第五章 1話
律花が朝熙に呼び出されたのは、それから三日程後の事だった。
その日外は雨が降っていて薄暗いにもかかわらず、蘭子や侍女達は皆上機嫌で、律花の周囲は明るい賑わいに満ちていた。八尋が帰ってきた事によって文の返事や託された贈り物などが蘭子の元に届いたということだ。皆、それらを広げて見せあっては歓声を上げている。
そんな折に柏がやってきて、朝熙が呼んでいるからすぐに来い、と言ったのだ。蘭子が何があったのかと尋ねても柏は固く口を閉ざしたままだった。てっきり蘭子はつむじを曲げてしまうかと思っていたのだが、柏の言葉があまりにも強いものだったためか、予想外にすぐにそれに従った。「お前には色気なんてないから朝熙様がお前に惑わされるなんて事、絶対にないから良いわよ」という台詞付きで。
柏について行くと、朝熙の部屋の前を素通りし、見覚えのある廊下に進んで行く。律花は顔を青褪めさせ、躊躇するように歩みを緩めた。ここは、何度も通った覚えがある。最後に通った時の事を思うと足取りは自然重くなる。だが、律花の拒否を許さない様子で柏は相変らず音も立てずにすたすたと歩く。
そう時間もかけず柏の目指す部屋の前まで来てしまった。律花は更に顔を青褪めさせて、今度こそ踏みとどまろうと足を止める。
流石にここには入れない。なぜなら、律花はこの部屋の主を傷つけ、怒らせてしまったのだから。
柏が声を掛けて障子を開けようとした時に、律花はとうとう素早くきびすを返してその場を逃げ出そうとした。だが、逃亡は成功しなかった。律花のその手をがっしりと掴んだ者があったからだ。
「朝熙様」
その人物を見て、律花は思わず呟いていた。
開いた障子の内側から部屋の入り口に立ち、律花の腕を掴んでいるのは紛れもない朝熙だ。相変らず、美しい女の姿をしている。その表情に、いつもとは違う、少し焦燥したような色を見つけて律花は不審に思った。
朝熙はじろりと律花を睨む。
「怖気づかなくても大丈夫よ。時柾は臥せっているわ」
「え?」
論より証拠、とばかりに朝熙は怪訝な顔の律花をぐい、と部屋の中に引っ張り込む。現れた目の前の光景に、律花は一瞬目を疑った。
部屋の真ん中に布団が敷かれており、そこで横になっているのは紛れもない八尋だ。苦しげにぜいぜいと荒い息をし、発熱のためか、肌の色も赤い。額に当てられた濡らした布など何の役にも立っていないようだった。
「お前、巫女だと言ったわよね。あれを何とかできないの?」
隣から聞こえる朝熙の声もあまり律花の耳に入らなかった。それどころか、自分から話してはいけないとあれだけ言われたのに質問してしまう。
「八尋は、どうしたんですか?」
朝熙は一瞬、目を見開いて律花を振り返った。律花は必死で、自分で気が付いていないだろう。だが。
「お前、なんでその名を……」
言いかけて、そんな事を今問いかけている場合ではないと思い直したのだろう。少し言葉を切って改めて言い直した。
「時柾は流行り病を貰ってきたのよ。安曇の方で今、流行っているのを見事にね」
「大丈夫なんですか?」
畳み掛けるように律花は問いかける。目の前の八尋はとても苦しそうだ。
朝熙は、深い溜息を落すと言う。
「大丈夫なら、お前なんかに……巫女なんかに縋ろうとも思わないわよ」
その言葉は決定打だった。つまり、危機的状況なのだ。信じたくない、とは思ったが、実際八尋の様子を見ていればそれは納得できた。意識などとうに無いのだろう。普段は殆ど人を寄せ付けない八尋の側に自分達が居ても何も反応がない事が良い証拠だ。
律花の様子を見て、朝熙は諦めたように言った。
「その様子では、お前にも無理らしいわね」
当たり前だ、と律花は心の中でだけそっと漏らす。自分は巫女でなんかないのだから。それに、巫女が病気を治せるとも、この時代育ちではない律花には思えなかった。それは、医者の領分だ。そこまで考えてハッとする。
「お医者様は?」
「呼べるものならとっくに呼んでいるわ」
律花の顔に疑問符が浮かぶ。この城にも、城付きの医師が居たはずだ。だが、そんな律花を呆れたように見やって朝熙は言った。
「こちらではあの病は流行していなかったから、薬を持っている医師が居ないのよ。京に一人、信頼のできる医師を知っているのだけど……」
その言葉を遮って新たに部屋の外から声が掛かった。
「恐れながら、朝熙様。出陣の準備が整いまして」
振り返ると、甲冑を着て、畏まる人。
「……出陣?」
律花の問いかけに、朝熙は肩を竦める。
「まるで謀った様に嫌な時を見計らって攻めて来るのよ。木野って奴は。こういうところだけは、巫女ってモノを褒めてやりたくなるわね。あちらの優秀な方の巫女をね」
そうして、長い着物を翻して部屋から去ろうとする。
「時間切れね。私に出来る事はここまでだわ。出陣しなければ」
「ちょっと、待ってください」
焦って呼び止めた律花の声に振り向いた朝熙の瞳は恐ろしいほど冷徹なものだった。
「病の治せない巫女に用はないわ。お前もさっさと下がりなさい」
「あの、ですが、八尋は……」
尚も食い下がる律花を鬱陶しそうに見やると、朝熙は冷たい声で言い放った。
「これ以上、私に出来る事はないの。その上、やらなくてはいけない事がある。時柾の医師を呼びやるための人数も足りないのよ。……この城には、今、義巳がいるから」
「義巳?」
「私や時柾の叔父よ。アレを野放しにしておいたらどうなるか分かったものじゃないから、この城に兵を残しておかなければならないの。でも、木野撃退にも兵は必要」
それ以上はもう反論は聞かないと言う意思表示のように、朝熙はそのまま去って行ってしまった。
律花は呆然と、苦しそうに時々うめき声を上げる八尋を見遣った。
姿を見るのは、妻競いの時に遠目に見て以来だ。久々の再会がこんな事になるとは思わなかった。胸に、苦いものが広がる。
―――私、八尋を傷つけちゃったままなんだ。
地下牢の囚人は八尋の傷の深さだと言われた。そんな傷をつけたまま、八尋はいつも気を張りつめて生活してきた。それだけでも大変なのに、挙句この仕打ちだ。病に苦しんで、このまま死んでいくのを待つ。
そこまで考えて、予想以上に重いその『死』という言葉に改めて思い至った。
ぞくり、と律花の背筋に震えが来た。
―――嫌だ。
八尋の苦しそうな顔を見ながら、次々と出会ってからの事が思い浮かぶ。八尋はいつも優しかった。支えてくれる肌の温もりはいつも律花をどこか安心させた。
その八尋が、このまま居なくなってしまうかもしれない?
