第十一章 4話
律花は結局、体調が戻らなくて次の日も横になっていた。
どちらにしろ、稽古もなくて暇はある。ゆっくりするのも良いだろう。それに、今は彰とあまり顔を合わせたくない気分だった。
そんな事を考えながらうとうととしていたら、もう役目は終わったから、と千鶴の所から律花の所に居ついてしまって、そのまま世話をしてくれていた栄が見舞い客の知らせを持ってきた。
誰かと怪訝に思いながら入ってもらった律花は、現れたその姿に驚いた顔いた。
「志摩様」
慌てて起き上がろうとしたら、笑顔でそのままで、と制されてしまった。志摩は見舞いにと持ってきた菓子などを広げて陽気に律花に挨拶をする。対して律花は戸惑っていた。
昨日千鶴に会ったばかりで、そうして今日は志摩が来る。これはやはり輿入れの件だろうか? そう、勘繰らずにはいられない。
「ごめんなさいね」
唐突に志摩がそう言ったので律花は我に帰返って志摩を見た。志摩は苦笑するようにして言う。
「北見が私のせいであなたに危害を加えたんですって? 本当に、困った男よね」
―――なんだ、その事か。
律花は胸を撫で下ろすが、次の瞬間、また身を硬くする事になった。
「それに、輿入れの事も。あなたの事だから、私や千鶴様に配慮して悩んでいるんでしょうね。申し訳ない事だわ」
ぎくりとした律花を、苦笑して見て、志摩は続けた。
「千鶴様の事はお聞きしたわ。……もっとも、噂でだけど。あなたが時柾様へ輿入れする事に悋気を焼いてご乱心、ですってね」
「そんなんじゃないです」
律花は即座に首を振って否定した。あれは、きっとそんな単純なものではない。きっと、色々な事が重なり合って、積もり積もって千鶴姫を押しつぶしていた、その結果だ。
律花の様子に志摩は少し不思議そうに首を傾げる。
「そうなの? 私はてっきりそうなんだと思っていたわ。あの方の時柾様のご執心ぶりは尋常なものではなかったから……でも」
言って志摩はその顔に僅かに自嘲するような色を滲ませた。
「千鶴様の気持ちも分からなくはないの。律、あなたは私や千鶴様にとっての脅威だわ」
予想だにしない言葉に呆気に取られる律花に自然な様子で苦笑して見せて、千鶴は律花の手に視線をやる。そして、そっとその横に自らの手を上向きにして添えた。
「ねえ、あなたの手と私の手、全然違うわよね?」
言われて並んだ二つの手のひらを見て、律花は赤面してしまった。志摩のすらりとしたしなやかな美しい手のひらに反して、律花のあまり大きくない手のひらは、至る所で豆が出来て潰れてまた現れた硬い皮膚によってお世辞にも美しいとは言えない見たくれになっていたからだ。思わずさっと引っ込めてしまった拍子に見えた手の甲にも、いくつか傷の跡が生々しく残っている。
恥じ入る様子の律花に、志摩の落ち着いた声が降ってくる。
「あなたのそれは、自らの道を自分で切り開いてきた証拠よ。自分の力で、一生懸命目の前のものに立ち向かった、そういう強さの証拠なの。……それは、私や千鶴様には持ち得ないものだわ」
律花が驚いて顔を上げた先で、志摩は憎憎しくさえあるように自らの手のひらを見つめていた。
「ねえ、律。私のお話をしましょうか。どうして私が時柾様にお輿入れする事ができたのか」
志摩の口ぶりは落ち着いてしっかりとしたものだった。だが、それでも律花は聞いてよいものか躊躇った。これは志摩の個人的な事情だろう。そんなものに自分が立ち入って良い物か?
