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不良先輩とおせっかいさん

 お願い、早くどこかに行って!

 祈るような思いで、律は地上を見下ろす。何度確認しても間違いない。二年の黒沢だ。

 シャープな顔立ち。ボサボサの黒髪。日に焼けた肌。

 ある意味で有名な彼の噂を、律はよく耳にしていた。

 無口で無愛想。眼光は鷹のように鋭い。校内で喫煙している姿が度々目撃されている。昨年は授業もめったに出ず、一部の先生方の努力で進学出来たとの話がある。

 一部の女子には何故か好かれている。何でも『寄らば斬る』な雰囲気が堪らないということらしい。律にはさっぱり分からない。なるべくなら、係わりたくないと思っている。

 そろそろ自分の身体を支える腕が痺れてきた。心から黒澤の立ち退きを願うが、退くどころか彼は胸ポケットから煙草を取り出し、一服し始めたではないか。

 火を点けるまでの一連の動作は、さすがというか手馴れたものだ。律の父親の動作と大して変わらない。

 夏も近いというのに、恐怖という寒気が背中から頭に昇る。握り締めたお気に入りのハンカチがシワになっても気にならないぐらい、律は動揺していた。

 白煙が色を薄め、うねりながら律の顔まで届いた。不運なことに風はなく、煙草の臭いは薄れることなく鼻を突付く。

 十秒、二十秒……。呼吸を止め、懸命に耐えたがもう限界だ。咳き込んでしまった律は黒澤に見つかってしまった。

「……何やってんだよ?」

 律にとっては悪魔より恐ろしい声だった。あからさまに不機嫌の色を浮かべ、黒澤は律を睨んでいる。

 喫煙を目撃され、慌てた様子は無い。むしろせっかくの楽しみを邪魔され、怒っているようだ。

「おい、聞こえてねぇのか」

 威嚇からか、律のいる木の幹を強く蹴る。揺れる木を律は悲鳴を上げしがみついた。黒澤は続けて蹴りを入れる為か、再び足を上げた。慌てて律は口を開く。

「ハ、ハンカチを取りに……」

 恐怖から声が震えた。目の端に涙が浮かぶ。

 黒澤は視線を和らげない。そのまま煙草を吸い、律のスカートを指差した。

「見えてるぞ。白いの」

「……! きゃああああッ」

 スカートを押さえようと手を伸ばした結果、律はバランスを崩してしまった。そのまま地面に叩きつけられる。

 腰を打ちつけ痛みに震える律を、黒澤は立ったまま声をかけた。

「大丈夫か?」

 声に心配する素振りは全く無かった。泣きそうになるのを必死で堪え、返事した。

「痛いです」

「んじゃ、保健室で湿布貰いな」

 あくまで黒澤は他人事で通すようだ。煙草をしっかりと堪能し、学生鞄から出した携帯灰皿に吸殻を捨てる。

 律は呆然とそれを眺めていた。波のように連続する腰の痛みが、絶え間なく続く。

「じゃ、お大事に」

 手を振り、去って行こうとする黒澤の足に律は無我夢中で飛びついた。

「放せよ」

 威圧する黒澤の声に律は首を振る。

 そんな律を振りほどこうと、黒澤は乱暴に足を振った。更に強く足にしがみつき、放さない。食らいついたすっぽんのようだ。

 無駄だと悟ったのか、黒澤は足を止めた。

