「あなたは妹の後でいいわね」と母が言うので、結婚は先に済ませておきました
「あなたの誕生日は、セシリーの後でいいわね」
母は朝食の卓で、妹のドレスの見本布を光にかざしながらそう言った。
「今日はドレイトン伯爵夫人がお見えになるの。セシリーのお話が先よ。分かるでしょう、ヘイゼル」
「はい、お母様」
私は紅茶を注ぎながら、いつもの返事をした。
(後で、は来ない。知ってる)
母の「後でね」は、私が物心ついたころから、一度も来たことがない。
私の部屋の窓の掛け金は、壊れてから何度目かの冬を越した。「後で直させるわ」と言われたきり、今も紐で縛ってある。妹の部屋は季節ごとに壁紙が替わる。誕生日のケーキは、私の分が焼かれたことがない。妹のお茶会で残った焼き菓子が、翌日になって「あなたのお祝いにどうぞ」と回ってきたことなら、ある。
妹のセシリーは、生まれてしばらく体が弱かった。母はつきっきりで看病し、それ以来、何でもセシリーが先になった。セシリーはとっくに丈夫になって、今は向かいの席で蜂蜜をたっぷり塗ったパンを頬張っているけれど、順番だけは元に戻らなかった。
「お母様、見本はこっちの白がいいわ。すみれ色の飾りをつけて」
「ええ、ええ。セシリーにはやっぱり白ね」
父は新聞の陰から、私のほうを見ずに言った。
「ヘイゼル。肉屋の払いを頼む。それと、宴の客の名簿もな」
家令に暇を出してから、家の帳簿と使用人の差配は私の仕事になっている。頼まれた覚えはないけれど、気づいたら、それがこの家の決まりになっていた。払いを頼むときだけは、父は「後で」と言わない。
母の目は、見本布と妹の間を行ったり来たりしている。私は空になった妹のカップに、また紅茶を注いだ。
今日で、私は二十一歳になる。
この国では、二十一歳で成人する。自分の名前で約束を結べるようになり、親の同意がなくても結婚できるようになる。昨日までの私は、何をするにも父か母の「よろしい」が要った。そして「よろしい」は、いつも「後で」の向こうにあった。
紅茶のポットを置いたとき、ふと思った。
(来ないものを、いつまで待っているんだろう)
二十一歳になった朝にまで「後で」と言われたのだ。この先も、きっと同じだ。
だったら、待つのはやめにしよう。「後で」と言われたことは、待たずに、自分で先に済ませておけばいい。
「お母様。では私、誕生日は先に済ませてまいります」
「ええ、ええ、そうしてちょうだい。セシリー、袖はどうする? 膨らませる?」
聞いていない。けれど、許しはいただいた。
私は台所へ下りて、午後のお茶の支度を整えた。伯爵夫人にお出しする茶葉を量り、焼き菓子の皿を決め、客間の花を替える。私が出かけたせいで支度ができていなかった、とは言わせない。済ませるべきことを先に済ませるのは、私の得意なことなのだ。
「お嬢様、市場へ出ますけど」
料理番のドーラが、籠を腕に掛けて顔を出した。私が小さいころから、この家の台所を預かっている人だ。
「ご一緒してもいい?」
「もちろんですとも。……お嬢様、今日はお誕生日でしょう」
ドーラだけは、毎年覚えている。
「ええ。だから、先に済ませに行くの」
ドーラは一瞬きょとんとしてから、にやりと笑った。
「そりゃあいい。行くなら今のうちですよ」
* * *
店の通りの菓子屋で、私は小さな丸いケーキを一つ買った。木苺のジャムを挟んで、上に粉砂糖をふったものだ。財布の中身はずいぶん寂しくなったけれど、自分で選んだケーキを自分で包んでもらうのは、生まれて初めてだった。
それから、屋敷の向かいの角へ渡る。
ベル書房は、本屋と貸本屋を兼ねた小さな店だ。私は少女のころから貸本の会員で、母に「後でね」と言われるたびに、ここへ来て待った。窓際の椅子に座ると、通りの向こうに屋敷の玄関が見える。「後で」が来たらすぐに戻れるように。来たことは、なかったけれど。
