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<中編> 最後の攻撃隊

 十月二四日午前六時、機動部隊は予定進出地点であるエンガノ岬沖に到達した。

 エンガノ岬はフィリピン北部の島であるルソン島の北東に存在する岬で、その名はスペイン語で「欺瞞」や「詐欺」を意味する。無論、機動部隊がこの地を戦場に選んだのは戦略上の考えに基づくものだが、それにしては出来すぎなほど、今回の作戦に相応しい名前だった。

「索敵機、発艦します!」

 見張員の叫び声を掻き消す轟音を鳴らし、『瑞鶴』の甲板を索敵機が駆けていく。飛行甲板を目一杯に使って滑走した機体は、甲板の先端でふわりと機体を浮かして南の空へと向かう。

 『瑞鶴』と小型空母『瑞鳳』、そして軽巡洋艦『大淀』から発進した合計十機の索敵機は、網を投げるような散会線を張って敵機動部隊を捜索する。数時間後、『瑞鶴』のアンテナが一通の電文を受信した。

「艦長、本艦を発艦した索敵機より報告がありました。『機動部隊の南西一八〇浬に敵艦隊発見。艦艇十数隻、針路北』。以上です!」

「長官!」

 水兵からの報告を聞き、艦長の貝塚武男少将は隣に立つ人物を振り返る。その視線に、機動部隊指揮官を務める小澤治三郎中将は決然として頷いた。

「攻撃隊発艦準備。他の艦にも信号を送れ!」

「はっ!」

 了解した艦長の命を受け、『瑞鶴』に搭載された航空機に出撃命令が下る。僚艦にも発光信号で同様の命令が伝えられ、艦隊はにわかに騒がしくなる。

 格納庫に収容されていた艦載機がエレベーターによって飛行甲板に上げられ、折り畳まれていた主翼を展張する。甲板に上がった機体はすぐさま所定の位置に並べられ、エンジンの暖機運転を開始する。

 機体が用意されるのに合わせ、それを操る搭乗員たちも飛行甲板に集合する。艦橋前に集まった搭乗員に対し、貝塚艦長が訓辞を述べた。

「いよいよ敵機動部隊との最後の決戦である。我々の任務は主力部隊の囮だが、囮である事を見破られないために全力で攻撃する必要がある。見事、敵艦隊に打撃を与え、こちらに注意を向けさせて欲しい。各員の奮戦敢闘を期待する」

 次いで、飛行長が敵艦隊の詳細を説明する。

「敵艦隊は、我が艦隊の南西一八〇浬の地点にあり、北方に向かって進撃している。数は十数隻。空母の有無は不明だが、いると見て間違いは無いだろう。なお、攻撃隊は攻撃終了後、母艦へ戻らず陸上の飛行場に着陸し、爾後の作戦に参加せよ」

 最後の一言は、空母の飛行長としては限りなく奇異な命令だった。空母の強みは、艦載機による遠距離からの反復攻撃にある。出撃した機体が他の飛行場に着陸してしまえば格納庫は空になり、空母、ひいては機動部隊そのものが戦闘力を失ってしまう。

 しかし、開戦以来の熾烈な戦いの中で熟練搭乗員の大半を失った日本海軍には、空母への着艦を行えるだけの高度な技量を持つ搭乗員が少なくなっていた。『瑞鶴』の搭乗員も、ベテランは鞍馬の他に数人を数えるばかりであり、攻撃後の着艦など思いも寄らない事であった。

「では、搭乗員の割当てを発表する。攻撃隊誘導機。操縦、厳島中尉。偵察、橋立飛曹長。電信、松島上飛曹。次、戦闘爆撃機……」

 名前を呼ばれた搭乗員が、次々に威勢の良い返事を返す。直掩戦闘機隊の一人としてその名が挙がるのを今か今かと待っていた鞍馬だったが、そんな彼の耳に衝撃的な言葉が飛び込んだ。

「攻撃隊護衛機。本山大尉、脇坂飛曹長……、……、……、鞍馬二飛曹!」

「なっ!?」

 耳朶を打った言葉に鞍馬は暫し絶句し、それから声を上げた。

「どういう事ですか、飛行長! 昨日は、俺は直掩機に回すと言ってたじゃないですか!」

「落ち着け、鞍馬二飛曹」

 噛みつかんばかりの剣幕で捲し立てる鞍馬を、飛行長は静かに制する。

「確かに、昨日は俺も貴様に母艦の直掩を任せる考えでいた。だが、敵は恐らく強力な戦闘機部隊で攻撃隊を迎撃してくるだろう。その防空網を突破して敵艦隊を攻撃するには、こちらも護衛を強化しなければならない。敵艦隊に我々を脅威と思わせなければ、囮作戦は成功しない。作戦を成功させるためにも、貴様には攻撃隊を護衛していって貰いたい」

「しかし!」

「これは命令だ。いいな」

「……っ」

 有無を言わさぬ口調で告げられた言葉に、鞍馬は唇を噛む。彼が沈黙したのを確認した飛行長は再び名前を呼び始め、最後に「かかれ!」と大声で命じた。

 号令一下、搭乗員は脱兎の如く駆け出し、それぞれの愛機に飛びつく。そんな中、鞍馬だけはその場を動かず、足下に視線を落としていた。

「鞍馬二飛曹……」

 その様子を見た瑞鶴が、気遣わしげに声をかける。しかし、鞍馬は顔を上げる事なく呟くように問いかけた。

「お前がやったのか……瑞鶴」

 鞍馬の耳に、瑞鶴が息を呑む音が聞こえる。その一音で、鞍馬は全てを悟った。

 艦魂とは、艦そのものである。艦の魂である艦魂と本体である艦体は密接な関わりを持ち、互いに影響し合う。艦が傷つけば艦魂も傷つき、また、艦魂の精神状態は乗組員の士気に影響する。強く願えば、艦魂は乗組員の意思を自らの望む方向へ誘導する事もできた。

