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第十章 6話

 しばらくは城の中の、植物などが多い中庭や縁の下などと通って人目を凌いでいた。そうしているうちに夜になって、篝火を焚いて律花と八尋は捜索される破目になってしまった。律花は何も喋らない。八尋もただ無言で居るだけだった。

 何度か見付かっては数人の安曇の男達と追いかけっこをするのだが、闇が濃いのと城の造りが複雑なのが功を奏してなんとか撒けた。だが、城門の周辺には大量の兵が見張っているし、城の周りはぐるりと堀に囲まれてしまっている。うまい逃げ道は見付からないように思えた。

 何度目かにそうやって兵を撒いていた時だった。不意に、腕を引っ張られてやぶの中へ連れ込まれた。連れ込まれたそこは、丁度上手い具合に陰になっていて兵をやり過ごすのにぴったりの場所だった。

 「やっと見つけたわ」

 腕を引っ張った者の声は、どうやら女のようだった。律花はその声に覚えがあったのでハッとそちらを振り返った。

 「蘭子様」

 律花が言い当てると、蘭子が闇の中でにっこりと笑った気配がした。そうして、また声がする。

 「あんたたち、酷い騒ぎを起こしてくれたわね。……まあ、いい気味だけど」

 言ってから、くすりと一人で笑って続ける。

 「逃げるのでしょう? ついていらっしゃい」

 蘭子は流石にこの城で育っただけあって城の事を熟知しているようだった。律花は本当は、欄子に迷惑がかからないように辞退しなければ、とも思わなくはなかったのだが、だからといってこの人の助けを借りなければここから逃げ出せないだろう事も逃げ回っていた状況から身に染みていた。それに、なにより律花の脳裏には、蘭子を守って見せると言い切った蘭子の母親の姿が印象深く残っていて、それが妙に信頼できる気がしたのだ。それなので、謝りながらも有難く蘭子の後に続いた。

 闇の間を上手く進みながら蘭子は気軽な調子で言う。

 「武器庫などが爆発されていて、父上が大怒りだったわ。これで、篠田への出兵は遅れる事になると思うから安心なさいな。あと、もし出来れば篠田に着いた後、わたくしはまだ諦めていないって朝熙様にお伝えして欲しいのだけど」