いつだったか、冬の夕方に「後でね」と言われて、日が落ちてもこの席に座っていたことがある。閉店の札を掛けに来たナサニエルは、何も聞かずに、私の前に熱い紅茶を一杯置いた。
「お先にどうぞ。僕は帳簿をつけてから飲みますので」
帳場には、空のカップも、ポットもなかった。彼が自分のために淹れた一杯だったのだと気づいたのは、飲み終えてからだった。
扉を開けようとすると、内側から先に開いた。
「お先にどうぞ」
店主のナサニエル・ベルが、扉を押さえて立っていた。癖のある黒髪がいつものように少し跳ねていて、丸い眼鏡の奥の焦げ茶の目が、私を見て瞬いた。
「ヘイゼルさん。……今日、ですか」
「今日です」
「今年は、当日に来てくださったんですね」
ナサニエルは、私の誕生日を覚えている。毎年、何日か遅れてこの店に来ると、「遅くなりましたが」と言って、何かを一つ差し出してくれた。私が当日に来られたためしがないことも、たぶん知っている。
「お待ちください。取っておいたものがあるんです」
ナサニエルは帳場の奥へ入り、紙に包んだ本を一冊持って戻ってきた。私の好きな作家の、出たばかりの新刊だった。
「棚に出す前の一晩、ヘイゼルさんに先に読んでもらおうと思って。……いつもそうしているので、今年も」
知っていた。新刊が出るたびに、私は誰より先にそれを読んでいた。棚に並ぶ前に、ナサニエルが一晩だけ貸してくれるからだ。この店の中でだけ、私はずっと一番だった。
「どうして、今日は?」
「今朝、決めたんです。後でと言われたことは、待たずに先に済ませておこうって。誕生日も、後でと言われたので」
ナサニエルは、眼鏡の奥で何度か瞬きをした。
「……それは、いい決まりですね」
「そう思われます?」
「ええ。僕も、見習わないといけない」
何を見習うのかは、言わなかった。
「あら、ヘイゼルさん。いらっしゃい」
階段の上から、ナサニエルの姉のハリエットさんが顔を出した。夫を亡くしてから、弟の店を手伝っている人だ。
「ケーキ? まあ、自分で買ってきたの? ナサニエル、皿。それとナイフ。早く」
「今、出すよ」
「出すのが遅いのよ、あんたは何でも」
ハリエットさんに急かされて、ナサニエルが皿を並べた。窓際の小さな卓で、私たちはケーキを切り分けた。
「ドレイトン伯爵夫人のお屋敷にも、今日の午後に新刊を届けるのよ」
ハリエットさんが粉砂糖のついた指を舐めながら言った。
「あちらの奥様、うちの会員でね。本の選び方にはうるさいけど、いい方よ」
「今日、うちにお見えになるんです。妹の縁談で」
「あら」
ハリエットさんはそれ以上言わず、弟の顔をちらりと見た。ナサニエルはケーキを口に運ぶ手を止めて、窓の外の屋敷を見ていた。
「ヘイゼルさん。あの」
「はい」
「……いえ。お誕生日、おめでとうございます」
言いかけたことを、ナサニエルは飲み込んだ。私も、何かを言いかけてやめた。ずっとそうだった。この窓際の席で、私たちは何度も何かを言いかけて、「また今度」にしてきた。
ケーキは、甘酸っぱくておいしかった。
* * *
屋敷に戻ると、玄関の広間でセシリーが私の袖に目を留めた。
「お姉様、袖に白い粉がついてる。粉砂糖? ケーキを食べたの? 私の分は?」
ケーキは、もうない。ベル書房の窓際で、きれいに切り分けて食べてしまった。
「ヘイゼル、どこへ行っていたの」
母が奥から出てきた。
「誕生日は後で、と言ったでしょう」
「ええ。ですから、先に済ませてまいりました」
母は、少し考える顔をした。何を済ませたのか、聞くかと思った。
「あら、そう。手間が省けたわ」
母はそれだけ言って、セシリーの髪のリボンを結び直しに戻っていった。セシリーは私の袖の粉砂糖を見て、つまらなそうに唇を尖らせた。
(手間、か)
私の誕生日は、この家では手間だったらしい。
* * *
午後、ドレイトン伯爵夫人が、嫡男のライオネル様を伴っておいでになった。