「何だよ、邪魔すんなよな」

「……保健室、連れてって下さい」

 律の口から出た言葉が予想外だったらしく、黒澤はぽかんと口を開いた。その間に、彼の身体を使って律は自力で立ち上がった。

「一人で動くの、辛いので肩を貸して下さい」

「嫌だ。一人で行けよ」

「お願いしますっ」

 己の取った行動も恐ろしかったが、こんな状態で取り残される方が心細い。

 痛みは腰からじわじわと身体全体に広がってきている。校舎裏から保健室までは、かなりの距離だ。今の律には辿り着くまでに数時間はかかりそうだ。

 律から離れようと黒澤は身をよじった。

「放せ」

「お願いします」

 震えながら懇願する律に、黒澤は大きなため息を吐いた。どうやら根負けしたようだ。律の腕を己の肩にかけ、空いた左手で律の腰を支える。

「すみません」

「黙ってろ」

 そう言われたので、律は素直に従った。

 夏服から煙草の残り香がした。見上げると黒澤の顔が近くて、律の頬が熱くなる。意外と睫毛が長い。

 黒澤は大して気も止めてないようだ。何で俺が、とか小声で呟いている。

 密着する黒澤の身体はがっしりしていて、律を支えていてもふらつかない。自分を持つ彼の手の硬さに、律の鼓動が駆け足で全身を巡る。

 校舎内はひっそりと静まり返っていた。皆、二週間とない期末テストに備えるべく帰宅したのだろう。律はこっそり安堵する。

 こんなところを誰かに見られたら大変だ。瞬く間に校内中に広まるだろう。

 保健室に鍵は掛かっておらず、静かに引き戸は開いた。

 わずかな薬品の臭いと冷房の効いた空間。赤い日差しは分厚いカーテンに進入を拒まれる。

「何だ、先生はいないのかよ」

 舌打ちしながら、黒澤は律を室内に運び入れる。幾分か律を添える手が丁寧なものに変わっていた。

「座れ」

 教室の物より柔らかな椅子に座らされる。このまま置いて行かれると思ったが、黒澤は薬品庫の引き出しを探っている。

「あった。……貼るのは自分でやれよ」

 湿布薬が律に投げてよこされた。律が受け取ったのを確認すると、黒沢は律の対面に座った。

「何だよ、貼らないのか?」

 急かす黒沢の言葉に律は羞恥心を覚える。赤い顔で黙り込む律に黒澤は首を傾げた。

「どうした?」

 いらついた声に律は困る。机を叩く黒澤の指の速度が段々上っていく。

「……後ろ、向いて下さい」

 それでようやく気付いたらしく、椅子ごと黒澤は律に背を向けた。

「は、早くしろよ」

 心なしか声が少し上ずっている。そんな黒澤がおかしくて、律は噴出すのを堪えた。

 スカートのホックを外し、腰を露出させる。

 ちらりと黒澤を盗み見る。背中を丸め、耳がほんの少し赤くなっている。見られているわけでもないのに、何となく気恥ずかしい。生温い湿布が冷たく感じる。

 すぐにスカートのホックを留め、黒澤の声をかける。

「終わりましたよ」

「そうか」

 しかし黒澤は振り返らない。

「もう大丈夫ですよ?」

 黒澤はますます背中を丸めた。

「いいから、ほっとけよ」

 拗ねたようなぶっきらぼうな声。先ほどまでの威圧するような雰囲気はもう感じない。今の黒沢に親しみすら感じた。