 その言葉に、律花がなんとも言えない顔をしたのを敏感に感じ取ったのか、蘭子は開き直ったかのように笑う。

 「わたくしを甘く見ないで欲しいわね」

 気楽な調子でそんな事を話しながら、普段は使われていないという裏の門の所まで来て、今まで余裕の表情だった蘭子の顔が急に強張った。そうして、当惑したように呟く。

 「橋が、ない」

 言われて見てみれば、そこには黒こげた何かの残骸がある他はなにもなかった。

 「彰が焼いていったか」

 八尋が納得したように言う。そちらの方を向き直って、蘭子は狼狽した声を出した。

 「冷静に言っている場合じゃないわよ。もう橋はここしかないのよ? 正門はあの通り警備が厳重になってしまったし……」

 その言葉に、八尋はしばし考えるようにしていたが、やがて慎重に口を開いた。

 「堀を泳いで渡るしか方法はないようだな」

 「堀を?」

 蘭子は訝しげに問い直す。八尋はあっさりと頷いた。

 「手数だが、その間どこかで小さくでも良いから騒ぎを起こして兵を引き付けておいて欲しいのだが」

 蘭子は迷うように、窺うような瞳で八尋を見る。

 「でも、それは危険では?」

 それに対する八尋の答えはひどく短いものだった。

 「これしかもう、方法はない」

 きっぱりとしたその言葉に、八尋の意見を覆す事は出来ないと悟ったのだろう。蘭子は決意したように頷く。

 「わかりました。なるべく上がる場所が人目に付かない場所が良いわよね? それならば案内するからついてきて」

 きびきびと歩き出す二人の後に続きながら律花は密かに顔を青褪めさせていた。

 律花は、水が恐い。それはこちらに来てからも変わらない。


 「ここならば、水を入れている川に近いから、上がる時には水深が浅くなっているでしょうし、人気もないと思うわ」

 蘭子に案内されて来た場所で、八尋と律花は礼を言って蘭子と別れた。蘭子はこれから、全く反対側の場所で律花たちを見かけた、と言ってやると笑って言って去って行った。

 律花は改めて暗い水面を見る。闇の中で、奈落のようにも見えるそれは完全に恐怖の対象でしかない。

 「律、下りるぞ」

 石垣を検分していた八尋が、どうにか足がかけられると判断したのかそう声を掛けたので、律花はハッとした様に八尋を振り返った。八尋は怪訝な顔をしていたが、やがてようやく気がついたようで納得した顔をした。

 「そういえば律は、水が駄目だったのか」

 律花の顔は青褪めていて、今にも倒れそうなほどだ。体は隠しようもなく、震えが止まらない。だが。

 「すまない、律。耐えてくれ。これしか方法はない」

 八尋は言って、律花に手を差し出す。律花はしばらくの内心の葛藤の後、恐る恐る手を差し出した。

 ―――わがまま言ってる場合じゃないんだ。

 学校の水泳の授業のような、暢気な状況ではないのだ。誰も「今日はやめておこう」なんて言ってくれない。おちおちしていたら、捕まって殺されてしまうのだから。

 ごつごつとした石垣を下るのも大変な作業だったが、律花はそれ以上に段々と迫ってくる水面に耐えるのに必死だった。

 遠くのほうでわっと騒ぎが起きるのが聞こえて、それを期に、八尋はいままで用心深く降りていた石垣の途中の段階で手を放し、そのまま水中に飛び込む。水音は騒ぎの音に重なって目立つ事はなかった。

 「律」

 水の中から八尋が呼ぶ。手を差し出して、律花が来るのを待っている。

 だが、律花の足は固まってしまったように動かなかった。足が自らの物ではないようにその場から離れてくれない。目は吸いつけられるように黒くたゆたう水面へと、嫌でも引き付けられている。

 ―――跳ばなきゃ。

 せっかく蘭子が起こしてくれた騒ぎだって無駄になってしまう。

 そう思って自らを奮い立たせてみるものの、やはり足は動いてくれなかった。

 「律」

 八尋の声がする。律花がそちらを見ると、黒い水面にぼうっと浮かび上がる八尋の姿が律花の方へ両手を差し伸べている。真剣な声が耳に届いた。

 「大丈夫だ。水面を見るな。俺の方に飛び込んで来い。そうしたらあとは、俺が岸辺まで連れて行く」

 差し出された八尋の手を見ていたら、ふと、以前もこんな事があったと思い出した。

 ―――そうだ、乗馬の時だ。

 乗り移れ、と言って両手を差し出した八尋。あの時もちゃんと、律花を支えてくれた。それを思い出して、少しだけ勇気が出てくるのを感じる。

 律花は目をぎゅ、と瞑る。

 ―――大丈夫、大丈夫。八尋は信じられる。

 自分に言い聞かせて、大きく息を吸うと、宙に向かって足を踏み出した。

 風を切る音が耳に聞こえたのは一瞬。水に体を打ちつける衝撃と共に、次の瞬間には、律花の体はひんやりとした水の中にいた。同時に耳や鼻に水が浸入してくる。着物が水を吸って重く体に纏わりつく。ぐい、と何かに引かれる様な感覚があって、一瞬プールでの事を思い返して混乱しかけたが、その直後、体を支える強い力を感じて水面に引き上げられた。

 「大丈夫か?」

 耳に聞こえた声に安堵する。夢中で自分を支える体にしがみ付くと、少し苦笑した様子ではあったが、八尋はそのままゆっくりと泳ぎ始めた。

 「そのまま掴まっていろ。すぐに岸に着く」

 そんな言葉に、律花はただ必死で頷くだけだった。


 ぼたぼたと水滴を垂らしながら、二人は何とか岸に這い上がった。蘭子の言ったとおり、人気はない場所で、しかも水深が浅くなっている場所だったらしいが、それでも登るのには一苦労だった。