灰色の髪を高く結った、背筋の伸びた方だった。濃い葡萄色のドレスに、閉じた扇。客間の長椅子に腰を下ろすと、部屋の中をひと通り見て回るような目をした。
「ヘイゼル、お茶を」
母が私に言い、それから小声で付け足した。
「あなたの紹介は後でね」
私は茶器の前に立った。午前中に量っておいた茶葉で、紅茶を淹れる。伯爵夫人、ライオネル様、父、母、セシリーの順に注いでいく。セシリーは白いドレスでライオネル様の正面に座り、刺繍の話をしていた。ライオネル様は頷きながら、セシリーの巻き毛ばかり見ている。
伯爵夫人が、カップを受け取りながら私を見上げた。
「そちらのお嬢さんは?」
「ああ、それは後ほど――」
母が言いかけた。
後ほど、が来ないのは知っている。だから私は、母の言葉の終わるのを待たなかった。
「長女のヘイゼルでございます。紹介は後でとのことでしたので、先に自分で」
膝を折って礼をした。母の扇が、ぴしりと閉じた。
伯爵夫人は、紅茶に口をつけずに私を見た。
「長女。……お茶を注いでいらっしゃるから、わたくし、てっきり」
「この子は家のことが好きなものですから」
母が笑顔のまま、早口で言った。
「そう」
伯爵夫人はようやく紅茶を一口飲んだ。
「おいしいお茶ね。淹れ方を心得ている方の味だわ。茶葉はどなたが?」
「私が選んでおります。家の帳簿をお預かりしておりますので」
「帳簿を。長女のお嬢様が」
「家令がおりませんので、この子が好きでやっておりますの」
母がまた早口で言った。伯爵夫人は母のほうを見ずに、ふうん、とだけ言った。
それから、扇の先を父のほうへ向けた。
「クレイン子爵。姉君のご縁談は、どうなっておいでなの? 妹さんが先というのは、王都では少し、ね」
王都の社交界では、姉より先に妹が縁づくと、姉に何か障りがあるのではと噂になる。伯爵夫人は、跡継ぎの嫁の家に噂の種がないかを確かめに来たのだ。
父は、少しも慌てなかった。
「長女の縁談は、もう決まっております。披露はセシリーの宴で、セシリーの後に」
(……決まって、いる?)
初耳だった。
私は茶器を持ったまま、父の横顔を見た。父は伯爵夫人に向かって、満足そうに頷いていた。セシリーが口元を手で隠して、くすりと笑った。
「それなら、結構ですわ」
伯爵夫人はそう言ったけれど、目は私の手元のポットに留まったままだった。
* * *
その晩、私は父の書斎に呼ばれた。
「お前の相手は、グリムショー男爵だ」
父は机の上の書類から目を上げずに言った。
グリムショー男爵の名前は知っている。羊毛で財を成した方で、奥様を亡くされてから何年か経つ。父よりも年上の方だ。
「男爵は、家の切り盛りを任せられる落ち着いた奥方を探しておられた。お前なら申し分ないとお伝えしたら、たいそう喜ばれてな。支度金も、もう頂いている」
「支度金、ですか」
「セシリーの婚約披露の宴は来週だ。そこで、セシリーの後に、お前の分も発表する。伯爵夫人もああ仰っていたことだし、ちょうどいい」
うちの爵位と屋敷は、いずれ父の甥にあたる従兄が継ぐ。息子のいない家は、娘の縁談で先行きを立てるしかない。セシリーは伯爵家へ。私は、支度金を払ってくださる男爵家へ。父の頭の中では、もうきれいに片づいているのだろう。
私は一度、はっきり言った。
「お父様。私は、承知した覚えがございません」
父は、ようやく顔を上げた。
「承知は後でいい」
それで話は終わった、という顔だった。
書斎の戸口で、母が私の肩に手を置いた。
「男爵様はお優しい方よ。お年は少し上だけれど、何不自由ない暮らしができるわ。それにね、おかげでセシリーのドレスも、ちゃんとした仕立て屋に頼めたの」
母は、嬉しそうにそう言った。
朝、見本布をかざしていた白絹。すみれ色の飾り。あれは、私の支度金で仕立てるのだ。
廊下に出ると、セシリーが階段の手すりにもたれて待っていた。
「聞いちゃった。お姉様の旦那様、お父様よりお年上なんですって」
