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竜に生贄として捧げられましたが、寝かしつけが得意だったので雇用されました

作者: くるみ
掲載日:2026/07/11

 村の広場で、私は生贄に選ばれた。


「ノエ。おまえが竜の山へ行くのだ」


 村長は重々しい声でそう告げた。

 広場に集まった村人たちは、誰も私と目を合わせなかった。


 春になっても雨が降らず、畑はひび割れ、井戸の水は日に日に減っていた。

 村では昔から、こういう時には竜へ生贄を捧げることになっている。


 竜は山の奥に棲む恐ろしい存在で、人を食べ、炎を吐き、怒れば村を焼き尽くす。

 そう言い伝えられてきた。


 だから、村人たちは私を選んだ。

 両親がもういないから。

 弟や妹たちを養うために、いつも黙って働いていたから。

 文句を言わなそうだから。


 きっと、そんなところだろう。


「これは村のためだ」


 村長は言った。


「おまえの犠牲を、皆が忘れぬ」


 忘れぬと言うなら、まず私の弟たちに食べ物をください。

 そう言いたかったけれど、言葉は喉の奥で止まった。

 私がここで逆らえば、次に選ばれるのは、まだ十歳の弟かもしれない。

 それだけは嫌だった。


「わかりました」


 私は静かに答えた。

 村長は、ほっとしたような顔をした。

 その顔を見て、私は少しだけ腹が立った。


 犠牲を惜しむふりをしながら、安心しないでほしい。


     *


 その夜、私は弟たちの寝顔を見てから家を出た。

 村人たちは、私に白い服を着せ、少しばかりのパンと水を持たせた。

 それから、竜の山へ続く道の入り口まで連れて行き、そこで私を置いて帰った。

 誰も最後まで付き添わなかった。


 月の光だけが、白い道を照らしている。

 私はパンの入った袋を抱え、山道を登った。


 怖くないと言えば嘘になる。

 足は震えていたし、喉は乾いていた。

 それでも、不思議と涙は出なかった。


 弟たちを寝かしつけている時に、泣かないと決めた。

 泣くと、小さな子どもは余計に不安になるから。


 母が亡くなってから、私はずっと弟たちの世話をしてきた。

 夜泣きする末妹を抱き、熱を出した弟の背をさすり、怖い夢を見た子には古い子守歌を歌った。

 私にできることは、それくらいだった。

 だから、私は寝かしつけだけは得意だった。


 ただし、その特技が竜相手に役立つとは思っていなかった。


     *


 竜の棲む洞窟は、山の頂にあった。

 入口は、教会よりも大きい。

 中からは熱い風が吹き出していて、硫黄のような匂いがした。

 私は白い服の裾を握りしめ、そっと中へ入った。

 奥へ進むと、巨大な影が見えた。


 黒い鱗。

 鋭い爪。

 太い尾。

 そして、金色の目。

 竜だ。


 私は思わず息を呑んだ。

 竜は、ゆっくりとこちらを向いた。


「また、人間か」


 低い声が洞窟に響いた。

 私は膝から崩れそうになったが、なんとか踏みとどまった。


「生贄として参りました。ノエと申します」


「生贄」


 竜は面倒そうに目を細めた。


「いらぬ」


「……はい?」


「食わぬ。帰れ」


 私は聞き間違えたのかと思った。

 恐ろしい竜に食べられる覚悟で来たのに、最初に言われたのが「帰れ」だったからだ。


「ですが、村では、竜様に生贄を捧げないと雨が降らないと」


「雨など私の機嫌では降らぬ」


「そうなのですか」


「ああ、そうだ」


 竜は大きなあくびをした。

 その瞬間、洞窟の天井がびりびり震えた。

 私は思わず耳を押さえる。


 よく見ると、竜の目の下には濃い影があった。

 鱗も少し艶がない。

 尾の先は苛立ったように床を叩いている。


 これは。

 恐ろしい竜というより。


「竜様」


「何だ」


「もしかして、眠れていないのですか」


 竜の尾が止まった。

 金色の目が、ぎろりと私を見る。


「……なぜわかる」


「目の下が、ひどいことになっています」


「人間に言われたくない」


「すみません」


 私は反射的に謝った。

 けれど、気になって仕方がない。

 この竜、ものすごく眠そうだ。


「どのくらい眠れていないのですか」


「三百年ほど」


「三百年」


 私は思わず復唱した。


 三百年。

 寝不足という言葉で済ませていい長さではない。


「目を閉じても眠れぬ。眠りかけると、昔のことを思い出す。人間が来る。叫ぶ。祈る。泣く。面倒でならぬ」


「もしかして、これまでの生贄の方々も」


「食っていない。皆、麓まで帰した」


「では、村の言い伝えは」


「勝手に作ったのだろう」


