第一章 2話
目が醒めて最初に目に入ったものは、青い空と白い雲だった。
朦朧とした意識が回復するまでは、けだるさに任せてその場に横たわっていた。
それから、序々に事態を思い出して、自分の身に起きたことを把握するに至って、ガバリと身を起こす。学校のプールで溺れるなど、なんとみっともないことをしてしまったのだろう、と。
だが、身を起こした律花は呆然とせざるを得なかった。
目の前には青々と茂った草の原っぱがいかにも牧歌的な風景で広がっているのだ。
慌てて周囲を見渡す。
律花の横には大きな川。そして少し離れたそこには、何故か2人の男が岸辺から身を乗り出して、腕などを洗っている。別に、川で男が手を洗ってはいけないという法律はないのだから別にそのこと事態はいい。だが、その男達の格好は問題だった。
まるで、NHKの大河ドラマに出てくるような、和服を着ているのだ。しかも、その側にはいかにも今、脱ぎ捨てられましたと言わんばかりの鎧が放ってある。それに、男達の服には、赤いものがたくさん付いていて、さらに、男達が手を洗っている辺りの水はピンク色に揺らめいている。
夢だと思いたいが、夢の場合はたいがい、自分で夢だと気づいているものだから夢ではないのだろう。
かといってコレが現実だとは思えない。
だが、クラスメイトが自分に仕掛けたドッキリにしては、あまりにも手が込みすぎている。学校の近くにはこんな場所も、時代劇をやるような劇団やTV局もないはずだし。
律花が呆然としていると、男の1人が顔を上げた。
随分と、きつい目をしているものだ、というのが律花の第一印象だった。
それほどに、その、律花よりも1つ2つ年上だと思われる、いまだ青年と呼ぶには少しあどけなさが残る人物は、鋭い眼をしていた。
青年は律花の方を面白くもないような顔で見ると「ようやく目が醒めたか」と言って、近づいてくる。もう1人の方も、その青年の様子に気づいて後を追ってきた。
律花がまだ呆然としたような顔でその青年を見ていると、すでに律花の正面に立って、見下ろす形になっている青年はにこりともしないで言う。
「助けてもらったのに礼も言えぬか。それとも、口がきけぬ女なのか」
随分威圧的な言い方だと思ったが、つられる様に慌てて「ありがとうございます」と言った。青年は自分で言わせて置きながら、それに対して何も言わずに「お前、木野の贄か?」と続けて聞いてくる。
「キノ……?」
「木野の領地の贄かと聞いている」
まだ意味がつかめずに首をかしげている律花を馬鹿にしたように見遣って、青年は後ろの男を振り向く。
「話にならん。無駄なことをした」
そう言って、最早律花になど興味をなくしたとでも言うように、ふいと方向転換をして先ほどまで自分がいた場所に戻り、鎧を自分の体に付けていく。後ろの男も慌てたように後を追い、鎧をつけはじめた。
律花がまだ呆然と座り込んでいるのを気にもせず、青年は鎧を付け終わると、さっさと歩いて行く。そうして、少し離れたところに馬が繋いであったらしく、それにひらりと跨ると、そのまま去って行ってしまった。もちろん、連れの男もそれに続いた。
律花はしばらく、あまりの展開にあっけに取られて呆然としていた。
それでも、混乱する頭で、とりあえず、事態を把握しなければと考え、立ち上がる。
歩き出そうとして、すぐに何かに足をとられて転んだ。身を起こして見てみて、律花は本日何度目かの仰天をすることになる。
律 花は、びしょ濡れながらもきらびやかな赤い着物を見に纏っていた。
しばらく呆然としていたが、自分のくしゃみで我に返った。スン、と鼻をすすって、随分体が冷えていることに気づく。いくら夏だと言ってもずぶ濡れで座り込んでいるのはまずいらしい。