 一足先に岸を上り終わった八尋が最後の仕上げに律花を上から引っ張って岸に上がらせて、ようやく一息ついた。

 「ありがとう、八尋」

 しばし息を整えた後、律花はやっと気を取り直して言った。

 八尋は自分の袖を絞ってなるたけ軽くしようとしている所だったが、律花の言葉に振り返った。軽く頷いてから、自分の行動を示す。

 「風邪を引かないよう、なるべく水は絞っておいた方が良い。暖かくなってきたとはいえ、まだ夏と呼ぶには早いからな」

 律花が頷いて着物を絞っている間に、一足先にそれが終わった八尋は周囲の様子を見渡しているようだった。律花が終えると八尋は言う。

 「彰達と合流するためにかなり歩かなければならないが、大丈夫か?」

 その言葉に、律花は首を傾げる。

 「歩くのは大丈夫だけど、道は分かるの?」

 八尋は頷いて目の前の川を指した。

 「この川は篠田や木野からずっと流れてきている。これに沿って歩けば、まず間違いなく篠田には辿り着くだろう」

 そうして、律花が元に住んでいた場所からは信じられないくらいに星の多い空を指差して説明する。

 「あちらが北だから、こちらが東でこちらが西。……こちらに遡って行けば良いだろう」

 律花は思わず感嘆の声を漏らす。知識として、星で方角を見る事が出来るのは知っていたが、実際にこうして活用するとは思ってもみなかった。

 「じゃあ、早く行こう。彰さん達、きっと心配してるよ」

 少々弾んだ声でそう言って、律花は立ち上がる。八尋もそれに倣った。


 川に沿って明りの一つもない、暗い夜道を二人は歩く。

 しばらく、二人とも無言だった。お互いに、今日はあまりにも多くの事がありすぎた。それを整理する時間が欲しかったのだ。

 律花は先程から自分が刺した男の事を考えていた。刺しておきながら、あの男は大丈夫だろうか、と考えるのは虫の良すぎる話であるが、少しでも傷が軽ければ良い、と思わずにはいられなかった。自らの手で、ああいう風に人を傷つけたのは初めてだ。思い出すだけでも震えが走る。だが、律花は後悔はしていなかった。

 ―――あれ以外に八尋を救う方法はなかった。

 八尋が生きていたので、律花は満足だ。こんな事を思ってしまう自分が少し恐くなる。

 もし戦場で八尋が殺されそうになっていて、自分の手の中に刀があれば、律花はやはり相手を斬りつけるだろうか。それならば、今まで人殺しをあれだけ厭うて、非難してきた自分は何なのだろう。もちろん、人殺しなんていけない事だ。だけど、目の前で八尋が殺されそうになっていたら?

 ―――私はやっぱり、その人を殺すかもしれない。

 今までずっと否定してきた事。自分は誰かを傷つけたりは絶対にしない、と。それはしてはいけない事だ、と。たしかにそれは正論なのだけど、きっと正論だけではやっていけない事もあるのだ。物事は、黒か白かで完璧に割り切れるほど簡単には出来ていないらしい。

 ―――それに、私は実際、こういう人間なんだ。

 白にもなり得れば、黒にもなり得る。ずっと否定したかった。自分は善良な、真っ白な人間だと思い込んでいたかった。そうでない自分を否定していた。

 だけど、そんな自分を受け入れるしかないだろう。もし、黒い事を否定して白いままでいたのなら、あの時、八尋を救えなかった。

 ―――私は、偽善者だったんだ。

 そんな事をようやく受け入れる。朱子の夢で言った言葉が今更のようにじくりと思い出された。

 だが。

 ―――そうだったけど、それに気付いてしまったけれど、それでも私はできるだけそのままでいたい。

 やはり人を殺すのは良くないといい続けたいし、なるべく暗い部分に足をとられないようにして生きて行きたい。

 ―――戦がなければいいんだよね。

 そんな事をぼんやりと思う。戦だけでなく、城の中での諍いごともなくなって、ここが平和になれば良い、と心底思う。そうしたら、八尋も彰も、それに自分の好きな人達みんなが、人を殺さなくてすむのに、と。