セシリーは楽しそうに笑った。
「お姉様は後でいいって、こういうことだったのね。でも、お金持ちなんでしょう? よかったじゃない。私のドレスも作れたし」
私は何も言わずに、妹の横を通り過ぎた。
自分の部屋に戻って、紐で縛った窓の前に立った。
通りの向こう、ベル書房の二階に、まだ灯りがついている。ナサニエルが、遅くまで帳簿をつけているのだろう。
(承知は後でいい、か)
私の誕生日も、私の紹介も、私の縁談も、とうとう私の承知まで、この家では「後で」なのだ。
そして、気づいた。
私自身も、同じことをしてきた。あの窓際の席で言いかけてやめた言葉を、私は何年も「また今度」にしてきた。自分の気持ちまで、自分で後回しにしていた。
父が私の承知を後回しにするのなら、私はもう、自分の気持ちを後回しにしない。
縛った紐の結び目を、私は指でなぞった。
* * *
翌朝、店が開く前に、私はベル書房の扉を叩いた。
扉を開けたナサニエルは、まだ上着も着ていなかった。
「ヘイゼルさん? どうしました、こんなに早く」
「お話があって参りました。少しお時間をいただけますか」
窓際の椅子に座るよう勧められたけれど、私は立ったままでいた。座ったら、また言いかけてやめてしまいそうだったからだ。
「ナサニエル様。私と結婚してくださいませんか。できれば、先に」
ナサニエルは、固まった。
「……先に」
「はい」
「何より、先に」
「父が、私の縁談を来週の宴で発表するそうなんです。グリムショー男爵と。私は何も聞いていませんでした。承知は後でいいと言われました」
私は、昨夜のことを全部話した。伯爵夫人の前で決まっていると言われたこと。支度金のこと。それがセシリーのドレスになったこと。
「昨日で、私は二十一になりました。この国では、自分で結婚を決められる歳です。……でも、男爵様から逃げるためだけに、こんなお願いをしているのではありません」
声が少し震えたけれど、ここでやめたら、また「また今度」になる。
「ずっと、言いかけてやめていました。この窓の席で、何度も。私は自分の気持ちまで後回しにしてきたんです。それも、もうやめにしたいと思いました」
ナサニエルは、長いこと黙っていた。
それから、何も言わずに帳場へ歩いていき、一番下の引き出しを開けた。中から、封をした手紙を一通取り出して、私の前に差し出した。
宛名は、私だった。
「ずいぶん前に書いたものです」
「ヘイゼルさんが二十一になったら、出そうと思っていたんです。子爵家のご長女に、男爵家の三男で本屋の僕が今申し込んでも、お父上に断られるだけだと分かっていたので。……いつか、と思って、しまっておいた。昨日、お渡しするつもりでした。言いかけて、また飲み込んでしまいましたが」
ナサニエルは、困ったように眼鏡を押し上げた。
「読んでも、よろしいですか」
「それは、後で――」
言いかけて、ナサニエルは口をつぐんだ。それから、首を横に振った。
「……いえ。どうぞ、今」
封を切ると、几帳面な字が並んでいた。最初の一行だけ読んで、私は手紙を胸に当てた。
ヘイゼル・クレイン様。お先にどうぞと言うのは、これでやめにします。
「人には先を譲ってばかりで、これだけは自分が先に言うつもりでいたのに。……先を越されました」
「お返事は」
「もちろん、お受けします。喜んで」
ナサニエルの手は、インクの染みのついた指先まで少し震えていた。私はその手を、自分から取った。
「それなら、今日のうちに神殿へ参りましょう。後でにすると、また来ないので」
「……ええ。そうしましょう」
ナサニエルが、ようやく笑った。
階段の上で、誰かが盛大に鼻をすする音がした。
「立会人、要るでしょう。私がなるわ」
ハリエットさんが、寝間着の上にショールを巻いて立っていた。
「ずっと引き出しにしまってたのよ、この子。私、毎年ハラハラしてたんだから」
「姉さん」
