第十一章 5話
「お前、曲直瀬先生にお礼を言っておきなさいよ」
言われて律花は目をぱちくりと瞬かせた。
ここは朝熙の部屋だ。たった今まで、律花は朝熙に呼び出されて「せっかくあの生意気な千鶴とか言う女を追い出せる機会をどうして無駄にしたの」と説教されていた所だった。朝熙が女嫌いなのは知っていたが、どうしてそこまで千鶴を目の仇にするのか、と呆れて問いかけた律花に朝熙は渋い顔で「以前いた、嫌な女を思い出すのよ」と言って、急に気分を削がれた様に説教を止めて黙ってしまった。ようやく愚痴に近い説教から開放されたという安堵と朝熙が気分を損ねてしまったのは自分のせいだろうかという多少の気まずさから、挨拶だけしてそそくさと部屋を退室しようとした時にこう言われたので、律花は咄嗟に何の事が理解できなかったのだ。律花の様子を見て朝熙は元の様子を取り戻したのか、呆れたように続ける。
「お前、もう忘れてしまったの? 自分で京まで呼びに言ったんでしょう? 曲直瀬先生。今、篠田に来ているのよ」
その言葉で、律花はようやく思い至る。八尋の病を治してくれた医者だ。
「いらっしゃっていたんですか?」
驚いた顔の律花に、朝熙は頷いて言う。
「私の持っている薬草目当てにね。珍しい物がいくつかあるから。……あとしばらくお泊りになる予定だから、一度くらい挨拶に行っておきなさい」
その言葉に頷いて「はい」と返事をすると、朝熙は顔をしかめて「他の事にもそれくらい素直に承諾するようになれば良いのだけどね」と言った。
彰に一旦告げてから曲直瀬の部屋へと行く。八尋の方からも礼を言ってあると彰が教えてくれた。八尋は、自ら出向いて曲直瀬に礼を言いに行ったそうだ。だから、律花は手土産などを持たずに直接礼を言いに行けばいいだろう、と言うような事を彰は言った。
「失礼します」
扉の前で律花が声を掛けると、中から返事の後、戸が開いて中から気弱そうな青年が現れた。青年は律花を見て、少し眉根を寄せて何かを思い出そうとする様子になる。
「あの……どこかでお会いしましたっけ?」
その言葉に、律花は笑みを浮かべて頷いた。
「はい、京で。私が曲直瀬先生にお会いしに言った時、一緒にいらっしゃった方ですよね?」
そう言われても、いまだよく思い出せないらしく、青年は相変らず眉根を寄せて律花を見つめて首を傾げる。その時、部屋の奥から声がした。
「何をそこでぐずぐずとやっているんだ。早いところ通してやらんか。本当に、お前は……」
その声に、青年は慌てて律花を部屋の中へと招き入れた。
「あの時は、ありがとうございました」
律花が言って頭を下げても、目の前の老人は仏頂面のままにこりともしないで座っているだけだった。
「お陰で、時柾様の命は助かって、今ではすっかり元気です」
律花が重ねて言うも、相変らず仏頂面。茶を持ってきて二人の前に置いていた青年が、その時になってようやく思い出したように叫んだ。
「ああ、もしかして、篠田の時柾様を助けて欲しい、って来た時のあの時の人ですか?」
素っ頓狂なその声に、律花は思わず破顔して頷く。青年は律花の顔をまじまじと眺めて驚いたような顔をした。
「いやあ、見違えたなあ。あの時は、大変な姿でしたから。こうしてきちんとされているとまるで別人のようだ。そうだ、そういえばあの時は……」
人好きのする様子でそう続けようとした青年に、老人の咳払いが重なった。それにぎくりとした顔をして、それから青年はそそくさとその場を退室する。その様子がどこと無く滑稽で、律花は思わず笑んでしまった。
「……本当に、そなたあの時、大変な姿をしていたな」
ふいに、水を差すように落ち着いた老人の声がその部屋に落ちる。律花はどこと無くその声色にただならぬ色を感じて背筋を伸ばした。
「体中怪我や傷だらけで、それでなくとも体力を使い果たして、もはや気力だけで動いているように見えた。それが、わしの心を動かした。こんなにも臣に想われている者の主ならば、失うには惜しいだろう、とな」
その声は、決して律花を褒めている調子ではない。それどころか、責めるような気配さえ伺わせた。老人は続ける。