そんな律花の心を読んだように、志摩は笑って言う。
「大丈夫。私が話すと言ったからには、それなりに自分の打算がある行動だから。……それを警戒している、というのならば聞かない方が良いかも知れないけど」
そんな事を明け透けに言われてしまえば今更引き返せない。そんな律花を見て志摩は苦笑する。
「本当に、律は誰にでも優しいわね」
そうして、しばし黙って目を伏せてから、再び口を開いた。
「私の父親はね、元は篠田の家臣をしていた人なの。それなりに義任様にもお目をかけて頂いていたし、領地も任されていたくらいのね」
それを聞いて律花が驚いた顔をしたので志摩は苦笑して続ける。
「だけどね、義任様のお怒りに触れて、戦の上での濡れ衣を被せられて打ち首にされてしまったのよ。家臣が打ち首って聞くとああそうか、ってすぐに納得してしまいそうになるけれど、けっこう大変なものよ。なにせうちにとって父親はいわゆる『殿』だったわけだし、一族郎党の事もあるし。勿論、領地は全て取り上げられてしまって、私達はいわゆる一文無しになってしまったわけね。うちの家臣たちはまあ、こんなご時世だから篠田のお城や父の知り合いや、あとは他の家臣たちが分散して引き受けてくれたようでなんとなかったけど、私達家族はね。母は知り合いを辿って出家して尼になったから良い物の、私はまだ若いからって出家は止められて。かと言って、自分たちの暮らしていくお金もないから、しょうがないから知り合いの伝手を辿ってどうにか篠田の下女として雇い入れて貰ったのね。……でも、私は長い間かしずかれて育っていて、何も出来ないしひ弱だし、それに同僚の下女の中には以前私のうちで使っていた下女達がいて、そういう人達が今まで使われていた腹いせをしたりで。それに、今考ええると情けない事だとは思うけどきっと、私の矜持も高かったのね。……そういうわけで、早々に音を上げてしまったの。もう、こんなのでは生きていてもしょうがないって。いっそ死んでしまおうか、って。中庭の木に縄をかけてね、こう……」
志摩は手振りで輪を作って、それに首を通す真似をする。
「そうしたら、その時に突然彰さんが現れてね、こう言うのよ。今まで時柾様の命令で注意して見ていたけど、やっぱりあなたに下女は無理でしたね、って。あの人って時々笑っていてもそうじゃないんじゃないかって思う事があるけど、その時程そう思った事はないわ。……それで、彰さんは私にこう言ったの。『主人があなたにはどうせ下女は務まりそうにないから、自分の元に輿入れするようにと申しています』って」
その言葉に、律花は少し驚いた。八尋が自分からそう言う事を申し出たのが意外だったからだ。だが、律花のそんな心を察したように首を振って見せて、志摩は続ける。
「時柾様が私に気を使ってくれたのは、私の父のお陰なの。そもそも、父が打ち首になった理由は、何度も時柾様の事で義任様をお諌めして、義任様の並々ならないご不興を買ったからなの。だから、時柾様は私に申し訳ないと思ってなんとか私の救済策を考えてくださったのよ。かしずかれて育った私には働く事ができないだろう、それならばお輿入れするしか手は無いって。本当はそんな勿体無いお申し出、お断りするべきだった。だけど、私は浅ましくて、もう、あそこで辛い思いをしないですむのなら、と差し伸べられた手に必死で縋った……」
そこで、志摩は自嘲するように薄く笑みを浮かべて首を振る。
「いえ、縋っている、ね。私はいまだにこうしてここにいるもの。侍女をつけないのも、あまり時柾様に負担をかけない事と、自分で少しでも自分の事はできるようになりたいと思ったからだけど、それだって欺瞞だわ」
志摩は真剣な顔になって更に続ける。
「北見の事もそうね。あの人は律儀に恩を感じているようだけど、あれも私が少しでも自分が良い事をした気になりたくてやった事だわ」
その言葉に律花が怪訝そうな顔をすると、志摩はふと我に返ったように苦笑して言う。
「北見が私に恩を感じているでしょう? あれはね、北見が沖房様の事でやはりお家が取り潰されて、身の振り方に困っている時に私が時柾様に北見を救ってくれって助命のお願いをしたからなのよ。あの時の時柾様の怒りは本当にすごくて、害は一族にまで及びそうだった。特に、北見は嫡子だったから、親子揃って、という話になっていたわ。それを、どうにか張本人の沖房様お一人で勘弁して、とお願いしたのよ。……それは、昔の自分を見ている様で忍びなかったからよ。父親のせいで自分にまで災いが降り注ぐ辛さを知っていたから。恨みたくなくとも父親を恨まずにはいられない気持ちとかね。それに、沖房様のお父上と私の父は以前からお付き合いがあったから、その関係で北見は幼少の頃から知っていたし」
