第八章 1話
「律、こちらへ来い。良いものを見せてやる」
清丸の言葉に律花は苦笑してそれに従った。小さいといえども当主の息子。可愛らしいが生意気で、態度は偉そうだ。
清丸が律花に差し出したのは小さな小鳥だった。小さな清丸の手の中で、羽根を押さえつけられて窮屈そうにぴいぴいと鳴いている。
「どうしたんですか?それ」
律花が問うと、清丸は誇らしげに言う。
「桂に罠のはり方を教えてもらった。見事なものだろう」
「それで、その鳥はどうするんですか?」
律花に讃えられる思ったのだろう、水を差すようなその返答には清丸はいささか不満げな顔をした。
「そうだな、下男が内緒で飼ってるらしい猫をよく見かけるからそいつにでもやろうかな」
その猫は、律花にも見覚えがあった。でっぷりと太ったところを見ると、どうやら下男が内緒で餌を与えているのだろう事はありありと見て取れた。どう考えても、これ以上の贅沢は必要のないように思える猫だ。
「あの猫は、餌に困ったりしてないはずですよ?……逃がしてあげませんか?」
「そんなの、折角獲ったのに勿体ないじゃないか」
清丸は律花があくまでも自分に逆らう事に対する腹立たしさを隠さずにそう言った。
大体、前の世話役ならば、にこにこと笑って清丸を讃えてなんでも「その通りです」と言っていたのだ。桂だって清丸に意見した事などない。自分に何か小言を言える者がいるとすれば父親だけなのだ、と言う認識が清丸にはあった。
だが、この新しい世話役は来て二日でこのような反論を既に三回はした。物をむやみに壊すな、粗相をした下男に対する仕打ちが酷すぎる、そして、意味もなく無闇に動物の命を奪うな。
―――ちょっと見た目が良いからと言って油断した。こんなのが世話役に なるなどと言う事を了承してしまったのは。
清丸は不機嫌に律花を見た。律花は、まだ手の中の小鳥を逃がすように清丸を説得している。諌められれば諌められるほど、わざとそれを行動に移したくなる。
でも、そうすればすぐに新しく入った下女が告げ口して、父親の耳にその事は入るのだ。父親は何故か、この娘を気に入っている。優しい父親だから叱られはしないが少し困った口調で諭されるのはいつも清丸のほうだった。
それでも、素直に律花の言葉を受け入れる気にもなれずに不貞腐れたままでいた清丸の背後から声が掛かった。
「律の言っている事が正しいよ。清、小鳥を放しなさい」
清丸が弾かれたように振り替えると、朝時が新しく入った侍女を伴って立っていた。
―――また、アイツが言いつけたのか。
清丸が下女を睨み付けるのを見て、朝時は溜息をついた。
「どうやら全く反省していないみたいだね。もう一度言うよ。小鳥を放しなさい。無闇に生き物の命を奪うものではない」
清丸は少しの間、頬を膨らませて押し黙っていたが、やがて小鳥を握っていた両の手を渋々と緩める。拘束が外れた小鳥は一目散に空へと飛び去った。朝時はそれを見やって頷くと、腰をかがめて清丸と視線を合わせ、微笑みながら頭を撫でた。
「良い子だね」
そうして、軽々と清丸を抱き上げる。
律花はその光景を興味深げに見ていた。
―――朝時様の言う事なら何でも聞くんだよね。
自分は、どちらかと言うと幼い頃、親に我が侭を言ったり駄々をこねたりした方だから普段我が侭な清丸が朝時にだけ従順なのを不思議に思う。
―――私が、お父さんお母さんに甘えてたんだろうな。
どちらも、親を好きだからこそ、という事には変わりない。抱き上げられた清丸の嬉しそうに輝いた表情を見れば、それは一目瞭然だ。
そうして、それを見て、自分の家族を思い出して胸が痛むのも確かだった。
―――みんなに、会いたいな。
家族や友人の事を考えるといつも胸がざわつく。このまま一生帰れないのではないか、もう一生会えないのではないかと夜に眠れない事だってある。
こうして目の前で親子の仲睦まじい様子を見てしまえば、それも尚更だった。
そのまま感情に飲み込まれそうになって、律花は急いで思考を切り替える。今は、お勤め中だ。こうして感傷にふけってしまってはいけない。
「今日はなんだか体調が優れないから、清と一緒に私の妻の元へ行ってくれないか?」
朝時がそう言ったのはそれから数日後だった。言われてみれば、顔色が優れないし、時折、手などが震えてもいる。
「今日はなんだか発作が起こりそうな気がする」
その言葉に、側に居た清丸がびくり、と体を硬直させたのが分かった。そして、律花が何かを問いかけようとする前に、すくりと立って律花の手を引っ張る。
「律。行くぞ」
律花は不思議に思いながら、朝時の部屋を後にしなければならなかった。