 だから、律はつい訊ねてしまった。

「あのぅ、どうして黒澤先輩はこんなことしてるんですか?」

「……うるせえな。気にならない方がおかしいだろう」

 この状況についてのことだと勘違いしているようだ。黒澤の返答に改めて律は恥じらいを覚える。

「ち、違いますよ。私が言いたいのは、何で煙草を吸っていたのかです」

「吸いたかったからに決まってるだろ」

 当たり前のように黒澤が答えた。

「でも煙草は二十歳になってからって言いますし、身体に悪いですよ」

「おせっかい」

 黒澤が律を見る。身体は戻さない。

「何でお前にそんなこと言われなくちゃなんないだ?」

「それは……」

 確かにそうだ。少し調子に乗り過ぎた。

「ごめんなさい」

「何で謝るんだよ。いいから俺の質問に答えろ」

 怒ったような声に、律は身を縮める。親しみを感じたのでつい、と素直に言えるような勇気は律にはない。必死で頭を働かせ、もっともらしい理由を考える。

「……おせっかいなんですよ、私は」

 その回答で黒澤は納得したらしく、わざとらしく舌打ちをして椅子を戻す。気のせいか、その表情は明るい。

「帰るぞ」

「はい、気をつけて」

 頭を下げる律に黒澤が目を丸くした。何故か面倒そうなため息を吐く。

「アホ」

「な、何がですか?」

 いきなり暴言を吐かれ、律はわけが分からない。黒澤は手入れされてない髪をかきむしると、律の顔を見ないで言った。

「送ってやるってんだよ」

 その申し出に、今度は律が驚く番だ。

「え、えぇ、何で?」

「うるせぇ。いいから黙って付いてこい。もう歩けるだろ」

 立ち上がり、黒澤は律の手を取る。その手は熱く、汗ばんでいた。

「い、いいんですか?」

 律も何となく黒澤から目を逸らした。

「何度も言わせるな」

 一言そう言うと、黒澤は律を立たせた。そのまま肩に手を回し、先ほどと同じ体勢を取ろうとする。

「も、もう歩けるので、大丈夫ですよ」

 上ずった声で黒澤の申し出を改めて断る。しかし黒澤に無視され、教室から引っ張り出された。

 薄暗くなった廊下を二人で歩く。足元を見れば、二人の影が密着している。沈黙が気まずく感じる。何か話を振ろうとしても口の中で空回りするだけだ。

 黒澤の態度が分からない。

 少なくとも、数分前までは律のことを見捨てるつもりらしかったのに、今はこうして一緒に歩いてくれる。一体、何を考えているのだろう。

「お前、鞄は?」

 自転車置き場まで来て黒澤が尋ねた。教室に置きっぱなしだと告げると、わざわざ取りに行ってくれた。

 ここまで親切にされると逆に怖い。

 もしや、このまま自分をどこかに監禁するつもりなのか? 目撃者を消すと、昨日の刑事ドラマの犯人も言っていたし。

 現実味もない想像に一人身を震わせていると、黒澤が戻ってきた。彼は律の顔を見るなり、片眉を歪ませた。

「顔青いけど大丈夫か?」

「ダ……ダイジョウブです」

 先ほどまでの妄想はすぐには消えず、何度も首を横に振って誤魔化した。黒澤は納得いかないような顔をしたが、それ以上は聞かなかった。黒澤は自分の自転車にカゴに二人の鞄を入れ、荷台の上に律は座らせられた。

