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第三章 5話

 耳元で、風がびゅんびゅんと通り過ぎる。しばらくは、ただ耐えるように手綱をきつく握り締めていた。

 「律」

 不意に聞こえた呼び声に顔を向けると、八尋が律花の馬の脇にぴったりと自分の馬をくっつけて走行しながら言う。

 「こちらに、乗り移れるか?」

 「乗り移る?」

 恐怖に声を引きつらせて聞き返すと、八尋は平然と頷いた。

 「大丈夫だ。俺が合図したら思い切りこちらに乗り出せ。そうすれば後は俺が引き上げる」

 「引き上げる、って」

 律花は思わずちらりと八尋を見る。八尋はどちらかといえば細身の方で、刀の腕は素晴らしいとしても、力があるとはあまり思えなかった。

 「大丈夫だ」

 不安そうな顔をした律花に頷いて、落ち着き払った声で、八尋は言う。

 「でも……」

 律花が迷うように言葉を濁した時だった。

 ひゅん、と空を切る音がして、律花の脇を何かが駆け抜けた。それを目で追って律花は仰天する。

 「矢?」

 「こちらに気づかれたと知って、隠れるのをやめたか」

 八尋は言って、促すように律花を見る。その瞳は、真剣だ。

 ―――信じるしか、ない。

 「わかった。やってみる」

 律花が言うと、八尋は満足そうに口の端を少し上げた。そうして、さらに馬を寄せてくる。

 驚いたのはこちらの馬で、逆方向に体をそらせようと頭をそちらに向けた。馬の体がU字型になった瞬間を見逃さず、八尋が「律」と声を上げ、両手を差し出す。律花は伸び上がるようにして、八尋の方に体を乗り出した。

 力強い腕が律花の腕と腰にかかる。そのまま、ぐい、と引き上げられた。 浮遊感を感じたのは一瞬。次の瞬間には、律花は八尋の馬に乗っていた。

 ―――やった。

 成功の喜びに浸るまもなく、八尋の声。

 「律、しっかりと馬の首を掴んでいろ」

 不安定な体勢から移動して、八尋の前に座らされて、そう言われる。律花が言われたとおりにするやいなや、二人を乗せた馬の速度が加速した。チラリと見ると、律花の乗っていた馬が、どこかに走っていってしまうのが見えた。

 ひゅうと不気味な音を立てて、またもや矢が側を掠める。後ろを振り返って見てみれば、馬に乗った男が三人ほど。

 先頭の一人は刀を持ち、背後の2人は矢をつがえながら、追ってくるところだった。その、先頭の一人は良い馬に乗っているのか、かなりこちらの近くに来てしまっている。こちらの馬は、二人乗せている分、やはり遅いのだろう。

 律花は焦る。

 ―――どうしよう。追いつかれる。

 このままで居れば、それは自明の事だった。だが、どうすれば良いと言うのだろう?

 その時、ふと、八尋の腰にさされた刀に目が留まった。律花は何かを思いついて考え込む。

 ―――だって、でも、失敗したら……。

 もう一度振り返れば、馬はもう、間近に迫っている。追いつかれるのは時間の問題だろう。

 ―――やるしかない。

 一度大きく深呼吸をすると、覚悟を決めて律花は口を開く。

 「八尋」

 耳元でうるさく唸る風にかき消されないように声をはり上げた。

 「どうした」

 八尋は律花のほうを見もしないで、馬を急かしながら、前を向いたまま答えた。

 「私が手綱を握る。だから、八尋はどうにか撃退して」

 律花は言いながら、刀を指す。八尋は驚いた顔でやっと律花を見た。

 「だが、律、乗馬は……」

 「そんな事、言ってる場合じゃないでしょ。私、運動神経結構良いんだから、どうにかしてみせる」

 八尋は少し黙って探るように律花を見つめた。律花は真っ直ぐに八尋の瞳を見返す。

 次の瞬間、くしゃりと無造作に律花の頭が撫でられた。

 「任せた、律」

 そう言って手綱が手渡される。律花はそれを強く握り締め、自らを落ち着けるように大きく息を吸う。

 ―――背筋を伸ばして、体の力は適度に抜く。

 背後で、八尋が刀を抜いた音がした。

 聞こえてくる硬質の金属音は、矢を払っている音だろうか。

 ―――そして、馬の動きに合わせて体で釣り合いを取る。

 背後で起こっている事を気にしている場合ではない。そちらに気を取られて、気を逸らされてはいけない。

 ―――私は、任されたんだから。

 目の前の事に集中して、任された事をやり遂げる事だけに全力を傾ける。 八尋ならば絶対に大丈夫だ、というのは疑いもない。

 どんどん近づいてくる馬の蹄の音も気にしてはいけない。

 視界が揺れる。

 広々とした草原で助かった。方向転換などという難しいことをしなくて済む。

 きん、という一段と大きい音が背後で鳴る。刀と刀がぶつかる音だ。

 ―――気にしちゃ、駄目だ。

 その時、律花は仰天した。

 どこから回り込んだのか、いつの間にか矢をつがえていた一人が律花の前方へ躍り出ていた。はっきりと見える。こちらに向かって弓を構えているのが。

 ―――このままじゃ、当たる。

 律花は動揺する。背後の争いはまだ止む気配がないから、八尋を頼ることはできない。この馬の事は、自分の手に掛かっているのだ。自分一人でどうにかしなくては。

 覚悟を決め、心を静めるように大きく深呼吸。

 ―――さっき、方向転換はやった筈だ。歩きだって走ってたって、同じ。

 自分に言い聞かせるように何度も呟くと、手綱を更に強く握る。緊張のために、手が震えて冷たくなっていた。震えを押し込めるように手綱を握る手のひらにさらに力を込める。

 「八尋。方向変えるから注意して」

 声を掛けた直後、前方の人物が正に最大限に弓を引き絞って手を放す瞬間、律花は全力で手綱を大きく右に引っ張る。馬が窮屈そうに頭を引っ張られ、そのままそちらの方向に駆け出した。

 ―――上手く行った。

 律花は安堵の息を吐くが、まだそれで終わりではない。慌てて気を引き締め、馬をけしかけスピードを調整する。

 と、不意に背後で鈍く重い音が聞こえた。八尋が刀を鞘に納める、鞘と刀身の擦れる音が耳に届く。

 「よくやった。律」

 そんな言葉と共に背後から手が伸びてきて、律花の手の上に重なった手が手綱を大きく後ろに引く。

 馬が仰け反り、足を止めた。

 ―――あと二騎、残っているのに。

 律花の考えなど気付きもしないように、八尋は馬から下りると、地面に血を流している、たった今自分が斬った男に近づき、男が背負っていた弓矢を奪い取った。

 八尋の瞳が狙いを定めるようにさらに鋭くなり、すらりとした立ち姿で弓を構える。そうして、迫ってくる二騎の方へ矢先を向けた。

 向こうからも矢が飛んでくるのだが、馬に乗りながらのせいなのか、それとも八尋のただならぬ気迫に圧されたせいなのか、こちらに当たるものはなかった。

 ひゅうと風を切る音がして律花が瞬きした時にはもう、どさりと片方の馬から人が落ちる所だった。

 八尋はいつの間につがえていたのか、もう次の矢を装着して残る一人に向けて放つ。弓が風を揺らす音がしたと思ったらもう、どさりと人が落馬した。乗り手がいなくなった二頭の馬は、勝手にどこかへ駆けていってしまう。

 律花は呆然と、目の前で無造作に弓矢を放り捨てる人物を見るのだった。

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