「なんで朝時様が具合が悪いと奥様の所へ?」
先頭を立って廊下を歩く清丸に続きながら律花は問いかける。
「それに、どこに行くんですか?」
もう、朝時の部屋からは大分離れてしまっている。朝時の妻ならば近くの部屋にするものではないだろうか。
「父上の発作の様子が伝わってこないように母上の部屋は遠くにあるのだ」
「何でそんな事を……」
律花の言葉に清丸は不快そうに顔を顰めて律花を振り返る。
「律は人の気持ちが悟れないのか?父上は見苦しい発作の様子を俺達に見せないようにと気遣ってくれているからに決まっている」
それだけ言ってまたすたすたと歩き出した清丸だが、突然、足をぴたりを止めた。視線は、離れた場所にある渡り廊下を歩いている一団に向けられている。桂を先頭にして、その後に朝熙が居て、その朝熙につき従うように北見が歩いていた。
「今日は、早かったな」
清丸の呟きに律花は首を傾げる。それに気が着いて、清丸は説明するように言った。
「朝熙は父上の発作を抑える薬草を調合してくれる。俺としては虫の好かないやつだが、あいつが居ないと父上は発作がなかなか収まらなくて苦しい思いをするからな」
偉そうな物言いの影に、不安そうな色を嗅ぎ取って律花は清丸を見つめる。
―――まだ、十歳の子供なんだもんね。
例え、普段は手がつけられないくらい生意気で憎たらしくても。
「治ればいいね」
律花が言うと、清丸は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに元のふてぶてしい態度に戻って言う。
「お前なんかが案じる問題でもない」
律花は苦笑して大人しく引き下がったのだった。
「いらっしゃい」
それほど美しいというわけでもないし、華やかでもない。だけどおおらかな印象で安心できるような優しげな人、というのが朝時の妻を見た律花の感想だった。彼女は清丸と律花を笑顔で招き入れて茶を出してくれたが、清丸は無愛想にすぐに次の間にひっこんでしまった。律花が戸惑っていると、苦笑して首を振る。
「あそこはあの子のもう一つの部屋だから気になさらないで。……あの子は、私がここに住んでいる事を朝時様への裏切りのように感じていてあまり顔を合わせて居たくないみたいなの」
その言葉に、律花が不可解な顔をしていたのだろう。朝時の妻は少し悲しそうに微笑んだ。
「あの方は気の病で、発作の時は前後不覚に陥って酷い時には周囲の事は何も分からずに暴れまわってしまうの。それで、間違ってもわたくし達には危害を加えたくないから、とこの部屋に移らせたのよ。わたくしは、その言葉に従ったけど清丸の方は病で苦しんでいる父上を見捨ては出来ないと朝時様の側に今でもいるから……でもね、言い訳をさせてもらえるなら、わたくしはもしもあのままあの人の側に居て、それで間違ってあの人がわたくしや清丸を傷つけてしまうような事があれば、あの人がどんなに自分を責めるか分かっているつもりなの。だから、清丸には謝らないし清丸はそれで益々へそを曲げるのよ」
律花がなんと言って良いか迷っていると、朝時の妻は取り繕うように笑う。
「申し訳ないわ。こんな立ち入った話をしてしまって。でも、あなたはまともな人のようだったから」
「まとも?」
律花が首をかしげると、朝時の妻は微笑んで頷く。
「清丸の世話係といったらいつもあの子を甘やかしてばかりであの子の悪いところなんてまったく諌めてくれなかったから。朝時様はそうそういつも側にいて上げられるわけでもないし、わたくしはこうして嫌われていて近づいても逃げていく有様。側に居る誰かがしっかりと悪い事は悪いと諌めてあげなければあの子はきっと良くない人間に育ってしまうと危惧していたの」
いかにも期待している、と言う口調のそれを聞いた律花は慌てて言う。
「ごめんなさい、でも私、次の世話係りが見つかるまでのつなぎのようなものなので」
清丸にはどうやら嫌われているみたいだし、その期間は短いのではないかと思う。
「それは、残念ね。それならばせめて、一緒に居る間は清丸をしごいてあげてくださいね」
朝時の妻はそう言ってまた微笑んだ。
―――お母さんなんだな。
そんな事を考えながら律花は言う。
「そういえば、桂さんなんてどうなんですか?」
「桂?」
言っている事が分からない、というような朝時の妻の言葉に律花は慌てて補足する。
「桂さんは、なんか厳しい感じがするし。清丸様をしっかりと教育してくれるんじゃないですか?」
その言葉に、朝時の妻は苦笑すると言う。
「桂は朝時様のお勤めで精一杯でしょう。それに、彼女は朝時様の事以外には興味を示さないわ」