「あの、このまま降りるんですか?」

 恐る恐る律は訊ねた。

 ここから校門までは結構急な坂道だ。危険だからと自転車に乗って下ることは禁止されている。

 しかし黒澤は何も言わない。そのまま黙ってペダルを踏み始めた。徐々に傾き、速度を上げていく自転車。

「ちょっ……待って。あ、あ、きゃあぁ!」

 ジェットコースターのように一気に坂を下っていく。

 風を切る音。律は黒澤にしがみつく。温かい背中。黒澤の笑い声。二人の影が必死で後を追う。紫の雲が空を走る。目の端が熱い。

 坂を下りきり、夕闇の道を通り抜ける。

「お前の家どっちだ?」

「え、えっ」

「修正効かないから早くしろよー」

 子供のようにはしゃいだ声だ。

「つ……次の角を左です」

 すり抜ける風が口の中に入る。冷たい空気が喉から伝わる。

 スピードを保ったまま、自転車は鮮やかに角を曲がる。コンクリートの塀すれすれに身体が通り、冷や汗を出していれば、すぐに次の曲がり角に行き着く。

 家の前に着いた時には、律はすっかり疲れきっていた。

「先輩は毎日、こんな感じで下校してるんですか?」

「いいや。今日が初めて」

 あっさりと言い放たれ、律は目を見開く。

「一度やってみたかったんだよなー。割と楽しいじゃん」

 もう何も言えず、律は肩を落とす。ただ自分達の無事に安堵する。

「菅原……って言うのかお前」

 家の表札を見て、黒澤が聞いた。

「菅原ってぇとアレだろ。学問の神さん」

「菅原道真のことですか?」

 その名を出すと、黒澤は嬉しそうに律を指差して笑う。その顔の律は釘付けになってしまった。

「そうそう! へー。お前、菅原ね」

 感心したように自分の苗字を連呼されると少し恥ずかしくなる。

 それから二、三言交わして、黒澤は帰って行った。ようやく律も緊張の糸を緩められる。いつもより疲れた体を引きずって、律は玄関の戸を空けた。

「あ」

 靴を脱いで、律は気付いた。

「お礼、言うの忘れた」

 明日、言えばいいだろう。しかし、相手はあの黒澤だ。今日の一件で少しは親みを感じたが、ただの気まぐれかも知れない。

 律の頭のあの笑顔が蘇る。少年のような可愛らしい笑顔が。

 散々悩んだ末、律は決意した。


「で、俺に会いに来たのかよ」

 さすがに大っぴらに黒澤に会いに行くのは、はばかれたので昨日と同じく放課後の校舎裏で待った。しばらく待てば、待ち人は現れた。

 律を見る黒澤の眼差しは気のせいか、ずいぶんと優しいものだ。

「はい、昨日はありがとうございました」

 深々と頭を下げると、黒澤はそっぽを向く。それでも口の端が笑っていたのを、律は見逃さなかった。

「別に気にしてねぇって。それより腰はどうなのかよ」

「今日も湿布貼ってます」

 おかげで朝から湿布臭いと友人達に大不評だった。

 黒澤は鞄から煙草を取り出す。律の父とは違う銘柄だ。鼻に届く臭いも少しきつい。

「そういえば、どうして昨日は口止めをしなかったんですか? それの」

「お前って、こういうことを人に言いふらすほどの性格じゃねぇだろ」

 完全に舐められていただけだった。

 悔しいが当っていた。昨日の件はまだ誰にも話していない。黙っているだけなのも癪なので反撃する。

「じゃあ、どうして学校で喫煙なんかするんです?」

 黒澤はそれに答えない。煙草を加え、ぼんやりと空を見上げている。時刻は夕方に近いのに、空はまだ青いところを残している。

「何でだろうな?」

「どうして私に聞くんですか」

「いや、面倒じゃん。考えるの」

「自分のことじゃないですか」

 黒澤の口から白い煙が溢れ出る。白煙は少しずつ色を失い、やがて空気に同化した。その流れを二人はぼんやりと目で追う。

「お前って、バス通学?」

 黒澤が口を開いた。

「そうですよ」

 律が答える。

 半分も座ってない煙草を黒澤は携帯灰皿の中に押し込んだ。

 赤い光が少しずつ空に溶け込んでゆく。

「送ってやろうか?」

「……いいです」

「そんな露骨に嫌そうな顔すんなよ」

「でも……」

 さすがに二日連続だと誰かに見つかるかも知れない。そうなったら、自分も噂の対象だ。

 それは少し困る。

「何だよ、ひょっとして怖いのか?」

 律の心を読んだかのように黒澤が挑発した。

 黒澤を見れば、そんな律の様子を楽しむかのように笑っていた。

「あれくらいのスピードでビビんなよ」

「……そっちですか」

 考えすぎた自分が馬鹿みたいだ。

 落胆する律に、黒澤は声を潜める。いたずらを企む子供のようだ。

「大丈夫だって。先生に見つかんねって」

 律の渋る理由がそれだと思っているみたいだ。頭をかかえたくなったが、それを堪えて律は笑顔で言った。

「先輩の担任って小野先生ですよね、確か」

 通称、仏の小野。その人柄は学年を飛び越え、他学年にも慕われている。付け足すなら、黒澤が留年しないよう誰よりも心血注いだのが、小野だという話だ。

「アイツ、うるせぇんだよなぁ」

 恩有る小野には頭が上がらないらしく、黒澤は二人乗りを諦めたようだ。その代わり、バス停まで律を送ると譲らなかった。断る理由は全て論破され、仕方なく律は黒澤と並んで歩いた。

 案外、噂というのは当てにならない。律の隣にいる黒澤はよく笑い、よく喋る。それが嬉しくて、律も自然に笑顔になる。

 いつもは長く感じる帰り道が短く感じた。バスの到着により話が中断したことが名残惜しい。律を乗せたバスが発車すると、黒澤は自転車でそれを追う。やがてその姿が見えなくなった時、律は寂しいと思った。