 竜は不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 熱い風が吹き、私の前髪が持ち上がる。

 私は少し考えた。


 食べられない。

 帰っていい。

 けれど、帰ったところで村が私を歓迎するとは思えない。

 生贄として出した人間が戻れば、村人たちは困るだろう。


 それに、竜が眠れていないというのも気になった。

 私は、眠れない人を見ると放っておけない。


「竜様」


「今度は何だ」


「寝かしつけを試してみてもよろしいでしょうか」


「寝かしつけ?」


「はい。私は弟や妹を寝かしつけるのが得意です」


 竜は、しばらく無言で私を見下ろした。

 それから、低く笑った。


「人間の娘が、竜を寝かしつけると?」


「はい」


「できるものなら、やってみるがいい」


 その声には、完全に馬鹿にした響きがあった。

 私は少しだけむっとした。


 寝かしつけを甘く見ないでいただきたい。


     *


 まず、洞窟の環境がよくなかった。


 暑すぎる。

 岩肌が硬すぎる。

 炎の魔力が強すぎて、空気が乾いている。

 こんなところで眠れるわけがない。


「竜様、寝床を整えましょう」


「寝床?」


「この岩の上で三百年眠れなかったのなら、まず場所を変えたほうがいいです」


「私は竜だぞ」


「竜でも眠れないものは眠れません」


 私は洞窟の奥を見回した。

 幸い、竜の財宝らしきものが山のように積まれている。

 金貨、宝石、古い布、絨毯、どこかの王冠。

 その中から、比較的柔らかそうな絨毯を何枚か選び、竜の近くに広げた。


「それは百年前に滅びた王国の宝物だ」


「では、よく眠れるよう使いましょう」


「宝物を敷物にするな」


「眠れないよりいいです」


 竜は何か言いたげだったが、反論はしなかった。

 次に、私は持っていた水を小さな器に移し、洞窟の入口近くに置いた。


「空気が乾きすぎています」


「水などすぐ蒸発する」


「なら、竜様は少し炎を抑えてください」


「私に命令するのか」


「お願いです」


「……ふん」


 竜は不満そうに鼻を鳴らした。

 けれど、洞窟の熱は少しだけ和らいだ。

 最後に、私は竜の前に座った。


「では、目を閉じてください」


「閉じても眠れぬと言った」


「眠ろうとしなくていいです」


「何?」


「眠らなくていいので、目だけ閉じてください」


 弟たちにもよく言っていた言葉だ。

 眠れない時に、眠らなければと思うほど眠れなくなる。

 だからまず、眠ることを諦める。


 目を閉じて、息をするだけでいい。

 竜は疑わしげに私を見たが、やがて大きな目を閉じた。


 私は、小さく子守歌を歌い始めた。

 母が歌っていた古い歌だ。


 雨の夜に、羊が丘を越えて帰ってくる歌。

 灯りのともる家へ、子どもたちが戻ってくる歌。

 何度も何度も、弟たちに歌ってきた歌。


 洞窟の中に、私の声が静かに響いた。


 最初、竜の尾は落ち着きなく床を叩いていた。

 けれど、少しずつ動きが遅くなる。

 鼻から漏れる息が、長くなる。

 大きな翼が、力を抜いて床に沈む。


 私は歌い続けた。


 すると。

 ごう、と低い音がした。

 炎かと思って身構えたが、違った。

 寝息だった。


 竜が眠っていた。


「……本当に寝た」


 私は小さくつぶやいた。

 三百年眠れなかった竜は、古い絨毯の上で、まるで大きな子どものように眠っていた。


     *


 竜が目を覚ましたのは、三日後だった。

 私はその間、洞窟の端で丸くなって過ごしていた。

 食べ物は、持ってきたパンを少しずつ食べた。

 水は、洞窟の奥から湧き出している泉を見つけた。


 竜は、目を開けるなり言った。


「どのくらい目を閉じていた」


「三日しか経っていません」


「三日」


 竜はゆっくりと体を起こした。

 洞窟全体が揺れる。


「三日も眠ったのか」


「はい」


「……体が軽い」


 竜は自分の翼を見て、尾を見て、目を瞬かせた。

 それから、金色の目で私を見た。


「人間の娘」


「ノエです」


「ノエ」


 竜は少し間を置いて言った。


「雇う」


「はい?」


「私の睡眠管理係として、雇う」


 生贄として来たのに、雇用された。

 理解が追いつかない。


「給金は」


 竜は財宝の山を尾で示した。


「好きなだけ持っていけ」


「多すぎます」


「では、適当に決めろ」


「労働時間は」


「私が眠るまで」


「休みは」


「必要なのか」


「必要です」


「では、七日に二日」


「食事は」


「財宝で買え」


「竜様、雇用の概念がだいぶ雑です」