そこまで言って、志摩は再び自らの手を見る。志摩の手は震えていた。
「でもそれだって、もしかしたら北見をここに縛り付けるだけの結果に終わったのかも。北見はあなたに辛い事があった時、そこから救い上げてあげる訳じゃなくて、自分でそこから抜け出せる力を与えたわよね。それは、偉い事だと思うわ。私にはとても真似できない。……だって、私には与えられるほどの物は何もなかったんですもの」
そこで、しばし沈黙がおりた。志摩はじっと何かに耐えるようにして手を見つめ続ける。
やがて、大きく息を吐いた。
「ねえ、律。私、本当は今日ここに来て私の輿入れの真相を話してあなたの輿入れを促す言葉を言いたいと思っていたの。言えると、思っていたのよ。……でも、駄目ね。やっぱりどうしても、言えないの」
苦しそうに出されたその言葉に、律花は目を見張る。いつも前を向いて明るく笑っている印象だった志摩は、律花の視線から顔を隠すように俯けていたのだ。
「ごめんなさいね。私、やっぱりあなたが輿入れするのは恐ろしくて堪らない。時柾様はお優しいから、きっと私をこの地位から下ろす事はないでしょうけど、でも、私の方はいつの間にかそれだけじゃ物足りなくなってしまったのね……あの人が、他の人の元に行ってしまうのがこんなに恐ろしいなんて」
呆然とする律花の前で、志摩はポツリと呟く。
「桐乃様の気持ちが、少し分かる気がするわ……」
「桐乃様?」
聞きなれない名前に思わず律花が問い直すと、志摩は苦い笑みを浮べた。
「昔、嫉妬に狂わされて身を滅ぼしたお方よ」
志摩はそれから詫びを言って去って行った。
誰もいなくなった部屋で律花は考える。北見の事、千鶴の事、志摩の事……。
夜になるまでずっと考えていた。
「そうか。……もう、気は変わらない?」
律花が告げた言葉に、彰は残念そうに問う。律花はきっぱりと頷いた。
夜になって彰の手の空いた時で良いから、と来てもらってすぐに輿入れの件を断る事を告げたのだ。
「八尋には、私が自分で言います」
律花が駄目押しのように言うと、彰は大きく息を吐いた。
「もう、気持ちを変える事は出来なそうだね。理由は、千鶴姫? それとも志摩様?」
その言葉に、律花は視線を逸らす。
「別に、そう言う事じゃありません。ただ、私はやっぱりそういう風に気軽に輿入れとかしちゃうのは良くないと思っただけで……」
弁解のようなその言葉に、彰はしばらく律花に視線を注いでいたが、そのうちにそれを逸らすようにしてポツリと言った。
「律は、情に絆されやすいんだね」
静かで穏やかだが言い訳を許さないその口調に、律花は黙り込む。彰は続けた。
「いいかい、律。君は自分が心の中で時柾様に輿入れする事を本当は望んでいるんだ。望んでいるからこそ、そのせいで千鶴姫や志摩様が傷つくと思うと後ろめたい気持ちになってそれを我慢しなければいけない、なんて気持ちになるんだよ。でもねえ、律、君はそうやって自分を押し込めれば、誰も傷つかなくて済むと思っているかもしれないけれど、そういうのはなんだか間違っていると思うんだ。それに、君が断ったって傷つく人がいると思うよ?」
その言葉に、律花は怪訝な顔をする。彰は微笑んで自らを指差した。
「折角この話を進めるために骨を折った俺が傷つくな」
その骨の折り方がとても良くなかった、とは思ったが、それでもそのおどけた口調に律花は苦笑してしまった。それを見て、彰は続ける。
「それに、時柾様だって傷つくと思うし。それに何より、律、君自身が傷つくんじゃないかい? そうやって他人を思いやって自分を押し込めて、自分は我慢して。そういうのって理解不能だな」
彰はそのまま律花を見据えて、さらりと続ける。
「はっきり言って、気持ち悪いとさえ思う」
平然とそんな事を言われて、律花はずきりと胸が痛むのを感じた。だが、相変らず彰は穏やかに続ける。
「だけどまあ、この件に関しては諦めよう。律の決意を変える事が出来るとは思わないから」
そう言って、彰は軽く律花の頭を撫でて去って行った。
彰に言われた事もあって、八尋には「いつかは自分は元の時代に帰るつもりでいるから、今輿入れをしてしまったら事後処理がきっと大変だと思う」という理由にして輿入れを断る事を伝えた。八尋はただ、頷いて「そうか」と言っただけだった。
律花が輿入れをしない、とすれば千鶴は離縁する必要がない。彰は律花がそうとりなした事もあってか千鶴に対する処罰は無い事にしてくれた。
事態は、表面上は全て丸く収まったかのように見えた。ただ、まるで彰の言葉に触発されたかのように、律花の胸には理解できない複雑な思いがもやもやと微かに渦巻く事になったのを除いて。




