第三章 8話
「律、思わぬ人がお見舞いに来てくださったよ」
障子越しのそんな彰の声に、律花は文字を勉強中の手を止めた。文字の勉強といってもこうして暇な間に文字の勉強が出来るようにと彰が差し入れてくれた和綴じの本を眺めて、彰に読み方を教わった箇所を必死に覚える、という程度のものなのだが。
「はい?」
怪訝な顔で返事をすると、障子が開いて本当に思わぬ人が立っていた。
「千鶴姫様」
律花は慌てて居住まいを正す。その間に、彰が千鶴とその侍女を部屋の中へ引き入れた。
とりあえず一通りの挨拶などが終わると、千鶴はぐるりと周囲を見渡して言う。
「律は、随分寂しい部屋に住んでいるのね。女子の部屋と思えなくてよ」
その言葉に律花は息を呑んだ。
千鶴が、律花を男だと思っているのは気が付いていた。それでも、敢えて自分が女だという事を言おうとしなかったのは、律花の女としての直感だった。律花が八尋に可愛がられているのを千鶴が喜ばしく見ているのは、律花が男だと思っているからで、律花が女だと知ったらそうは行かないのではないか、という事を無意識のうちに理解していたのだ。
律花は、恐る恐る千鶴の顔色を伺った。チラリと目に入った、彰の面白そうな表情に少し腹が立つ。
だが、千鶴の口から出てきた言葉は、律花の予期せぬものだった。
「律、そういうことなら、なんでもっと早くに言ってくれないの? 同じ女子同士なら、もっとたくさんお話が出来たのに」
その口調には、本当にその言葉通りの感情しか含まれて居ないように思われる。律花は内心で驚きながらも、慌てて弁解を口にする。
「申し訳ありません。なんだか言い出しにくくって」
千鶴は「まあいいわ。許してあげる」とにっこりと笑った。
「今度からは、女子同士でしか出来ないお話をしましょうね。もっとも、その怪我が治ってからになると思うけど。早く治して、また、遊びに来てね」
それからしばらく、世間話など話した後、千鶴は去って行った。
―――女ってばれても大丈夫だったんだ。
律花は千鶴の去った部屋で、ホッと胸を撫で下ろした。
しばらくして、再び千鶴が見舞いに来た時には、律花の傷はだいぶ癒えていた。あと二、三日もすればお勤めを始めて良いだろう、と言われている。
「律、今日は新しい侍女を連れてきたの」
千鶴はそう言って相変らずの可憐な笑顔でにっこりと笑う。
「お父様に文を送って、もう一人つけてもらったの。同じ年頃だから、三人で遊べるわ」
無邪気にそう言って笑う千鶴に、律花も笑みを返す。肝心の、紹介したいという侍女は千鶴の後ろに叩頭して控えている。まだ不慣れなのか、目に見えて緊張しているのが分かった。
「顔を上げてください」
律花が言うと、恐る恐る、といった顔で顔を上げた。
年の頃は律花よりいくつか上ではないだろうか。垢抜けている千鶴の側にいるせいか、田舎から出てきたばかり、という印象をぬぐえなかったし、物慣れない風におどおどとしているから余計にその場に不似合いに見えてしまう。
だが、視線が律花の顔に止まると、少女は食い入るように見つめてきた。 その、あまりに真剣な様子に律花は面食らう。
「……あの?」
当惑気味に言うと、ようやく我に返り、慌てて挨拶を述べる。その言葉も、ところどころ緊張してつかえてしまっていた。
―――何を、そんなに動揺しているのだろう?
「それはそうと、律。殿は今日はどうなさっているの?」
少女の失態を取り繕うかのように明るい声で千鶴が言う。
「え?ああ、時柾様ならきっとお勤め中です」
律花の言葉に、千鶴は少し不満そうな顔をする。
「殿は、律のお見舞いには来ないの? あんなに律を可愛がっておいでなのに」
「いえ。いつも夕餉の時に来て頂いています」
律花が言うと同時に、千鶴の顔がパッと明るくなった。
「では、今宵はわたくしもご一緒させて頂けないかしら?」
律花はぎょっとする。千鶴があわよくば八尋に出会えれば、と思っていることには気が付いていたが、流石にここまではっきりと要求するとは思っていなかった。
―――果たして、八尋は良いと言ってくれるだろうか?
