第一章 5話
青年は八尋と名乗った。律花は歩きながら八尋に話しかける。
「ねえ」
「なんだ?」
八尋の足は速い。小走りにならなければ律花は置いて行かれそうになってしまう。
「何処に行くの?」
「とりあえず、山を下りて場所を確認せねばならぬだろう」
「ふうん」
と何気ない返事をしながらも、律花は足の痛さに悩まされていた。休んだお陰で少し良くなったように感じたが、それでもこうして速いスピードで歩かれては足を酷使せざるをえない。じんじんと、熱を持ったような痛みが、足を踏み出す度に、体を通り抜ける。
それでも、役立たずと言われて置いていかれてはならないと気づかれないように一生懸命付いて行った。
「律は……」
ふいに八尋が口を開いた。
「何?」
「なんで俺を助けたのだ?」
「助けない方が良かった?」
律花が聞き返すと、馬鹿者、と言う。
「俺にとってはそんなわけがないだろう。だが、普通、助けないだろう。山に人が埋まってたら」
「八尋さんは助けないんだ?」
言ったら「おい」と怒られた。
「さん、とはなんだ?農民の呼び合い方か?」
「じゃあ、八尋君?」
なんだそれは、と八尋が言うので律花は悩む。
「まさか、八尋様、とか言わなきゃいけないの?」
「普通臣とはそうだろう?嫌なのか?」
―――嫌なのか、と聞かれれば困るけど、カルチャーショックと言うかなんと言うか……。
自分達の時代では一応、偉いとされている総理大臣にでさえ、様はつけないから。
そんなことを考えて、律花が悩んでいるとそんな様子を見て八尋はこだわりなく言う。
「まぁ、普通はそう呼ばせるところだが、お前には助けてもらった恩もある。嫌ならそのまま名で呼んでも良い」
これには律花は少なからず驚いた。今までの八尋の喋り方からかなり偉そうな印象を受けていたから、てっきり無理にでも『様』付けさせられるかと思ったのだ。
「八尋?」
怒られないかと試しに呼んでみたらアッサリ頷かれた。
「それで良い。……それで?」
「え?」
「お前は何故俺を助けたか、だ」
話を元に戻されたのだ。律花は少し考えて、首を捻りながら話す。
「うーん、本当はちょっと恐かったんだけど、やっぱり生き埋めは、可哀相だし」
「可哀相?」
八尋が聞き返すので律花は頷く。
「だって、死ぬのは怖いでしょう?しかもあんなところで一人ぼっちで」
八尋は呆れたように「変わった女だな」と言って、それから足を少し、遅めた。話しているうちに、律花が足を引きずるように歩いているのに気が付いたのだろう。
「痛いなら痛いと言え。遠慮はいらん」
ぶっきらぼうな物言いだが、八尋の気遣いが知れて、律花は笑みがこぼれるのを感じながら「ありがとう」と言った。
どれだけ歩いただろう。
先ほどの会話でなんとなく親しみがわき、律花が軽い調子でお腹がすいた、というと、八尋の方もやれどこどこのどんな料理が美味しいだなどというような事を話ながら歩いていた。こうして普通に話していると、偉そうな口調さえ気にしなければ律花のクラスの男子とあまり変わらない気がしてくる。
しばらくそうして、くだらない事を話しながら歩いていたが、ふ、と八尋が口と足を止めた。
「どうしたの?」と怪訝そうに聞く律花に「静かに」と鋭く呟くと、手に持った剣を音もなく抜いて構える。
八尋が向く方向に目を凝らしてみるが、何も見えない。が、なにやらそちらの方向から唸り声が聞こえてきた。
人間のそれではないだろう。何か獣の声だ。
「律、さがっていろ」
低く囁くように言うと、片腕で律花を自分の背後へ庇うようにする。
何が起きたのかを尋ねたかったが、聞いてはいけない気がした。八尋は闇の中に居る何かと必死に睨み合っているのだ。少しでも負担になってはいけない。
突然、ざ、という音と共に何か黒い塊が八尋に向かって突進して来た。
律花が目を見開いて、よく見ようとした瞬間、八尋が思いもかけないスピードで刀を持つ手を動かした。鈍い音がして、その黒い塊がずるずると地面に崩れ落ち、動かなくなる。
八尋は、軽く刀を左右に振ると、鞘を拾ってそれをおさめ、律花を振り向いた。
「もう、大丈夫だ」
ただ、呑まれた様にその様子を凝視しているしかなかった律花はそこでようやく身動きする。
「何?今の」
「ヤマイヌだろう」
「犬?」
八尋の足元に伏せて、もう動かないそれに近寄ってみる。かなり間近に見て、ようやくなんとか見る事が出来た。犬にはちょっと見えない。普通の犬の割にはほっそりとしているし、顔なんかもシャープだ。
恐る恐る手を伸ばして触ってみる。
まだ、温かくて、それでもおそらく血であろう、ねっとりとした物で湿った毛はピクリとも動かなかった。
律花は犬を飼っている。だから、この手の動物は結構好きだ。
だけど、ここで可哀相と思う権利は自分にはなにのだろう。多分これは、こちらに襲い掛かろうとしていて、八尋はそれを感づいて仕留めたのだ。自分達が助かるためにこの動物の命を奪ったのだ。
律花は戦慄する。