 だが、現実はそうではない。ここはなんと辛い時代なのだろう、と思わずにはいられない。

 そんな事をつらつらと考えていたら、八尋がふいに口を開いた。

 「律、大丈夫か?」

 律花は思案から醒めて首を傾げるようにして問いかける。

 「何が?」

 「人を、刺しただろう? 律はああいうのを一番嫌がるのに」

 今の今まで考えていた事を見透かされたようで、律花は思わず笑ってしまった。

 「大丈夫。それで、八尋が助かったなら本望だって自分の中で結論が出たところ」

 その言葉に、八尋は少し意外そうにしたが、それから改めて言う。

 「律には色々と辛い思いをさせて済まないな」

 「そうでもないよ」

 律花は割と平然と言ったが、八尋は心の中でもう一度謝った。

 もしかしたら、自分はこの娘をもっと悲しませるような事をしようとしていたのかもしれない。そう、思ったのだ。なぜならば、八尋は律花たちを無事脱出させたならば、あの安曇の城で死のうと思っていたのだから。いや、積極的に死のうと思ったわけではない。だが、あの時の八尋にとって生きている事はどうでも良いことだったのだ。

 物心ついてからずっと夕のためにだけに生きてきた。その夕に自分を道具として扱われたのは酷く衝撃的なことだった。今まで生きてきたのも、ほぼ夕のためだと言って良い。それなのに、夕にそんな風に言われた時、大きな虚脱感が襲ってきた。今までの自分の価値観を全て否定するそれに、八尋は生きる意味を見失った。正直、もうどうとでもなれ、という気持ちになったのだ。

 ただ、ふと、自分のためにここまで忍んで来た律花だけは逃がしてやらなければ、と思い立った。だから、姉を気絶させて彰と共に脱出を図ったのだ。堀に掛かる橋の上で敵に囲まれた時、遠ざかる律花を見ながら、これで自分の役割は終わったのだ、と思った。その場で死ぬつもりで居たのだ。それなのに。

 あの時の光景は忘れられない。一瞬、何が起こったのかわからなかった。倒れた男の向こうに居た律花は、とても強い瞳をしていて、まっすぐに八尋を見据えていた。髪も着物も乱れて、息も切れ切れで、それなのに普段は幼いだけに見える律花が一瞬、なんて美しいのだろう、と思った。

 ふいに、律花がクスクスと笑い出した。八尋が怪訝そうにすると、律花は説明する。

 「前にもこうして、夜に八尋と歩いた事があったなあ、ってふと思い出した。ジンを拾ったりして、山賊に掴まったりしたんだよね」

 その言葉に、八尋はつられる様に苦笑した。

 「そうだな、それで律は家族が恋しいと言って泣いたんだ」

 律花はその言葉に、少し八尋をねめつける。だが、八尋はどこ吹く風で、平然と続けた。

 「律、律の家族はどのようなものだった?」

 何気ないように繰り出されたその質問に、律花は少し困ったように黙り込んだ。それから、ぽつりぽつりと話す。

 「どんな風、って言うと困るんだけどね。いつも一緒に居て、それが当たり前になってるから、気遣ったりしないで……空気みたいな存在? 時々疎ましくなるときもあるけど、でも、時々その存在の大切さにはっと気付かされるの。風邪を引いた時に優しく頭を撫でてもらったりとか……」