「だから、いつもは絶対に順番を違えたりはしないのに特別に変えてしまったのだ。普段なら、決してこう言う時に不公平が無いように、二人の患者が来た場合はまず症状の優劣でどちらを優先するか決め、もしもどちらかを救う事でどちらかが命を落すような状況であれば、それは少しでも早くこちらに助けを求めに来た方にする、という事を徹底していた。その方が、後々にこちらもあまり気に病まなくて済むからな。……それなのに、わしは特例を作って時柾様を助けてしまった。それを、こうして今更になって後悔している」
しみじみとしたその言葉に、律花は身を硬くする。老人は静かな声で続けた。
「あの時、わしが篠田へ行った為に、助かるかもしれなかったもう一人の方が亡くなった。わしは、その方に特に思い入れがあったわけではないけれど、あの時自らが作った決まりを破って時柾様を助けてしまったせいで、罪の意識に苛まれている。今でも時々うなされる。夢にあの方が出てきて、本当は自分が助かるはずだったのに、なぜだ、と言うのだ」
障子を透かして差し込む日の光を受けて、老人の顔に深く刻まれた皺がその顔にはっきりと苦しそうな陰影をつけていた。それを見ながら、律花は思う。
―――この人は、今までに何度こういう思いをして来たのだろう。
医者であっても救えない命があって当然だ。それだけでなく、自分の決定がその人の生死を左右してしまう、そんな状況に立って、それで懊悩した事がどれだけあっただろう。何かを天秤に掛けて、どちらかを選び取らなければいけない苦しさを、何度味わってきただろう。
きっと、この老人が順番を破ろうとしなかったのは、そういう苦しみから少しでも逃れるためだ。そうして「遅く来てしまったものはそれも運だから仕方がない」と割り切れるように、長い長い年月を掛けてそう思い込むようにして来たのだ。それなのに、律花がそれを破らせてしまった。
―――でも。私は謝る事は出来ない。
ここで謝ってしまえば、律花は自分のした事が悪かったと認めてしまうことになる。だけど、律花は八尋が生きていてくれて嬉しいし、だから、自分がした事を否定できない。
それで、自分の思う事を言うしか方法は無かった。律花はきっぱりと老人を見つめて言い放つ。
「でも私は、先生が八尋を助けてくれた事が、八尋が生きていてくれた事が本当に嬉しいんです」
老人は律花のその言葉に少しの間目を伏せ沈黙してから、やがて呟く。
「そう。せめて、その言葉を聞きたかったんだ」
僅かに柔らかになったその口調に、律花はその言葉が曲直瀬の本当に望んでいたものだと知った。
律花が退室をする時に、戸口まで見送りに来た曲直瀬が不意に思い出したように言う。
「そなたも一応知っておいた方が良いな。そなたのせいで、亡くなった方の名前を。そうして、自らのした事を忘れない事が大切だ」
その言葉に律花が一瞬怯むようにするのを見て、曲直瀬は言う。
「責めているのではない。ただ、自分のした事を受け止める事は大切だ、とそう言っている。時柾様を救うためには、その方が死ななければ仕様が無かった。だから、感謝の念を持ってその方の名前くらいは覚えて置け、と言っているのだ」
その言葉に、律花は真剣な瞳で頷く。
「わかりました」
言うと老人は頷いて口を開く。
直後、出た名前に律花はこの上なく驚愕する事になる。
「その方の名は、尾張の織田信長殿だ」
老人は、そう言ったのだ。
律花のいた時代に「ジェンガ」という玩具がある。組木の様な色々な形を組み合わせて一つの直方体にした物を、一つずつ、その形を崩さないように部品を抜いていく。その中で、その形を支えている重要な部分を抜いてしまうと、一気に崩れて崩壊するのだ。
律花は今まで歴史というものにおける自分の状況を、無意識に、その安全な部品ばかりを取っているとばかり思っていた。だけど、違ったのだ。律花は自分の住んでいた場所まで繋がる歴史と言う大きな直方体を支える、大切な部品を気付かぬうちに抜き取ってしまっていたのだ。
織田信長。
その名前くらい、歴史にそんなに詳しくない律花でも聞いた事がある。小学校の社会科程度でも教えられる程の有名人だ。戦国時代、ばらばらに散っていた各地をまとめて行き、日本の全国統一を図った偉大な人。
では、彼がいなかったならば日本の歴史はどうなっていたのだろう?