自分の住んでいた場所では、動物に生命を脅かされる心配なんて、ほぼなかった。
それが、ここでは、生きるか死ぬか……。
無意識に体が震える律花の横で、八尋が口を開く。
「群れからはぐれたのだろうな。普段はあまり人を襲わないんだが……」
律花は口を開こうとして、何と言っていいかわからずに、また、口をつぐんだ。
自分の飼い犬とこの動物が重なり、お墓を作ってやりたい気分になったが、おそらくそれは見当違いの自己満足だろう。
「急ぐぞ」
八尋に促されて、重い気持ちのまま立ち上がった時、ふと、律花の耳になにかの音が聞こえた。八尋にも聞こえたようで、2人してそちらを見る。
先ほど獣が飛び出してきた方向から、その音はした。
近寄ってみると、音の出所はすぐにわかった。小さい獣がこちらに向かって必死になって威嚇している。
「先ほどのやつの子供か」
八尋が言う。そうして刀を鞘から抜こうとする。
「ちょ……っと。待ってよ」
律花は慌てて八尋の腕を掴んでそれを止めた。
「何だ?」
「何、はこっちの台詞だよ。なんで刀抜くの?」
その言葉には当たり前とでも言うような口調で返事が帰ってきた。
「母親を殺したのを恨みに思われて後々襲われたらたまらんからな。ここで殺しておく方が良い」
律花の頭にカッと血が昇る。
「何それ、ひどい。母親はあの状況じゃ殺してもしょうがないとは思ったけど、だからってこの子まで殺すのは可哀相じゃない」
「可哀相?」
八尋が馬鹿にしたような口調で言う。
「お前、何を言ってるんだ?ヤマイヌ相手に可哀相もないだろう?だったらヤマイヌに襲われた獣などはどうするんだ?可哀想じゃないか?」
「それとこれとは話が別でしょ?無意味に殺すなって言ってんの」
八尋は少し律花を睨んで、それから、それでも諦めようとしない律花に呆れたように刀から手を下ろす。
「まあ良い。どうせ放っておいても生き延びる可能性の方が少ない」
「え?なんで?」
その問いに八尋はさらに呆れたように言う。
「ヤマイヌは群れて生活する生き物だ。こんな餌も自分で取れないようなチビがこの先、生きていけるとは思えぬ」
「じゃあ、どっちにしてもあの子は死んじゃうってこと?」
「ああ」
頷く八尋を見て、律花は怒鳴る。
「ダメだよ、そんなの。……そんな事なら、私が連れて行く」
「何?」
呆れた顔をする八尋を尻目に、律花はずんずんとその小さい獣の方へ近づいていく。
「おい……」
八尋の制止の声も尻目に手を伸ばす。
途端、ぐい、と腰を掴まれて体を後ろに引かれた。律花が尻餅をつくのと小さい獣の歯が宙を噛むのはほぼ、同時だった。
呆然とする律花に、背後から溜息が聞こえる。
「何をやってるんだ、お前は。母親を殺されて気が立っているこいつに手など出したらどうなるか知れているだろう。小さいがこれでも一応ヤマイヌだぞ?指の一つや二つ、持っていかれてもおかしくない」
目の前では、小さい獣が必死に唸っている。怯えているのだ。
「でも、八尋。やっぱこの子、このままにはしておけないよ。お母さんを殺されて、それでここで独りぼっちなんて酷すぎる」
八尋はしばらく黙って、それから呆れきったというような盛大な溜息をついた。
「噛まれそうになってもそこまで言うか。言っておくが、親を殺した俺達にそう簡単に懐くとは思えんぞ」
「懐かれなくたっていいよ。見返りなんて期待しない。これは、償いだよ。この子にとってお母さんを殺しちゃった事は償える事じゃないってわかってるけど、でも、せめてお母さんに対しては償いをしたい。この子をちゃんと育てたら少しはそれを出来るような気がする」
八尋はそれを聞くと、黙って自分の衣服の袖をびりり、と破く。そうして、地面に落ちていた手ごろな木の棒の先にそれを巻きつけて、小さな目の前の獣に差し出す。
獣は、ここぞとばかりに棒に食いついてきた。その瞬間、八尋は棒を離し、拳で獣の頭を殴りつけた。
びくり、と体を硬直させて、獣がぐったりとその場に倒れこむ。
「八尋?」
抗議の声を上げる律花に八尋は言う。
「心配するな。気絶させただけだ。こうでもしないと手がつけられない」
そう言ってから、巻きつけた布をほどいて、獣の首に結びつける。
そして「先ほどの鎖、とっておいて正解だったな」と言ってその布に鎖を結びつけ、律花に差し出した。
「噛もうとしたら避けろ。できるか?」
幸い、瞬発力は良い方だ。
「やってみる」
と言って鎖を受け取る。
まったく、と突然八尋は肩をすくめて言った。
「なんて厄介な臣を拾ってしまったんだ。俺は」
聞こえなかったふりをして、律花は手元の子犬に似た獣を見る。
なにか、名前をつけなくては。家の犬の名前をそのままつけようとも思ったが、彼はジョンと言う名でいかにも洋風だからそぐわない気がする。なので、その名前から2文字だけ貰う事にした。
「ねえ、八尋。この子の名前ジンね」
「もう名前までつけたのか」
八尋はただ、呆れたようにするだけだった。