 それから律花は思い出すように少し言葉を切って、それから続ける。

 「私、小さい頃、学校でいじめられた事があるんだよね。イジメって程大層なものでもないけど、なんか、良い子ぶっちゃってそれが気に触る、みたいな。そんな感じでクラスの子全員から無視された事があるの……うーん、こう言う事言っても八尋には実感沸かないよね?でも、みんなが仲が良いのに、私だけ一人ぼっちで、すごく悔しくて寂しかったの。でもね、学校ではそうでも家に帰ったらみんな普通なの。普通に接してくれて、それは家族が私が学校でそういう状況にあるって知らないし、あたりまえなんだけど、でも、それがすごくあったかく感じてね。その時ふと、ああ、この人達はきっと私がどんな目に遭ってもきっと私の味方でいてくれるだろうな、って思ったの。そういう、絶対的に信用できて安心できる場所、みたいな所じゃないかな? 家族って」

 律花はそう締めくくって、大きく息を吐く。八尋はしばし黙っていたが、やがて静かに口を開いた。

 「俺の場合は、律のやり方で行くと家族は姉上だけになってしまうな」

 その言葉に、律花はハッと八尋の横顔を見たが、闇に隠されて八尋がどんな表情をしているかまでは読み取る事はできなかった。

 「父も母も、俺には遠い人物だったし、他に親しい者などいなかった。俺にとっては姉上が全てで、姉上にとってもそうだと思っていた」

 何の感情を含めずに淡々と話す八尋に、律花は逆に胸の痛みを覚える。

 「その代わり、俺たちはずっとあのままだと思っていた。何があってもお互いの繋がりは生涯変わらないものだと……人があんなにも簡単に変わってしまうものだとは知らなかったな」

 乾いた声はそれ以上の何もなくて、それが八尋の心の空洞そのものなのではないかと思われた。律花は思わず足を止める。それに気付いて八尋も不審そうにそれに倣った。

 「八尋、なんで泣かないの?」

 突然の律花の言葉に、八尋は怪訝な顔をする。律花は続けた。

 「夕姫に八尋の話を沢山聞いたの。八尋は昔、夕姫の前ではちゃんと大声で笑ったし、冗談も言ったし、泣きもしたって言ってた。ちゃんとそう言う事が出来るんでしょう? なのに、何で泣かないの? 悲しくないの?」

 八尋はしばし当惑して律花を見ていたが、やがて苦笑するように言う。

 「どうしてだろうな。自分でもわからない……感情は、長い間押し込めすぎていてあまり上手く働かなくなってしまったのかもしれないな」

 それを聞くと、律花は首を傾げる。

 「どうしたら? 上手く働くようになる?」

 「さあ? 見当もつかない」

 八尋が答えると、律花はしばし考え込んだ後、手招きをして八尋に座る様に促した。八尋は怪訝に思いながらその場に座り込む。すると次の瞬間、ふわりと暖かいものが覆いかぶさってきた。驚く素振りの八尋に、両腕を八尋の首に回したままで律花は言う。

 「この前の時は私が胸を貸してもらったから、だから今度は八尋の番だよ。思う存分泣いて良いから。泣いたら少しはスッキリするよ。涙と一緒に色んな物を流しちゃえる気になるから」

 八尋はやや呆然としていたが、律花が大真面目なのを知って、苦笑して辞退する事はやめた。代わりに、そのまま目を伏せる。涙は出てこないけれど、温かくて柔らかい体が心地良い。なにか、心の底が温まってくるような、そんな気持ちがする。