それから暫くは朝時の妻と世間話のような事をしていると、桂が「朝時の発作が収まった」と呼びに来た。律花としてはもう少しこの女性と話していたかったのだが、清丸がさっさと帰ろうとするので仕方なしに挨拶をして朝時の部屋に赴く。
部屋の中には朝熙が香でも焚いたのか、甘い匂いが漂っていて、その中で朝時は、まだ青い顔をしながら肘置きにもたれてぐったりとしていたが、大分楽になったようで二人の姿を見ると弱弱しく微笑んだ。その顔には憔悴の色が濃い。
「心配をかけたね……清、おいで」
朝時が手を差し伸べると、清丸は弾かれたように朝時に駆け寄って抱きついた。
朝時はしばらく清丸を撫でていたが、じっと見つめる律花の視線に気が付いて穏やかな視線を向けた。
「理由もろくに話もせずに追い出すような事をしてしまって悪かったね。 ……私はこの通り、よく発作を起こす。発作の間は周囲に見境がなくなるから親しい人間は近づかないように言い渡しているんだ。」
そして、少し悲しそうに目を伏せる。
「最近はそれが起こる間隔が段々と短くなっているように感じる。清には心配をかけるし、政にも支障が出てきている。……こんな私が当主であって良いのかと、最近よく思うよ」
この言葉には、清丸と桂が同時に抗議の声を上げた。朝時は苦笑すると、二人をなだめる様に遮って言う。
「本当は、朝熙や時柾にこの座を譲りたいんだ。私には当主の座は重すぎる。……だけど、きっと今私がこの座を退いたら争いになるだろうな。義巳叔父が当主の座を狙っている。あの人は私がそれに気が付いていないと思っているようだけど、私もそれほど見くびられたものでもないよ。それでも、やはり私はこの座を退くべきだろうか。律はどう思う?」
その言葉に、律花は困った顔をした。
「そんな質問を、時柾様の臣の私にするんですか?」
律花はあくまでも八尋側の人間なのだ、と言う事を朝時に思い出させるために。
―――八尋が当主の座を欲しがっているようには見えないけど。
でも、そんな事は本人に聞いてみないことには分からない。もしかしたら、八尋も欲しがっているかもしれない。自分を愛してもくれなかった父親がこだわった座を。
朝時は苦笑する。
「そうか。そうだったね。律は時柾の臣だったか。……では、公平な答えは期待できないね」
そう言って少し遠い目をする。
「いや、この城のどの者にも公平な答えは期待できないか。皆、誰かの肩を持とうとしている。まるで、誰も彼もが家族なのに私を兄弟といがみ合わせたいと思っているようだ」
「朝時様は、仲良くしたいんですか?」
思わず、そう問いかけていた。
朝時は少し驚いたように律花を見、それから寂しそうに頷いた。
「そうだね。二人が私を疎ましく思っていないのならば是非そうしたい所だけどね」
言った後、少し眩暈がしたのか額に手を当てた朝時に桂は無駄のない動きで近寄り、支えると律花を見る。
「朝時様はまだ調子が戻られておりません。そろそろお話は切り上げていただけますか」
有無を言わせない口調でそう言うと、視線で律花を促す。律花は慌てて立ち上がると朝時に挨拶をして部屋を出た。挨拶をするため頭を下げた時に、ふと、磨き上げられた床についた赤黒い染みのようなものに目が留まった。
―――血?
一瞬、そう思ってそれを確かめようと思ったが、桂が律花を催促するためか、側に寄って来たので余計な事はせずにそのまま部屋を出た。
「申しておきますが」
律花を見送る、と称して律花と一緒に部屋を出た桂が冷たい声で律花に言うので見ると、桂はじっと射竦める様な視線を律花に注いでいた。
「朝時様のあのお言葉を本気になさらないよう。篠田の当主は朝時様以外に有り得ません。発作の後はお気持ちが弱くなるのか、時々あのような事を口走りなさるのですが、本心であろう筈がございませんから、間違ってもあなたの主人に変な気を起こさせぬよう」
律花は桂の瞳を見返して戦慄した。それはもう、殺気に近いような圧迫感がひしひしと押し寄せてくる。
―――表情がないなんて、とんでもない。
無表情を装っているが、この人は情熱的な人だ。底冷えのするような冷たい声からも、射抜くような視線からもそれは明白に伝わってくる。
朝時の妻の言葉が思い出される。
『あの人は、朝時様以外の事には興味を示さない』
それはつまり、逆に取れば朝時の事となれば熱心に働く、という事だ。
「わかりました」
律花が言った瞬間、身を震わすような圧迫感は消えて、桂はそのまま律花に背を向けて部屋の中へ戻って行った。
律花は大きく安堵の溜息を吐くと、桂が去った場所をじっと見つめていた。