「もう一人は?」
「ドーラに頼みます。うちの料理番です」
ドーラなら、二つ返事で引き受けてくれるだろう。
* * *
神殿の書記局は、朝から静かだった。
年配の書記が、私たちの差し出した申し出の書き付けを読み、眼鏡越しに私を見た。
「ご両親の同意書は……いえ、二十一におなりですね。では、ご本人のお名前で結構です」
私は、自分の名前を書いた。ヘイゼル・クレイン。何かの書き付けに、誰の許しもなく自分の名前を書いたのは、初めてだった。
「生まれの記録で、お二人のお歳を照らします。許可状は、七日の後にお出しします」
七日。指を折って数えるまでもなかった。セシリーの婚約披露の宴の、ちょうど朝だ。
「手数料は、こちらで」
ナサニエルが財布を出そうとしたので、私は先に、自分の財布から銀貨を一枚出して書記の前に置いた。少しずつ貯めてきた小遣いの、最後の一枚だった。
「これは、私が済ませたいので」
ナサニエルは何か言いかけて、それから、ただ笑って頷いた。
* * *
七日の後、宴の朝。
屋敷は朝から、セシリーの支度でかかりきりだった。仕立て屋が白絹のドレスを届けに来て、髪結いが呼ばれ、母は妹の部屋とその隣の衣装部屋を行ったり来たりしている。
廊下ですれ違ったとき、母は私に言った。
「あなたの支度は後でね。セシリーが先よ」
「はい、お母様」
支度なら、もう済んでいる。広間の席の札は昨夜のうちに並べ終え、料理の順はドーラと決めてあり、花屋には昼過ぎに届けるよう頼んである。台所の仕込みも、ドーラが半日抜けても回るように、手伝いたちに割り振ってある。残っているのは、届いた花を活けることと、宴の給仕の指図だけだ。
私はドーラと一緒に、台所の裏口から出た。
神殿の小さな礼拝堂で、ナサニエルとハリエットさんが待っていた。ナサニエルは、いつもの茶の上着ではなく、紺の上着を着ていた。袖口のインクの染みだけは、いつもどおりだった。
神官の前で、私たちは誓いの言葉を述べた。誓いは短く、言い終えるまで、誰も「後で」とは言わなかった。
ナサニエルは、決まりの誓いの最後に、小さな声で一言だけ足した。
「……今日からは、先も後もなく、隣で」
神官が咳払いを一つして、決まりにない一行を聞かなかったことにしてくれた。ハリエットさんが、後ろでまた盛大に鼻をすすった。
婚姻の台帳に、ナサニエルが名前を書き、私が名前を書いた。立会人の欄に、ハリエットさんとドーラが続けた。ドーラは字を書くのが遅いので、自分の名前を一字ずつ丁寧に書いた。
「お二人に、良い日々を」
書記が、台帳の写しの証書を私に手渡した。
「これで、お嬢様の『後で』はおしまいですね」
ドーラが、鼻の頭を赤くして言った。私は証書を丁寧に畳んで、袖の内にしまった。
「宴が終わるころに、迎えに行きます」
礼拝堂を出たところで、ナサニエルが言った。
「荷物は、もう?」
「トランク一つにまとめてあります。持っていくものは、多くないので」
「では、それも一緒に」
ナサニエルはしばらく私を見ていたが、やがて、そっと私の手を握った。
「本当に、今日戻るんですか。宴なんて、出なくても」
「最後の段取りが残っています。それに、今日のことは、自分で済ませたいんです」
屋敷に戻ったのは昼前だった。裏口から入ると、台所では料理番の手伝いたちが鍋をかき回していて、母はまだ衣装部屋にいた。ドーラが台所に入ると、手伝いたちが「ちょうどよかった」と声を上げた。私のトランクは、ドーラが昼の買い出しのついでに、向かいの店へ運んでおいてくれることになっている。
昼過ぎに花屋が来て、私が広間で花を活けていると、母が通りかかった。
「花はそこでいいわ。ヘイゼル、あなた、朝はどこにいたの? 髪結いにお茶を出してほしかったのに、探したらいないんだもの」
「少し、神殿へ」
「そう。お祈りなら後でもいいでしょうに」
母はそれ以上聞かずに、衣装部屋へ戻っていった。
