のお蔭で、しばらくは平和になりそうだな」
「ああ、流石は軍人皇帝様だ。
遠征に出る連中は少し可哀想だがな。
……故郷の家族に異民族が襲いかからないだけマシだよ、ほんと」
顔をしかめてその肉片を運ぶ兵士たちは、そう呟きつつ歩を進める。
行先は……近くの森である。
……墓など、作れる筈もない。
ローマ皇帝であるクラウディヌス二世は、彼らパンノニアの民の怒りがローマの無力に向かわないように、このゴミを生贄としてここへ送り込んだのだから。
こうして、ウァレンティヌス司祭はクラウディヌス二世によって処刑された。
だが、難民による殴打の末に原型を留めなかったという、そのあまりにも残酷な処刑法は、世間に伏せられており。
未だにウァレンティヌス司祭の死は、拷問による死、縛り首、撲殺など様々な諸説があり、定まっていない。