「時柾様に伺ってみます」
そう、返答すると千鶴はいそいそと立ち上がる。
「それでは、支度をしなくてはね。……行きますよ」
侍女に声を掛け、律に挨拶をすると、部屋を出て行ってしまった。それを見送りながら、律花は溜息をつく。
―――まいったなぁ。
あの様子では、完全に来るつもりでいる。
八尋を好きで好きでたまらない、という様子は微笑ましいし、可愛らしいのだが、まさかこの様な事になるとは思わなかった。
「どうしたの? 律」
千鶴が帰ったと見計らって彰が入ってきたので、律花は申し訳なさそうに言う。
「彰さん、お願いがあるんですけど」
「何だい?」
「千鶴姫が今晩、夕餉をご一緒したいっておっしゃられたんですけど、時柾様を説得できませんか?」
彰は呆れた顔をする。
「千鶴姫もなかなかだねえ。うーん、そうだな、律の頼みだって言えば時柾様もなんとか了承してくれるかな。律のその怪我は自分のせいだって思ってる節があるから。だけど」
そこまで言って、わざとらしく憂鬱そうに息を吐いた。
「覚悟しなくちゃね。今晩は最高に機嫌の悪い時柾様だってこと」
律花はその言葉に、深く同意を覚えたのだった。
夕餉の席は予想した通りのものだった。厳しい顔で沈黙し、黙々と箸を進める八尋、その八尋の隣に陣取り何かと話しかける千鶴。いつも同席している筈の彰は、その日は一人で夕餉を取る、と言ってさっさと逃げてしまっている。律花は、八尋の沈黙が痛くてやりきれなくなっていた。
そういう空気の中で夕餉が終わり、ようやく千鶴が退出すると胸を撫で下ろした時にそれは起きた。
部屋の障子の向こうから声がして、控えていた、今日紹介されたばかりの侍女が千鶴に何か用事があるようだったので、一番近くにいた律花は何気なしに立ち上がって障子を開けた。普通に歩けるくらいにならば、怪我はとっくに治っていた。
開けた瞬間、何かキラリとした物が見えて、それが何かを認識する前に、律花は反射的に避けていた。
侍女の着物が翻り、律花が避けたために勢いあまって部屋の中へ倒れこむ。侍女の手から離れた短刀が一度宙に舞い上がり、それからぐさりと畳に突き刺さった。
千鶴が怯えたように小さく叫んで両手で口を押さえる。
「誰か、であえ」
鋭い声で八尋が叫ぶと、どこに待機していたのか、彰がさっと部屋に入ってきて侍女を取り押さえた。彰に取り押さえられながらも、侍女はきっと顔を上げて律花の顔を睨みつける。八尋が静かに侍女の前に立った。
「俺の臣ならばその場で斬り捨てるところだが、生憎お前は千鶴の臣だ。……弁明があるのなら言ってみろ」
その声は、背筋が凍る程に冷たい。侍女は竦みあがったようだったが、それでも自分を奮い立たせるようにして、気丈にも口を開く。声は震えていたけれど。
「この女は、間者です」
その言葉に、八尋も彰も、当の律花でさえ訝しげにする。だが、侍女は続ける。
「わたくしは、庵治山のふもとの集落から参りました。あそこは、木野の領地のすぐ側で木野から繋がっている川から時々木野の物が流れ着きます。……この女は、数ヶ月前にそうして流れ着いた女です。私は、その女が集落で倒れて屋敷に運ばれる一部始終を見ていました。それで、その夜こっそりと殺してしまおうと思ったのに、山に逃げ込まれてしまって」
侍女はそう言って、悔しそうに唇を噛む。
八尋の頭に、何かひらめく物があった。確かに、律花と出会ったのはその山の中でだった筈だ。だが、だからと言って確たる証拠もない上に、律花はこれまでずっと八尋に忠実にいる。とても間者などとは考えられなかった。
律花の表情を見るまでは。
振り返って見た律花は、さ、と後ろめたそうに八尋から目を逸らしたのだ。
その瞬間、八尋の中に冷たい物が駆け巡る。
「そうなのか?律」
口から出た言葉は、驚く程冷たいものになっていた。今まで律花に対しては一度も発した事のない程に。
その声に、律花は身を竦ませた。それが、更に後ろめたい事があるのではないか、と八尋の不審に火をつける。
実際、律花には後ろめたいことがないでもなかった。
一度、河原で八尋に助けてもらっていたことを以前言い出しそびれて以来、話していなかったことだ。単に言い出しそびれただけならば、後に改めて言えばよい事だった。だが、律花の心の中には確かに、「自分が木野の贄らしい」と言ったら今までの八尋の態度が一変していまうのではないかという恐れがあったのだ。だから、気づかぬふりをして、あわよくば隠し通そうと思った。
それが、仇となった。
今更、律花がどう言い訳しても、もはや良い訳だとしか聞こえないことだろう。八尋の視線は射るように律花を貫いている。
「そう言われたけど、でも……」