 竜は不服そうに目を細めた。


「人間は面倒だな」


「働くには条件が必要です」


「ならば、書け」


 竜は爪で岩壁を示した。


「契約を結ぶ」


 私は少し考えた。

 村に戻っても、私の居場所はきっとない。

 弟たちのことは心配だが、財宝の一部を送れば食べるには困らないだろう。

 それに、三百年眠れなかった竜を放っておくのも、なんだか気になる。


 私は岩壁の前に立った。


「では、まず職名は専属睡眠管理係で」


「長い」


「大事です」


「好きにしろ」


「それから、弟妹への仕送りをお願いします」


「いくらだ」


「金貨五枚ほどあれば」


「少ない」


「多すぎると村長に取られます」


「では、直接届ける」


「竜様が?」


「私が行けば誰も奪わぬ」


 たしかに。

 竜が金貨を届けに来たら、村長も手を出せないだろう。

 私は少しだけ笑ってしまった。


「ありがとうございます」


「礼はいい。今夜も歌え」


「はい」


 こうして私は、竜の生贄ではなく、竜の専属睡眠管理係になった。


     *


 竜の名前は、アズラクというらしい。

 本人は「名など久しく呼ばれていない」と言っていたが、私が「竜様」と呼び続けると不機嫌そうに教えてくれた。


「アズラク様」


「様はいらぬ」


「では、アズラクさん」


「さん?」


「雇い主なので」


「妙な呼び方だ」


 そう言いながら、アズラクさんは少しだけ満足そうだった。


 私は洞窟の環境を整えた。

 財宝の中から柔らかい布を選び、寝床を作る。

 乾きすぎる空気を和らげるため、泉の水を器に入れて置く。

 眠る前には、炎を吐かない。

 金貨の山を枕にしない。

 寝る直前に人間の戦争の記録を読まない。

 不安になるから。


 アズラクさんは最初、いちいち文句を言った。


「竜に枕など不要だ」


「では、三百年眠れなかった理由の一つかもしれませんね」


「む」


「寝る前に怒る話を読むのもだめです」


「これは人間の愚かさを記した重要な記録だ」


「寝る前に読むものではありません」


「では何を読めばいい」


「羊が百匹出てくる話など」


「羊」


「眠くなります」


「食いたくなる」


「だめです」


 そんなやり取りをしながら、少しずつアズラクさんは眠れるようになった。

 最初は三日に一度。

 次は一日おき。

 やがて、毎晩数時間は目を閉じられるようになった。

 竜の鱗には艶が戻り、目の下の影も薄くなった。


 不機嫌そうだった声も、少し柔らかくなった。


「ノエ」


「はい」


「今日は、あの雨の歌を」


「わかりました」


「それから、背の鱗の間がむずむずする」


「寝る前に掻けということですか」


「命令ではない」


「お願いですね」


「……お願いだ」


 私は笑いをこらえながら、長い柄のついたブラシを持った。

 恐ろしい竜は、背中を掻かれると目を細める。


 その顔は、少し猫に似ていた。


     *


 ある日、アズラクさんが私に言った。


「麓の村へ行く」


「え?」


「おまえの弟妹へ仕送りを届ける」


「本当に行くのですか」


「契約した」


 竜は律儀だった。

 私は慌てて止めた。


「そのまま行くと村が大混乱になります」


「竜だからな」


「自覚があるなら、人の姿になれたりしませんか」


「できる」


「できるのですか」


 私は驚いた。

 アズラクさんは面倒そうに体を震わせた。

 黒い鱗が光り、巨大な体が霧のように縮む。


 次の瞬間、そこに立っていたのは、黒髪に金色の目をした長身の男性だった。

 人間離れした美貌。


 けれど、目つきは相変わらず眠そうだ。


「これでよいか」


「よいですが、服が古代王国の王様みたいです」


「古代王国の王から奪った服だ」


「目立ちます」


「では何を着ればよい」


 私は財宝の中から比較的地味な外套を探し出した。

 それでも十分高そうだったが、竜の基準では地味らしい。

 私はアズラクさんと共に、山を下りた。


 久しぶりに見る村は、以前よりも少し荒れていた。

 畑はまだ乾き、村人たちの顔には疲れが見える。

 私の家に着くと、弟たちが飛び出してきた。


「姉ちゃん!」


「ノエ姉!」


 私は膝をつき、三人を抱きしめた。

 末妹は泣きながら私の服を握った。


「食べられちゃったと思った」


「食べられてないよ」


「本当?」


「本当」


 弟が、私の後ろに立つアズラクさんを見上げた。


「この人、誰?」


「私の雇い主」


「雇い主?」


「そう。寝るのが下手な人」


 アズラクさんが不満そうに私を見た。

 事実なので仕方ない。