(お祈りでは、ないのだけれど)
私は、最後の花を花瓶に挿した。
* * *
夕方、広間に灯りが入り、客が集まった。
ドレイトン伯爵夫人とライオネル様。父の古い友人たち。母の親しい奥方たち。それから、白い頬ひげの、羊毛の厚い外套を着た年配の紳士。グリムショー男爵だった。
セシリーは白絹のドレスで階段を下りてきた。すみれ色の飾りが、灯りの下できらきらと光った。客たちから溜め息が漏れ、母が誇らしげに胸を張った。
私はいつもの水色の昼の服のまま、広間の隅で給仕の指図をしていた。
乾杯の杯が配られると、父が広間の真ん中に立った。
「皆様。本日は、次女セシリーと、ドレイトン伯爵家のライオネル殿の婚約を披露いたします」
拍手が起こる。ライオネル様がセシリーの手を取った。伯爵夫人は杯を上げたけれど、その目は、広間の隅の私のほうへ一度向いた。
「それから、もう一つ」
父が杯を掲げたまま、続けた。
「長女ヘイゼルも、こちらのグリムショー男爵と――」
「お父様」
私は、父の言葉の終わるのを待たなかった。
「その件でしたら、もう済ませました」
広間が静まった。
私は前へ出て、袖の内に入れておいた証書を広げて見せた。
「今朝、神殿で結婚してまいりました。ベル書房の、ナサニエル・ベルと」
父の杯が、宙で止まった。
「……何を、言っている」
「お父様が、承知は後でいいと仰ったので。私のほうは、先に済ませておきました」
ざわめきが、広間の端から端へ広がった。
「長女のお嬢さんは、ご存じなかったの?」
「ほら、先ほどから給仕の指図をなさっていた方よ」
奥方たちの囁きが、私の耳にまで届いた。母の顔から、血の気が引いていくのが見えた。
「ば、馬鹿を言うな。親の同意のない結婚など――」
「クレイン子爵」
低い声が、父の言葉を切った。ドレイトン伯爵夫人だった。閉じた扇を、膝の上に立てている。
「お嬢様は、二十一を過ぎておいででしょう。同意は要りませんわ」
父が口を開けたまま、言葉を失った。それから、かすれた声で言った。
「……台帳など、神殿に掛け合えば」
「神殿の台帳を書き換えさせるおつもり?」
伯爵夫人の扇が、ぱちりと鳴った。
「それこそ、王都じゅうの噂になりますわよ」
グリムショー男爵が、ゆっくりと前へ出てきた。男爵は父ではなく、私のほうを見た。
「お嬢さん。一つ、お尋ねしてよろしいか」
「はい」
「私は子爵から、ご本人も喜んで承知しておられると伺った。だから支度金をお贈りしたのです。……あなたは、このお話をご存じでしたか」
「伯爵夫人がお見えになった晩に、父から聞かされました。承知した覚えはないと申しましたら、承知は後でいいと」
男爵は、長いこと私の顔を見ていた。それから、深く息を吐いた。
「そうですか。……無理強いをする気は、はじめからありませんでした。子爵からは、家の切り盛りの上手なお嬢さんだと伺いました。ですが、家の者なら足りております。私が欲しかったのは、承知して来てくださる方でした」
男爵は、白い頬ひげの下で少しだけ笑った。
「おめでとうございます、お嬢さん。いや、もうベル夫人ですな」
男爵は私に向かって軽く頭を下げ、それから父に向き直った。穏やかな顔のまま、声だけが硬くなった。
「子爵。支度金は、返していただきます」
父の顔が、母のほうを向いた。母の目が、セシリーのドレスのほうへ泳いだ。
その目の動きを、伯爵夫人は見逃さなかった。
「そのドレス」
伯爵夫人が、扇の先でセシリーの白絹を指した。
「仕立ておろしね。よくお似合いだわ。……いつ、何で、お仕立てになったの?」
母は答えなかった。答えられなかったのだ。その沈黙が、広間じゅうに答えを知らせた。
セシリーが、自分のドレスを見下ろした。それから母を見て、父を見て、最後に私を見た。
伯爵夫人は、杯を卓に置いた。
「ライオネルとのお話は、少し後で、改めましょう」
「お母様?」