 「八尋、もし八尋が寂しかったら私が八尋の家族になるよ。八尋は一人じゃないんだよ? 彰さんも私もいるんだからね? だから」

 耳の側で聞こえる声は温かくて真剣だ。必死の律花の顔が目に浮かぶようだった。

 律花はもう一度、だから、と繰り返す。

 「死のうとなんてしないでよ。私は、八尋に生きていて欲しいんだから」

 律花が涙声なのにも驚いたが、それ以上に自分があの時死んでも良いと考えていた事が律花に悟られていた事が意外だった。

 「私は八尋が死んじゃったら悲しいよ。八尋が大切だよ。だから、死なないでよ?」

 折角乾き始めた着物の背の辺りに、水滴が落ちるのを感じる。涙声で震える体が、なんとも愛おしい。

 「……わかった、律。泣かせて済まない」

 背に手を回して優しく宥める様に叩いてやると、律花は更にきつく手を回してきた。

 律花が泣き止むまでの間、八尋はただ、そうしていた。夕の事で出来た心の穴に、何か不思議と温かいものが少しずつ流れ込むのを感じながら。


 律花が泣き止んでから、二人はまた歩き始めた。歩き始めて八尋が思い立ったように言う。

 「以前もこうして、律に命を助けられた後だったのだな。二人で歩いていたのは」

 その言葉に、律花は咄嗟に何のことか分からずに首をかしげる。八尋は続けた。

 「俺が山に埋まっていただろう」

 あの時は確か、沖房に埋められた後だったのだ。あの時も、信じていた者の裏切りにあって八尋は心に穴が開いたようになっていた。そこに、邪気の無い律花の声を聞いて、それに触れて少しだけそれが癒されたような気になったものだった。

 律花は思い出したように、ああ、と言う。

 「あの時だね。……そう言えば、言おうと思ってたの。沖房さんの事」

 その言葉に、八尋も安曇の城で沖房を見かけた事を思い出す。律花は無邪気に続けた。

 「沖房さんはね、私が頼んでついて来て貰ったんだよ。八尋の所へ行くのに、人数が足りないからって。それに、八尋、竹筒の事は気付いてた?」

 律花の口調に、やや責める色があるのに、心外だと言う様子で八尋は答える。

 「竹筒の事は気付いていても、それでも信じていた者に裏切られた衝撃は大きいだろう? 俺の気持ちも察してくれ」

 「そっか」

 一度はそれで納得しそうになった律花だが、また、気を取り直したように言う。

 「でも、今日、脱出のためにあんなに頑張ってくれたんだから、もうあの牢に戻すなんて事はしないよね?」

 律花の言葉に八尋は諦めたような表情で肩を竦めた。

 実際、もうその時受けた傷はほとんど塞がっていて、沖房に対して以前ほどの怒りは感じられなくなっていたから、それでも良いと思った。

 「どうやら今回は降参するしかないようだな。律は俺がそれを受け入れなければ一晩中でも横でその事を言い続けるに決まっている」

 半ば揶揄するようにそう言うと、律花は少し考える風をして、それからにっこりと笑った。

 「まあ、否定はしないけど」

 八尋は呆れたような顔をした。それから、ふと思い出したように川に目をやって「沖房といえば」と言う。

 「この川は、篠田にも繋がっていると言っただろう? 一度だけ、三人で蛍を見に行った事があったな」

 誰、と詳しく言わなかったが、残りの一人は夕だろう。律花は夕にも、八尋と沖房の三人で蛍を見た話を聞いた事があった。

 「蛍を籠に入れて持って帰ったら朝になって光ってなかったから、死んだのかと思って庭に捨てたら夜になって庭で光りだしたんでしょう?」

 律花が言うと、八尋は少し驚いたようにしたが、それから頷いた。

 「いいなあ。私、蛍って一度も見たことがない」

 律花が言うと、八尋は川べりを見渡してから言う。

 「まだ、時期が少し早いな。あとふた月もすればたくさん出てくる。その時にまた、来れば良いだろう」

 「連れて来てくれるの?」

 律花が問いかけると八尋はこだわりなく頷く。

 「律が来たいならば」

 「来たい」

 即座に律花が返答すると、八尋は苦笑するように頷いた。

 「では、約束だ」


 やがて夜が明ける頃、馬を傍らに待っていた彰達と合流した。一晩をかけて歩き続けてへとへとになっていたが、それでも心の中は晴れ晴れとしていた。

全十二章なので終りがそろそろ見えてきました。あと2章(+終章)

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