 黒澤との密会の回数を重ねていくと、待ち望んでいない期末テストの日がやって来た。今日は律の嫌いな数学。テスト終了時は燃え尽きていた。

 自己採点を始める友人の横で、律は机の上に突っ伏す。問題用紙など見直す気も無い。『後は野となれ山となれ』だ。

 そんなことを考えていると、自分の苗字を呼ぶ声が聞こえる。クラスメイトのものではない。

 隣を見れば、友人は教室に入り口を見て固まっていた。律もその視線の先を見て、凍りついた。

「菅原ー、早くこっちこいよ」

 満面の笑みの黒澤がそこにいた。

 教室内の空気が不自然なほど静かなものとなる。友人が目線だけを律に滑らした。

 逃げも隠れも出来ない。律はぎこちない動作で黒澤の元へ向かう。背中に生温かい汗が、じんわりと伝う。すれ違うクラスメイトの息遣いが耳に響く。

「何でしょう?」

 自分はきっと不自然な笑顔になってるんだろうなぁと、黒澤を見上げて律は思う。黒澤は何故かはしゃいだ様子で律の肩を叩いた。

「俺んとこ、明日物理なんだ」

 律はますます首を捻る。そんな津などお構いなしで黒澤は続けた。

「だから、俺に物理教えろ」

「…………はい?」

 律の言葉を了承と取ったのか、黒澤は勝手に話を進めだした。呆然と津はそれを聞いていたが、じゃあ今日の放課後よろしく、とまで言われた辺りで正気に戻る。

「何で私が黒澤先輩に物理教えなくちゃいけないんですか!」

「だってお前、学問の神様と同じ苗字じゃないか」

 からかうように言われ、律は言葉が詰まってしまった。背後で必死に笑いを堪えているような気配を感じる。

 何とか誤解を解こうとしたが、黒澤はさっさと自分の教室に帰ってしまった。放課後に迎えに来るとだけ言い残して。

 自分に向けられる好奇な視線に顔を伏せつつ、律は席に戻る。

「……結構おもしろい人なんだね、あの人」

 笑ったらいいのか慰めたらいいのか分からないといった友人の声も律は無視した。このまま机と体が一体になればいいのに。本気でそう願う。


 放課後、大勢の野次馬達に見送られて律は黒澤と共に図書館を目指した。

 夕焼けが二人分の影を作り、壁に伸ばす。

「調子、悪いのか?」

 遠慮がちにそう尋ねてくる黒澤に律は首を振った。ただ、喉が煮えたぎったように熱い。

 それを冷やそうと口を開いた時、言葉も一緒にこぼれた。

「何で直接呼びに着たんですか」

 声は冷たく、残忍さも感じさせるものだった。こんな声が自分の口から出るんだと、律は他人事のように驚く。

「ああいう風に言われるの……私、嫌です」

 違う。こういうことを言いたいんじゃない。

 黒澤だって冗談のつもりで言ったのだ。そんなこと、分かりきっている。

「迷惑なんです」

 すぐに口を押さえるが、もう遅い。

 あれほど熱かった喉は完全に冷え切っていた。黒澤の横顔を見る。並んでいたはずなのに、黒澤は律より一歩前にいた。わずかな差が、大きな溝に思えた。

 謝ろうとするが、饒舌だった舌は役目を終えたとばかりに動こうとしなかった。

 後悔。そんな言葉じゃ表せないくらい、律は心臓を震わせていた。

「そうか」

 ようやく黒澤が口を開いた。初めて遭った時のような怒ったものではない。親しみを込められたあの声でもない。

 ただ、静かな声だった。

「悪かったな」

 そう言い残し、踵を返して黒澤は去って行った。すれ違う一瞬、その目が傷ついた色を浮かべているのが読み取れた。振り返り、遠くなっていく黒澤の背を見る。

 追いかけようと思えば、すぐに追いつく距離だ。しかし、律は動けない。

 影踏みの鬼に捕まってしまったように。

 黒澤の背が霞んでいく。それは自分の目に涙が溜まっているからだと気付いた時には、黒澤の姿は無かった。


 その後のテストは散々たる結果だった。唯一得意な古典ですら、空欄が目立った。それでも何とか赤点ギリギリだったのは、奇跡としか言いようが無い。

 あれから、黒澤には会っていない。

 二人をはやし立てる生徒達もいたが、やがてせまり来る夏休みを前にして一人、また一人と減っていった。

 蝉の声が本格的にうるさくなっても、律の耳には通り過ぎるだけだ。夏はこんなに冷たいものだったのかと、ぼんやりと疑問に思う。

 通知表に浮かれるクラスメイト達の声を聞きながら、律は中庭を見る。

