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第一章 8話

 ジンを庭の木に繋いでから、案内されたのは『湯殿』という、場所だった。一種のお風呂だろうが、湯船などはない。その代わり、すのこが床いっぱいに敷いてあり、いたるところで桶が蒸気をたゆたわせている。現代で言ったところのサウナのような物だ。

 本当は、男が別にお付きの者を付ける、と言ったのに八尋は断って別の場所に連れて行かれそうになった律花を連れてきた。律花が後ろを向いている間に、八尋は白い浴衣のようなものに着替えて、中にある木の椅子に座る。

戸惑う律花に八尋は蒸しタオルのような物と新しい着物を手渡した。

 「そこの衝立にでも隠れて体を拭いて来い」

 そこに来て、ようやく律花は一緒に連れてこられた意味に気が付いた。この家の人には女だと隠さなければいけないため。至極簡単な理由だ。

 「ここは、お風呂なの?」

 衝立に隠れながら律花は話しかける。声が反響して、少し響いた。

 「ああ。風呂だ」

 「でも、湯船とか無いよね。それに、八尋は服を着たままお風呂に入るの?」

 「風呂とはそういうものだろう?大体、律は風呂になんて入った事などないだろう」

 八尋の言葉に律花は首を傾げる。

 「なんで?あるよ。こういうのじゃなくて、お湯につかるヤツだけど」

 「湯につかるのは湯浴みだろう。風呂とはこう言うものだ」

 言葉と共に、ざ、とお湯を流す音が聞こえた。

 「律、この屋敷の中ではあまり無駄口は叩くな。誰に聞かれるとも限らないからな。それから、先ほどのこと、覚えているだろうな」

 「先ほどのこと?」

 怪訝そうな律の声に八尋はやや呆れたようにして答える。

 「『時柾』様、だろう?」

 「あ……」

 律花がようやく思い出すと、八尋の溜息が聞こえてきた。


 体を拭いてさっぱりとしてから出された着物を着る。先ほどの着物とは違って随分と柔らかくて肌触りも良い。着物は3ピースあって、まず、1枚を旅館の浴衣を思い出して、なんとか着ると、上にもう一枚着て、それから袴を穿く。着るのにてこずったが、なんとか着られてホッとした。

 衝立から出ると、八尋も丁度着物を着終わったところだった。

 八尋は律花の顔をみて顔をしかめる。

 「やはり、目立つな。その傷は」

 頬に派手に付いた擦り傷は、汚れを落として、身なりを整えた事で、逆に目立つようになってしまったらしい。

 「まぁ、治らない傷ではないと思うから」

 律花が手で確認しながらそんな事を言うと、呆れたような顔をされた。


 律花と八尋は畳の、趣味の良い部屋に通された。部屋の中は、そこまで派手ではなのに、生けてある花など、ちょっとしたところが目を惹いて、とても洗練されている。

 八尋が座ったところよりも少し下がったところに律花は座る。それが、作法だ、と言われた。

 しばらく待っていると、障子が開く。人が入って来たら、頭を下げるように八尋に言われていたので、律花は平伏した。

 するすると言う、衣擦れの音。頭を下げたまま視線で追うと、微かに畳の上に引きずるほど長い紅い着物が見えた。

 その人物が、八尋の前に向き合うようにして座ったようだった。

 「そちらの者、顔を上げなさい」

 その声は、低いことは低いが、想像していたのとは違い、やけに艶っぽい、滑らかな声。

 言われて少し体を起す。全部上げてはいけない。これも事前に教わった事だった。それでも、そうしただけで前にいる人の姿は見ることが出来た。

 視界に入った人物を見て、律花は息を呑む。

 女嫌い、と聞いていたから無意識にお堅い、男の人を思い浮かべていた。

 だが、目の前の人は、紅い着物を見事に着こなし、黒々とした、美しい長い髪を、後ろのごく下の方で緩やかに1つにまとめている。こんな、着物は、時代劇などで見るお姫様の格好だ。それに、目の前の人は、そんな衣装に負けないくらいに色っぽく艶やかだ。まるで、大輪の花のような存在感と華やかさを供えていた。