「彰さん」
律花は思わず叫んでいた。この部屋に入ってきてから、彼の姿がない事をおかしいと思っていたものの、以前殺されそうになった時の態度の豹変ぶりが恐ろしくて、会わなければ好都合だと思っていた。だが、そんな事は言っていられない。
「彰さん、彰さん、いるなら返事をしてください」
彰は八尋を守るのが最大の役目だと言っていた。だから、そう遠くには居ない事は分かっていた。
律花の予想は当たった。音も立てずにいつの間にか彰が部屋に入ってきていた。
「律、君を歓迎したいのは山々なんだが、俺は今忙しいんだ。後にしてくれないか?」
そう言う彰の顔からいつもの笑みが消えている事からも、八尋が今、どんなに危ない状況なのかは一目瞭然だった。
「見ての通り、時柾様は今大変でね……」
「私が行きます」
彰の説明を遮って、律花は叫ぶように主張した。
彰が意味を掴めない、といった様子で眉を潜める。律花は必死に続けた。
「京に行けば、お医者様を連れてこれるんでしょう?私がお医者様を呼びに行きます。私なら、別にここの戦力になるわけじゃないから、いてもいなくても同じでしょう?」
彰の目が見開かれる。
―――殺されそうになったのに。それでも時柾様を助けようと?
全く自分には理解出来ない不可解な娘だと改めて認識させられる。
「律、君は何を言ってるか分かっているのか? 外は戦が始まろうとしている。そのせいで、平原は通っていけないから山を越えなくてはいけないし、それでなくとも外は今、土砂降りだ。とても京までなんて行ける状況じゃない」
「でも、行かないと八尋が死んじゃうかもしれないんでしょう?」
さらに掴みかかってくるように言う律花に、彰は珍しく言葉に詰まった。
彰にしてみれば、本当は自分が京に行って医者を呼んで来たいのだ。だが、それが出来ない。この城には今、八尋の叔父の義巳がいて、彰が目を離したりしようものならいつ八尋が狙われるか分かったものではないからだ。義巳は、前の当主の弟であった時からここの当主の座を諦めきれずにいる。その義巳にとって、丸め込みやすそうな長男の朝時はともかく、その後に続く朝熙、時柾は邪魔者以外の何者でもない。親族であろうと邪魔者を排除する事に躊躇もないのが義巳という男だ。
だが、代わりに行かせる様な手持ちの部下も、周囲を信頼しない八尋は持ってはいなかった。まさに、八方塞がり。
彰は極力気を鎮めるようにして、静かな声で言う。
「山道には、賊やヤマイヌが出るかもしれない」
「最近、剣術や護身術を習っているんです」
律花は即座に返す。
「途中で木野の兵に見つかるかも」
「私は小柄だし、逃げ回るのには慣れてます」
見定めるように律花の顔を見据える。臆する事なく律花も強い瞳で見返した。
恐怖などは微塵も見えない。八尋が死んでしまう事は絶対に嫌だ、というその気持ちしか存在しない。
「……道は、わかる?」
その言葉が了承を表している事に即座に気づき、律花は一瞬、顔を緩めてから、少し気まずそうに言う。
「いえ、わかりません」
その言葉に彰は頷く。
「すぐに案内人と医師への紹介状を用意しよう。律は身支度を整えておいてくれ」
言い終えて、部屋を出ようとした後姿の彰が、思い立ったように「頼んだよ、律」と呟くように言った。
一瞬戸外に出るのを怖気づかせるような大雨。あの時のように雷が鳴っていないのがせめてもの救いだった。あの日以来、律花は雷が恐い。
動きやすい、専用の服の上にみのを被って、用意された馬にまたがる。案内、という男は下男のようでひどく頼りなかったが、この際仕方がないだろう。ずしりと重い刀を授けられ、書状を手渡され、豪雨の中、馬を急かして城を出た。