それでも、弁解しようと律花は慌てて言う。だが、それを遮るようにす、と目の前に銀色の鋭利なものが突き出された。律花は呆然と眼前のそれを凝視する。
「まさか、お前にまで裏切られるとは思っていなかった」
声は、どこまでも冷徹で、そして今まで聞いたことのない程にぞくりとするものがある。
―――本気で、怒ってる。
律花はなんとか誤解を解こうと口を開くが、あまりの恐怖に声が出てこなかった。目の前の八尋は、いつも見慣れている八尋ではない。
「お前は、見事に俺の信頼を裏切ってくれた。……自分の愚かさを呪え」
八尋の瞳は憎悪に燃えている。
律花は助けを求めるように彰を振り返る。だが、彰は信じられないくらい 普段と変わらない様子でにっこりと笑ってこう言った。
「ごめんね、律。君の事は結構気に入っていたけど、俺の主人は時柾様だからね。主人が君を殺そうとする以上、俺も従わなくちゃいけないんだ」
律花は愕然とする。今まで慣れ親しんだ人がまるで他人のように見えた。
その時、律花と切っ先の間に桃色の豪奢な着物が翻った。
「お止めください」
飛び出したのは、千鶴。両手を広げて、精一杯律花を庇うようにすると八尋に向かって言う。
「殿、どうか、命を奪うのはお止めください」
八尋は冷たい瞳のまま、千鶴を睨みつける。
「そなたには関係のないことだ。……どけ」
「いえ、どきませぬ。命は取らないとおっしゃってくださらなければ」
食い下がる千鶴に、いらいらと、腹立たしげに八尋は言う。
「ならば、どうしろと言うのだ。木野に返せというのか? この城に、間者を置いておくつもりはない」
「私が引き取るわ」
突如、そんな声が聞こえた。確かに、今まではその場にはあるはずの無かった声だ。
「朝熙?」
八尋が訝しげに、戸口に立つ人物に呼びかける。
白い着物に紫を合わせた、相変わらずの女装で朝熙がそこにすらりと立っていた。
「騒がしいと思って柏に様子見に行かせてみれば、何か面白そうな事をやっているわね。時柾」
そう言いながら、朝熙はツカツカと部屋の中へ入ってきて、一瞬、千鶴を見て嫌な顔をする。だが、気を取り直したように、律花を振り向いて言った。
「そなたには借りがあるわ。私が引き取ってあげるから一緒にいらっしゃい」
「え?」
呆然と事態を掴めないでいる律花を気にせず、朝熙は続ける。
「急ぎなさい。私の気が変わらないうちに」
そう言って、律花の袖を掴むと引っ張って部屋を出ようとする。律花はそれに引きずられる形でついていくことになった。
「待て」
八尋が言って刀を構えなおす。
「いいじゃない。私が目を離さないようにするわよ。……時柾、あなた、今は私と敵対するわけにはいかないでしょう?だったら私の部下に余計な真似はしないことね」
そんな台詞を残して朝熙が行ってしまうと、八尋は、乱暴に刀を一振りする。鴨居に刃が当たってぱらぱらと木の粉が落ちてきた。
そして、そのまま、怒りを静めようともせず、珍しい程に乱暴に部屋を去った。
「あの、すいません。朝熙様……?」
律花は小走りになりながら、廊下をすたすたと歩く朝熙の後を追う。
城の中でも、朝熙の住んでいる場所と時柾の住んでいる場所は離れていて、こちらに移ってきてから朝熙の姿を見るのは初めてだった。
律花を連れて部屋を出てきてから、朝熙は一切言葉を発しない。それを不安に思いながら、律花は声を掛けた。だが、朝熙は返事もせずにすたすたと歩き続ける。
しばらく歩いて、ようやく目的の部屋の前に辿りついたらしい。朝熙はピタリと足を止めた。
「言って置くけど」
そこに至って、やっと朝熙は口を開く。
「時柾のようにお前を扱うとは思わない事ね。私は、お前を臣として召したんだから。こちらが話しかけるまで口を開かない事は当たり前のことよ」
それから、部屋に入り律花を部屋に招き入れ、下座に座らせて言う。
「お前を召したのは、お前に借りがあるから。私が女子を嫌いなのは変わりはしないのだから、絶対に女子の着物を着ない事。……もっとも、時柾の所にいた時も好んで男装をしていたようだけど。お前はそれほど女らしく見えないから、その格好をしていれば女だとは思わないわ」
それから、と朝熙は続ける。
「仕事の内容は柏に尋ねれば良いわ。いまいましいけど、時柾にああ言ってしまった手前、目の届くところに置いていなきゃいけないから小姓の仕事をしてもらうことになると思うけど」
一通り話してしまうと、朝熙は柏を呼んで自分は奥の部屋に下がってしまった。律花が手持ち無沙汰になる暇もなく、柏が現れ細々とした仕事の説明を始める。
それは、八尋のところに居た時とは比べ物にならないほど厳しい内容だった。
全12章(+α)中まだ3章なんだぜ…。4倍かぁ…。