自分たちがいた世界は、どうなっていたのだろう……?
―――あれ?
彰は不思議に思って目の前の律花の部屋を見た。今日はもう、律花は部屋にいる筈だ。曲直瀬の所に挨拶に行く、と言っていたがそこから帰って来た事の確認は取れているし、それから先の予定は無かった筈だ。それなのに、夕餉の仕度が出来たと呼びに着てみれば、部屋には明りも灯っていないで真っ暗なままだ。
「律、どうしたの? いるんだよね?」
部屋の中から確かに律花の気配はする。それなのでそうして問いかけてみると、微かに力の無い返事が返ってきた。
「どうしたの? 具合でも悪い?」
言いながら部屋に入ろうとすると、制止する声が聞こえた。小さい声で少し疲れたから夕餉はいらない、などと言う。
彰はその様子に再度首を傾げた。
律花の声は今まで聞いた事のない程に虚ろで、か細い声だった。
「本当に、大丈夫?」
もう一度問いただしてみるも、律花は大丈夫だと繰り返すばかり。
―――今度はどうしたんだか。
律花が悩んでいる姿を見かけるのは珍しくないが、このような反応をするのは見た事がない。だが、どう見ても今の律花は彰がこれ以上踏み込んでくるのを拒絶しているように見えた。
―――とりあえず、そっとしておくかな。
「じゃあ、おなかが減ったら栄にでも申しつけて。何か持ってこさせるから」
彰はそう声を掛ける。これに対する律花の返事はなく、彰は溜息を付いてその場を後にした。
その状況が、長く続くとは夢にも思わずに。
「律の様子が変?」
彰の言葉に八尋は眉を顰めた。彰の背後、部屋の後方にはすっかり律花の侍女の気分でいる栄が表情を曇らせて控えていた。
「ええ。最近色々な事があったからその疲れが出たのかとも思ったんですが、それにしてもあの様子は異常です」
その言葉に、八尋は眉根を寄せた。ここ数日、律花が八尋の前に姿を見せなかったのは臥せっている為だと聞いていた。輿入れの件で千鶴などと揉めたせいもあるのだろうから自分が訪れるのは逆効果かと思って放って置いたのだが、いつの間にそのような事になっていたのだろう?
八尋のその思いを読んだかのように彰は言う。
「おかしいのは三日ほど前からです。それまでは何ともなかったんですけどね。とにかく、部屋から一歩も出ないし誰も部屋に入れようとしない。俺や栄が夕餉や朝餉を持って行っても決して部屋に入れようとはしないし部屋の前に置いたままにしておいても手をつけた形跡がないんですよ。このまま何も食べないし飲まないと、どうなるかと思うと、流石に心配になってきまして」
実際、彰と栄で強行突破しようともしたのだが、中からつっかえ棒をして部屋が開かないようになっており、雨戸も閉め切り、その徹底ぶりが無理に扉を破ってでも入ったら律花がどうなってしまうのか、と恐ろしい事を考えさせた。とりあえず、扉の外から声を掛けると人の動く気配がするので生きてはいるのだろう、という事を確認してそれで退くしかないのが現状だった。
「ここはもう、時柾様しか説得できる人はいないかなあ、と思いまして。本当は主君のお手を煩わせる前に俺達で解決したかったんですけどね」
おどけたように言う彰に八尋は苦笑してみせる。
「いや。俺がやってみよう。よく報告してくれた」
八尋の言葉に、彰はにっこりと笑い、後方に控えた栄も心もち表情を明るくさせた。