だが、これからどうすればいいか、まるで見当が付かなかった。
あまりにも急激に色々なことが起こりすぎた。いまだ現実感を持てずに頭の一部が麻痺したように何も考えられない。
それでも、ここにいてもどうしようもない、ということだけは分かる。
重い着物の水を精一杯絞る。じゃばじゃばと激しい勢いで水が滴り落ちる。何度か繰り返すと、かなり体が軽くなった気がした。着物は巫女さんのような袴の上に重い着物を何枚か羽織るタイプだったので、一番下の一枚を残して、あとは手に持った。なんとも情けない見栄えだろうがしょうがない。そうしてようやく歩けるようになった。
律花は少し迷った後、とりあえず男達が去っていった方向に向かってみる事にした。
始めは、静かだった。風が立てる、微かな草の音しかしない。
しばらく歩くと、それに混じってだんだんと騒がしい音が聞こえてきた。 人々の、声や足音。そういったものが人の気配として伝わってくる。少し安心して歩みを進めると、建物の影が見えた。
近づくにつれ、またもや律花は面食らう。
今時、こんな建物は珍しい。茅葺屋根の家ばかりで、木造の家は1軒もない。とはいっても、家の数自体、そう、多くはないのだが。
小さな集落、といういでたちだった。その集落の中には、たくさんの馬が繋がれていて、たくさんの人が慌しく働いている。そして、その人たちも、みんな、和服だ。着物、とも言えないほど粗末だが現代では着ている人などごく僅かであろう作りの服だ。
律花が呆然として立っていると、忙しく走り回っていたうちの1人、恰幅の良い女性が、律花に目を留めた。
そして、驚いた顔をして近づいて来た。
「なんとまぁ、どちらのお姫様か知りませんが、こんな所でそんなに濡れちまって。今日、こちらにお泊まりなさる偉いお方のどなたかに逢いにきたんでしょうか?」
女性は早口にまくし立てる。律花が突然の成り行きに戸惑ってしまって何も言えずにいると、中年女は怪訝そうに首を傾げる。
―――なにか、言わなければいけない。
そう思って焦るが、頭が朦朧としている。
先ほどから、もうずっと、どうも上手く思考が働かないのだ。それは、もちろん急に色々な事が起こったせいもあるだろうが、それだけでなく、体力を使いすぎて体が疲労の限界に来ていたことも原因だろう。
―――とりあえず、今の状況を把握しなければ。
そう考えて口を開こうとした時、強烈な眠気が襲ってきた。耐えようとしたが、すぐに諦めた。
律花は生まれて初めて、「倒れる」という現象を経験した。
トントン、パタン。
トントン、パタン。
規則正しいリズム。
律花は部屋で機を織っていた。
機織りなんて、したことはないはずなのに、不思議とそれが出来るので、あぁ、これは夢なんだな、と思った。
律花が色とりどりの糸を通すたび、少しずつだが確実に、細かい鮮やかな刺繍を施された布が出来ていくのがちょっとした快感だった。
トントン、パタン。
ふと、人の気配を感じて振り返ると、隣に見知らぬ女の人が立っていた。
部屋の中は暗くて、表情がよく見えない。
「母さん」
律花の口から言葉が自然と紡ぎだされる。
「見て。もう、こんなに出来たのよ」
それは、豪華でも特別美しいというわけでもなかったが、自分で柄や配色を決めた、自信作だった。
横に立った女の人は、少し曖昧に頷く。
「でもね、それは必要でなくなったのよ」
無機質な声が響く。
「え?」
怪訝そうに首を傾げる律花に女の人は言う。
「……仕度をして。木野のお殿様からお呼び出しがあったの」
―――木野?どこかで聞いたような。
ガンガンと、頭が痛くなる。
ぐるりと、眩暈がする。
堪えきれずに頭を抱えてしゃがみこんだ律花の頭の中に、不意に叫び声のような大きな声が響き渡った。
『絶対に、許さない』