 ―――美人。

 律花は感嘆するしかなかった。

 「お久しぶりね。時柾」

 その人は八尋に向かって言う。

 「無事で何よりだわ」

 「そちらも、相変わらずの様で」

 例の、無感情な冷たい声と顔で八尋は言う。女は、軽く笑った。

 「相変わらず、はお互い様ね。それはともかく、今度こそもう駄目かと思ってたのに、よくも戻って来られたわね」

 「俺は、悪運が強いらしいので。あなたも、予想はしていたのでしょう?普段はこの時期には滅多に来ない、こんな場所にわざわざおいでだと言う事は」

 八尋の言葉に女性はまた、軽く笑う。

 「あなたのその、聡い所。気に入っているわ。……なにか、私にお願いしたい事があるんじゃなくて?」

 「こちらも、あなたの、手回しの良さは気に入っている。ツテと資金をお借りしたい」

 八尋の簡潔な言葉に、女は艶やかに微笑んで尋ねる。艶やかにも関わらず、その顔にはどこか凄みがあった。

 「覚悟は、決めたのね?」

 「言われるまでも無い」

 八尋の言葉に女は頷く。

 「では、お望みの物をお貸ししましょう。……ただし」

 と言って、そこで初めて女の目が律花に向けられた。律花はどぎまぎとしてしまって、急いで視線を畳に落す。

 女はそんな律花の様子に少し口元で笑ってから言う。

 「あなたがそれを達成するまで、人質にその子を預かって置くけれど」

 これには八尋も予想外だったらしい。微動だにしなかった体が一瞬、ぴくり、と動いた。

 「どうしてまた?」

 「面白そうだからよ」

 なんでもない事の様に、女は笑って言う。

 「今まで決して家臣を信用しようとしなかったあなたが、湯殿まで連れて行く子なんて」

 それに、と女は再び律花に視線を向ける。

 「どちらにしろ、あなたがこれからする事に、この子は足手まといになるでしょう?」

 そう言うと、女は立ち上がって律花の方へ歩いてくる。

 近くで見ると、なにか圧倒される。美人なせいもあるだろうが、それ以上に威圧感がある。

 「なかなかかわゆい顔をしているじゃない。この傷は勿体ないけれど」

 そうして、そっと律花の頬の傷を手でなぞる。

 「安心なさい。時柾。あなたが無事に帰って来るまで手を出しはしないわ」

 ―――手を出す、とはつまり、そういうことだろうか。

 そんな律花の内心など知ってか知らずか、女はきっぱりと、有無を言わせないように言い放つ。

 「早いところ、カタをつけて、さっさと戻ってくるのね」


 とりあえず、今夜一晩は八尋はここに泊まるらしい。律花にも、客人用、と個室が当てられた。

 夜になって部屋でくつろいでいたら八尋が部屋に来た。相変わらず、気が張っているのか、表情が鋭い。

 「すまんな」

 部屋に入って座るなり、八尋は言う。

 「面倒なことになってしまった」

 「それはいいけど。……八尋は、どこに何をしに行くの?」

 律花の、少々不安げなその言葉に、八尋は少し押し黙る。

 それから口を開いた。

 「悪いがそれは言えない。だが、なるたけ早くカタをつけて戻ってくる。だから、それまで朝熙アサキに正体を知られるな」

 「朝熙?」

 律花は首を傾げて問いかける。

 「先程の者だ」

 ―――あの美人か。

 正体を知られるな、とはつまり、女ということを隠し通せ、と言うことだろう。

 「わかった」

 頷いて続ける。

 「でも本当に、早く戻ってきてね。緊張感を強いられる生活、そう長くは続かなそう」

 「あたりまえだ。あのようなくだらんことに、時間などかけていられない」

 そう言って八尋は、話を切り上げるように立ち上がった。

 「俺は明朝早くに出立する。朝熙には律を客人として遇せとは言ってあるが、言って聞く者でもないから、何かがあったら自分で乗り切るしかない。……できるな?」

 「やってみる」

 律花が言うと八尋は満足そうに頷いた。

 「では、しばらくお別れだ。体を壊すなよ」

 そう言って部屋を去る。

 部屋の中には律花が1人残された。



 律花は神社によくいる巫女さんのような服を着て、畳の上に座っていた。

 目の前にはがっしりとした体つきの男。隣には律花と同じ格好をした老婆が座っていた。

 ―――ああ、これは例の夢だ。

 律花は口を開く。口の中はからからで、声が震えた。

 それでも、言わなければならない。それが自分のお役目ならば。

 「託宣は、くだされました」

 思ったよりもしっかりと声が出て安心した。

 「水神様は、天文十三年の睦月の三の日、寅の刻に生まれた娘をお望みです」

 それは、誰だか分かっていた。眼の裏に浮かんだ人物は、自分のよく知っている人物だったから。

 目の前の男が、恭しく平伏する。

 「確かに、承りました」

 そうして再度礼をすると、入り口から外へ消える。

 律花はそれを見送って深く息を吐いた。本当は、今にも泣き出したい気分だ。

 「やはり、わしが見込んだ女子じゃ」

 そんな声が隣から聞こえて見ると、老婆が皺皺の顔を歪めてにたり、と笑んだ。

 「お主には『力』があると思っとったよ。見えたのじゃろう?」

 律花が戸惑うと、老婆がひゃっひゃっひゃ、としゃがれた声で笑う。

 「長い間『見える』者は現れなんだ。ようやくわしも肩の荷が降ろせるわい。いいか、わしの後継者はお前じゃ。お前はわしの後を継がせてやる……次の巫女はお前じゃ」

 律花は震える。

 その震えは、どこから来るのかまるで分からなかった。

 目の前の老婆が恐ろしいのか、『見える』ことが知れてしまったことが恐ろしいのか、後継者に名指しされた事か。

 それとも、自らの友人が贄であることを告げてしまったことに慄いているのか。

 ただ、それでも律花は静かに平伏した。

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