ライオネル様が戸惑った声を出したが、伯爵夫人は息子を見もしなかった。
「後で……って」
セシリーが、母の袖を引いた。
「後でって、いつ? ねえ、お母様、いつなの?」
母は、答えなかった。セシリーは今度は私のほうを向いて、泣きそうな顔で言った。
「お姉様、ずるい。お姉様ばっかり、先に」
「ずるくないわ、セシリー。私は、自分の分を済ませただけ」
(後では、たいてい来ないのよ。セシリー)
そのとき、広間の戸口で、取次の従僕が客の名を告げた。
「ベル書房の、ナサニエル・ベル様がお見えです」
紺の上着のナサニエルが、戸口に立っていた。後ろの辻馬車に、ドーラが店へ運んでおいてくれた私のトランクが積んであるのが見えた。宴が終わるには、まだ早い。約束の刻限まで、待っていられなかったのだろう。
伯爵夫人が、ナサニエルを見て眉を上げた。
「まあ。ベル書房の。……あなたでしたの」
「いつもご贔屓に、奥様」
ナサニエルは、戸口で丁寧に頭を下げた。
「確か、ベル男爵家のご子息でしたわね。あの店の本の選び方は、確かよ」
伯爵夫人は、それだけ言った。
「ヘイゼル」
母が、ようやく声を出した。
「ヘイゼル、待ちなさい。話は、後で」
私は、母のほうを向いて膝を折った。この家で覚えた礼のうちで、一番きれいなものを。
「お先に失礼いたします」
そうして、ナサニエルの差し出した腕に手を添えた。
広間を出るとき、背中に誰の声もかからなかった。私は生まれて初めて、この家の誰よりも先に、扉をくぐった。
* * *
それから、ひと月ほどのことを、少しだけ。
父は支度金を返すために、馬車と馬を手放した。セシリーの白絹のドレスは、仕立て屋に引き取ってもらったそうだ。ドレイトン伯爵家からの「後で」は、まだ来ていない。たぶん、来ないだろう。王都の奥方たちのあいだでは、しばらく、長女を承知もなく嫁がせようとした子爵家の話で持ちきりだったらしい。
屋敷の帳簿と使用人の差配は、私が出たその週から回らなくなった。母から手紙が来た。
ヘイゼル、帰ってきて手伝ってちょうだい。帳簿のどこに何が書いてあるのか、誰にも分からないの。セシリーも寂しがっています。あなたのことは、落ち着いたら、後でゆっくり話しましょう。
最後の一行を読んで、私は少しだけ笑ってしまった。
私は帰らなかった。代わりに、帳簿のつけ方と、出入りの商人の支払いの日を書き付けにまとめて、送った。差出人の欄には、ヘイゼル・ベルと書いた。
ドレイトン伯爵夫人は、今もベル書房の会員でいる。たまに自分で店へ来て、窓際の席で私にお茶を淹れさせ、新刊の品定めをしていく。
「あなたのお茶は、注ぐ順番を間違えないから」
何が正しい順番なのかは、教えてくださらない。たぶん、聞かなくても分かるでしょう、ということなのだろう。
一度だけ、セシリーがベル書房に来た。屋敷にいても誰も訪ねてこないので、本でも読もうと思ったらしい。人気の新刊を借りたいと言うので、ハリエットさんが予約の帳面を見せた。
「順番に貸しておりますので、少し後になりますね」
セシリーは、何とも言えない顔で帳面を見つめていた。私は帳場の奥で、それを黙って見ていた。
* * *
翌年の、私の誕生日の朝。
ベル書房の二階で目を覚ますと、隣はもう空だった。階段を下りていくと、店の窓際の小さな卓に、白い布が掛かっていた。木苺のジャムを挟んだ丸いケーキと、紙に包んだ本が一冊。ハリエットさんが、皿を並べているところだった。
「おはようございます。……もう、支度が?」
ナサニエルが、ナイフを手に振り向いた。眼鏡の奥の目が、少し得意そうだった。
「ええ。済ませておきました」
それから、私のために椅子を引いて言った。
「今日は、君の番だ」
お読みいただきありがとうございます。「後で」を待つのをやめたヘイゼルの、最初の一年でした。ブックマークと、下の☆☆☆☆☆での評価で応援していただけると嬉しいです。