妙に、はっきりとしたその声だけは、とても夢とは思えなかった。
一番最初に見えたのは木の枠のようなものが張り巡らされたもの。それが、天井だと気づくのにしばらくかかった。
なんだかとても、禍々しい夢を見ていた気がする。内容自体はそうでもないが、夢の持つ雰囲気、というか、そういった物が禍々しい空気を秘めていたように思う。
体中が熱を持ったみたいに熱く、全身にかいた汗が気持ち悪かった。
まだ起き上がるのはだるいが体勢を変えよう、と体を少し動かすと、額から何かがばさりと床に落ちた。濡らしてある布だった。
そこに至って、ようやく自分がどこにいるのか、ということに思い当たった。ゆっくりと、窺うような慎重さで半身を起こしてみる。
そこは、想像していたよりも広い、けれど薄暗い板張りの部屋だった。学校の空手部の道場を時々見かけたことがあるが、そんな感じだ。ただ、道場などとは違って、ここは、余分なものが一切ない。部屋の隅の方に蝋燭が灯っている他は、明かりさえなかった。明かりが、その蝋燭の明かり以外感じられないことから、もう、既に夜になっているのであろうことが伺えた。
ゆらゆらと揺れる蝋燭の炎を呆然と見詰めながら、律花の頭の中は急速に働いていた。
倒れるまでは、まだ、色々なことが急におきたショックと、体力の限界で頭が朦朧として何も考えられなかったが、眠ったことでスッキリとした。そして、スッキリとした今でも、こうしてやっぱり非現実な場所にいるということは、やはり、これは自分の幻覚や夢などではなく、現実、ということだろう。
かといって、それを素直に受け止められるわけもない。
疑問はたくさんある。
まず、ここはどこなのか。そもそも、地球上なのか。何故、人々はこうにも時代がかった和風趣味なのか……。これには、思いつくことはなくもないが、今のところ、考えないでおきたかった。
そして、自分に起こった事態は何なのか。
元に戻る方法はあるのか。
頭をフル回転させていたら、コトリ、と音がして正面の引き戸が開く音がする。一瞬、寝たふりをしようとも思ったが、今更だと思い、やめた。
引き戸が開けられて、入ってきたのは、老婆だった。
先ほど集落の中で働いていた人たちよりは良い着物を着ている。
老婆は律花が起き上がっているのを気にもせず、そばによってくる。
「そろそろ目を醒ます頃だと思っていたよ」
そう言って、律花の隣に大儀そうに腰を下ろして手に持っていた鉢のようなものを下に置いた。
「必要ないだろうとは思うが、薬湯を持ってきた。お飲み。力が出るよ」
そう言って、律花の方に鉢を差し出す。鉢の中にはどろりとした緑色の液体が入っていて、律花は思わず、飲もうとしていた手を止める。
だが、老婆の射る様な視線に気圧されて、しぶしぶ口に運ぶ。そして、強烈な苦味と、青臭さが口いっぱいに広がるのを涙目になりながら飲み干した。
空になった鉢を置いて、むせて咳き込む。老婆は「意外と根性があるじゃぁないか」などと言いながら白湯をくれた。
白湯を飲んで、どうにか口の中が治まって、ようやく律花は口を開いた。
「質問してもいいですか?」
「駄目じゃ」
老婆の意外な返答に面食らう。こうなるのなら、お伺いなど立てずに、質問から始めればよかった、と少し後悔した。
「わしが先に質問をする。その返答次第によっては、お前の質問にも答えられることは答えよう」
そう言われて、渋々頷いた。
「まず、お前は何者じゃ?」
「川名、律花です」
律花が答えると老婆は首を傾げる。
「この辺りでは聞かん名前じゃな。姓があるのもおかしい。……では、お前は何故、あの場にいた?」
「わかりません」
その答えに、老婆は顔をしかめる。
「お前は、木野の贄ではないのか?」
―――お前、木野の贄か?