 一夜のうちに起こった、飛行長の不自然な翻意。それは、艦魂である瑞鶴がそれを願った結果に他ならなかった。それも、乗組員の意思に影響を与えるほどに強く……。それを知った瞬間、鞍馬は頭を金槌で殴られたような衝撃に襲われた。

「どうして……どうしてだよ、瑞鶴。どうして、俺を直掩機から外したんだよ」

 鞍馬の問いに答えず、瑞鶴は視線を逸らす。悲しげに歪む横顔に、鞍馬は重ねて問いかける。

「俺は、お前を守ると約束した。それなのに、何でお前は、俺を遠ざけようとするんだ?」

「…………」

「……もしかして、俺のことが邪魔になったのか?」

「違いますっ!!」

 それまで沈黙を貫いていた瑞鶴が、強い口調で否定した。思わず言葉を呑んだ鞍馬は、彼女の顔を見て驚きの色を浮かべた。

「そうじゃありません……。そんなこと、あるわけないじゃないですか……」

 鞍馬の顔を見上げる瑞鶴は、その瞳一杯に涙を溜めていた。今にも泣き出しそうな彼女を刺激しないよう注意しつつ、鞍馬は戸惑いをあらわに尋ねる。

「なら、どうして……」

「鞍馬二飛曹に、生き残ってほしいからです」

 涙を堪えるようにして、瑞鶴が言う。

「今度の戦い、私は生きて帰れないでしょう。ここに残っても、艦と運命を共にするだけです。私は、鞍馬二飛曹をそれに巻き込みたくありません」

「そうさせないために、俺がお前を守るんだろ! それに、俺は真珠湾からずっとこの艦に乗ってきた。お前と一緒に死ぬなら――」

「私は! 鞍馬二飛曹に死んでほしくありません!」

 鞍馬の言葉を遮り、瑞鶴が叫ぶ。呆気にとられる鞍馬に、瑞鶴は想いを込めた瞳を向ける。

「鞍馬二飛曹は、ここで死ぬべき人ではありません。僅かでも生き残る可能性があるのなら、その道を進んで下さい」

 瑞鶴は、腰に帯びた短剣を手に取ると、それを鞍馬に差し出した。

「……お守りです。きっと、鞍馬二飛曹のことを守ってくれます」

「瑞鶴……」

 短剣を受け取った鞍馬を真っ直ぐに見つめ、瑞鶴は真摯な口調で言う。

「約束して下さい。何があっても必ず生き残ると。決して、命を捨てる真似はしないで下さい」

 暫しの間、鞍馬は彼女の意志を確かめるように瑞鶴の瞳を見つめていたが、やがて首を縦に振った。

「……分かった。約束する。けど、お前も無茶するなよ」

「はい」

 頷いた瑞鶴は、表情を改めて鞍馬を急かす。

「行って下さい、鞍馬二飛曹。発艦時刻まで、もう時間がありません」

「何してる、早くしろ!」

 瑞鶴の言葉に重なるようにして、飛行長の声が響く。口惜しげに身を返す鞍馬の背中に、寂しさを堪えるような瑞鶴の声が届いた。

「御武運を」

「……お前もな」

 短く答え、鞍馬は愛機の零戦に駆け寄る。主翼に足を掛けて操縦席に乗り込み、動翼の動きや計器類を手早く確認する。

 艦載機の発艦のため『瑞鶴』は速度を上げ、風に向かうように針路を変える。飛行甲板の先端から吹き出す風向指標用の水蒸気が飛行甲板の中心線と重なった瞬間、飛行長の叫び声が響いた。

「全機、発艦開始!」

 号令を受けて、艦橋の張り出しに立つ士官が旗を前後に突き出した。発艦の合図だ。最前列に並んだ一機の零戦が、それを見て滑走を開始する。

 手空きの乗員が帽振れで見送る前を零戦は勢い良く駆け抜け、飛行甲板の先端に達する。一瞬、零戦は重力に引かれて沈み込むが、すぐに揚力が勝ってぐんぐんと高度を上げていく。

 前の機体が無事に発艦した事を確認し、士官が再び旗を振る。同時に次の一機が駆け出し、銀翼を煌めかせて空へ舞い上がる。

 やがて、全機が発艦を終えた攻撃隊は艦隊上空で編隊を整えた。この後の生死に関わらず、彼らが母艦へ戻ってくる事はない。これが日本海軍最後となるであろう、空母から飛び立つ攻撃隊に対し、乗組員たちは万感を込めて帽子を振った。

 二度と帰らぬ巣へ別れを告げ、鋼鉄の海鷲たちは征途に赴く。その背中を見送る瑞鶴の頬を、一筋の涙が伝った。

「さようなら、鞍馬二飛曹……」

 その後、攻撃隊からの連絡は無く、夕刻になって少数の機体が帰還しただけだった。小澤長官は、攻撃隊は攻撃に失敗し、生き残った機体は陸上基地に向かったものと判断した。

 僅かに帰った機体の中に、鞍馬の零戦の姿は無かった。

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