 規則正しく並ぶ木々は青々とした葉達を、風になびかせている。花壇に咲くひまわりが、黒澤の顔を想いこさせた。

 ごめんなさい。

 口の中で呟くその言葉は、何て薄っぺらいものだろう。額を押さえ、目を閉じた。

「具合悪いの?」

 気遣う声に律は顔を上げた。いるはずのない『彼』を想って。

 目の前にいたのは、心配そうに自分を見る友人だった。

「保健室、行く? 着いていくよ」

「大丈夫だよ」

 そう笑って返すのでいっぱいだった。


 夏休みの予定を聞きあう生徒達をすり抜けて、律は校舎裏へと向かう。そして一本の木に近寄る。あの時の木だ。

 ゴツゴツした幹に触れ、そのまま木に足をかける。

 途中、何度も冷や汗をかきそうな目に遭いつつも、大降りな枝まで到達出来た。一息吐いて辺りを一望する。あの時は気付かなかったけど、結構いい景色だ。

 高く伸びる入道雲が青空に陣取り、太陽が白く空を照らしている。飛行機雲が風に揺れ、大きな空に広がっていく。

 何て綺麗なんだろう。

 『彼』にこのことを伝えたいと思った。

 一緒にこの空を眺めて、いろいろなことを喋りたい。雲の形が何に見えるかとか、風の強さとか、そんなくだらないことを。

 会いたい。謝りたい。また一緒に歩きたい。

 伝えたい。

 あなたがすきです。

 涙が出た。

 降りたら、黒澤を探そう。会って、謝ろう。たとえ許してくれなくても。

 幹に手を伸ばし、はたっと気付く。どうやって降りればいいのだろうか。

 よく考えたら木登りの経験なんか皆無に等しい。前回は落下と言う形で降りている。助けを呼ぼうにも携帯は鞄の中、木の下だ。

「誰か助けて!」

 叫んでも律の声がやまびこで返ってくるだけだ。もはや絶望的だ。

 美しく見えた空は暗くなり始めていた。それがさらに律の不安を大きくさせる。

 何度も助けを呼ぶ。誰でもいい。祈るような気持ちで、何度も何度も声を張り上げる。

 喉が嗄れても、誰一人として現れなかった。律があきらめかけた、その時。

「何してんだよ、お前」

 一番会いたいその人だった。

「黒澤先輩……」

「また木登りか? スカートで登るのは止めろよ」

 呆れたように言いつつも、その声は何処か優しい。それが嬉しくて、律はまた涙を流す。

「泣くなって、いいから早く降りろよ」

「降りられないんです」

 黒澤が律のいる木まで近づく。自分の鞄を律の物の隣に置き、両手を広げた。

「飛べ」

「でも……」

「大丈夫だ。来いっ」

 力強い声に励まされ、律は飛び降りた。一瞬で黒澤の腕の中に落ちる。わずか煙草の残り香に安心感を覚える。

「小野の呼び出しも無駄には出来ねぇな。おかげでお前を助けれたし」

 黒澤の大きな手が律の頭を撫でる。

 大きな胸にうずくまりながら律は泣く。噂を気にし過ぎた卑怯な自分が許せなかった。

「……ごめんなさい」

 謝罪の言葉を漏らすと、黒澤は苦笑した。

「いいって、気にしてねぇから」

 許しを貰っても律の気は治まらない。うわ言のように何度も何度も謝った。黒澤は律が落ち着くまで、抱きしめてくれた。

 腕の中は心地よくて、このまま体がとろけてしまいそうだ。自然に涙も渇く。それを見計らって、黒澤は言った。優しい声で。

「帰るか?」

「はい、先輩」

 涙と鼻水のせいで変な声が出た。黒澤はそれを笑う。取り出したハンカチで顔を拭きながら律も笑った。

 手を繋いで、一緒に歩き出す。

 沈みゆく夕日が、二人分の影を長く長く伸ばす。伸びた先で二つの影は一つの影になった。


                【了】

5年ほど前に、初めて書いた恋愛小説です。

読み返すと展開が急だなぁと思います。


読んでくださって、本当にありがとうございました。

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[良い点] 不良先輩とおせっかいな後輩という二人の立場はありがちなのに、物語のキーポイントになるものが主人公のおせっかいな性格だけではなかったこと。 冒頭と最後のシーンが重なるように展開されていつつ…
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