確か、同じ事を聞かれた。
「贄って、なんですか?」
老婆は、不意をつかれたように1、2回瞬きして、それから律花の目を覗きこむ。
「ふむ。虚言を申しているわけではなさそうじゃな。と、いうことは、恐れで今までのことを忘れおったか」
言うと、ふんふん、と勝手に1人で頷く。
「よろしい、お前、こちらに質問してみろ」
老婆が言うので、ここぞとばかりに律花は口を開いた。
「ここはどこですか?私はなんでこんな所にいるんですか?っていうか、なんで皆こんな時代劇なの?それに、木野って何?贄ってなに?」
一気にまくし立てて、はあはあと息をつく。
老婆は少し面食らった顔をしていたが、顔をしかめて「落ち着け」というと、息を1つ吐いた。
「殆どのことを忘れてしまっているな。まぁ、無い例ではない。」
そう言って、少し、足を崩すようにして気楽な体勢を取ってから、老婆は続けた。
「ジダイゲキというのは何のことか分からぬが、他のことは順に答えよう。まず、ここは篠田の殿様の領地じゃ。それから、おぬしはおそらく、隣の領の木野の領地の者じゃろう。なぜなら木野の領は川上にあり、木野の領から川に流したものは、大抵篠田の領の岸の流れ着く。……そなたは、ずぶ濡れでこの集落にたどり着いた、この辺りで濡れるような場所があるとすれば、それはあの川だけじゃ。そなたはたいそう高価な着物を着ていて、そなたを見つけた多恵はそなたが高貴な身分の者だと勘違いしたが、そうではない。木野は贄に、高価なものを身に付けさせる。自らの代わりに神への使者へとなってもらうからじゃ」
そこまで淡々と言って、老婆は律花の顔をじっと見つめる。
「……どうだ、思い出したか」
「全く」
というか、本当に知りたいころはそんな事ではない。領地云々ではなく、もっと根本的な問題だ。
だが、それはうかつに聞けることではないという気もした。この老婆は、悪意は無いが、かといって好意もないように見える。
「それで、結局贄って何なんですか?」
無難なところを律花が聞くと老婆は溜息をつく。
「本当に、思い出さぬか」
そうして、面倒くさそうに説明を続ける。
「贄は、木野の風習じゃ。人身御供だよ。人災、天災から逃れるために、領内から川の神へ乙女を捧げる。詳しく言えば、脆い木の舟に着飾らせた乙女を乗せて、川に流すんじゃ。大抵、乙女は川に飲まれて死ぬ。たまに、運が良くここに流れ着くのもいるが、使命のため、と自害するものが多いな。……おぬしの様に恐れのために忘れてしまった者もいたにはいたが、その者達も長くは生きていなかったよ」
そこまで言うと、老婆は大儀そうに立ち上がった。
「わしはこの集落の巫女じゃ。ここは長の屋敷だが、今宵長達は偉いお方達をもてなすので皆、宴会の方へ出向いているから屋敷に人は少ない。が、それでも全く人がいないというわけではない。用心することだな」
「用心って?」
怪訝そうに律花が問うと、老婆は鼻で笑うようにして言う。
「木野の者、というだけで、無条件に殺意を覚える者もいる、ということじゃよ。木野は元々は篠田の家臣。領地を掠め取ったがそのせいで、ここ数十年、篠田と木野の間ではことあるごとに戦が起きている。木野のせいで家族を失った者は少なくない」
そう言って、床においてある鉢などを抱えなおす。
「今夜この集落にお泊りになられている方々も、篠田のお侍さん方じゃよ。今日も木野と戦をしてきた所じゃ。この集落は、一番木野の領地に近いからな。」
呆然としている律花を放って、老婆は立ち去ろうとする。
「今夜お泊りなのは、篠田の殿様の御三男、時柾様じゃ。武勇に優れたお人だが、冷酷無比、という風説を聞く。下手なことを考えん方が身のためじゃぞ」
そう言い残して、老婆は戸を閉めた。