 私は弟たちに、金貨と食料を渡した。


「これでしばらく困らないはず」


「姉ちゃんは帰ってくるの?」


「今はまだ、山で働くことになったの」


「大丈夫なの?」


「うん。食べられないし、休みもある」


 弟はまだ不安そうだったが、私が元気なことを見て少し安心したようだった。

 その時、村長がこちらへ歩いてきた。

 私が戻ったと聞きつけたのだろう。


「ノエ。なぜ戻った」


 第一声がそれだった。

 私は弟たちを背にかばった。


「竜様は生贄を求めていませんでした」


 村長の顔がこわばる。


「何を言う」


「雨が降らないことも、竜様の機嫌とは関係ないそうです」


「そんなはずはない。昔から」


「昔から、誰が確かめたのですか」


 村長は答えなかった。

 その代わり、私の手にある金貨を見た。


「その金は」


「私の給金です」


「村のために使うべきだ」


 予想通りの言葉だった。

 私はため息をつきそうになった。

 その瞬間、アズラクさんが一歩前に出た。


「これはノエの給金だ」


 低い声が、空気を震わせる。

 村長がびくりと肩を揺らした。


「あなたは」


「この村は、私の名を勝手に使い、生贄と称して人を山へ捨てていたのか」


 アズラクさんの金色の目が、細く光った。

 村人たちがざわめく。

 誰かが小さく叫んだ。


「竜だ」


 その瞬間、村長の顔から血の気が引いた。


「ち、違います。これは古くからのしきたりで」


「私は一度も生贄を求めていない」


 アズラクさんは静かに言った。


「今後、私の名で人を捨てることを禁じる。

 次に同じことをすれば、村長の家の屋根だけを毎晩吹き飛ばす」


 村人たちは震え上がった。

 なぜ屋根だけなのかはわからないが、かなり嫌だと思う。


 村長はその場に膝をついた。


「お許しを」


「許すかどうかは、ノエが決める」


 急に振られて、私は少し困った。


 許す、という気持ちにはなれない。

 けれど、村を焼いてほしいわけでもない。


「では、弟たちへの支援と、今後二度と生贄を出さないことを村の誓約書にしてください」


「それでよいのか」


 アズラクさんが聞く。


「はい」


「甘いな」


「寝る前に怒ると眠れなくなりますから」


 そう言うと、アズラクさんは少しだけ目を丸くした。


 それから、ふっと笑った。


「それもそうだ」


     *


 村から戻った夜、山に雨が降った。

 ぽつぽつと岩を叩く音がして、やがてそれは静かな雨音になった。

 村人たちは、きっと竜の怒りが鎮まったと思うだろう。


 けれど、私は知っている。

 アズラクさんが雨を降らせたわけではない。

 季節がめぐり、雲が来て、自然に降った雨だ。


 ただ、その夜のアズラクさんは、いつもより穏やかだった。


「ノエ」


「はい」


「おまえは、村に残ってもよかったのだぞ」


「そうですね」


「戻りたかったか」


 私は少し考えた。

 弟たちは大切だ。

 けれど、あの村に私の居場所があったかと聞かれれば、答えは違う。


「弟たちには会いたいです。でも、私は今の仕事が嫌いではありません」


「竜を寝かせる仕事がか」


「はい」


「変わった人間だ」


「アズラクさんも、変わった竜です」


「私は普通だ」


「三百年眠れなかった竜は、普通ではありません」


 アズラクさんは黙った。

 私は笑いながら、いつもの絨毯を整えた。


「では、今日は雨の音を聞きながら眠りましょう」


「歌は」


「歌います」


「背中は」


「掻きます」


「水は」


「置きました」


「枕は」


「金貨ではなく、柔らかい布です」


「……よろしい」


 何がよろしいのかはわからない。

 けれど、アズラクさんは満足そうに目を閉じた。

 私は子守歌を歌った。


 雨の夜に、羊が丘を越えて帰ってくる歌。

 灯りのともる家へ、子どもたちが戻ってくる歌。

 アズラクさんの寝息が、雨音に混じる。

 私はその横で、小さく息を吐いた。

 生贄として捧げられたはずの私は、今、竜を寝かしつけている。


 人生は何があるかわからない。


     *


 それから数か月後。


 竜の山には、妙な噂が立つようになった。

 恐ろしい竜の棲む山ではなく、眠れる竜の山。

 近づくと食べられるのではなく、大声を出すと怒られる山。

 なぜなら、竜が寝ているから。


 村人たちは山の入り口に札を立てた。


『竜様睡眠中。騒音禁止』


 私はそれを見た時、少し笑ってしまった。

 アズラクさんは気に入ったようだった。


「よい札だ」


「そうですか」


「人間にしてはわかっている」


 竜の基準はよくわからない。

 村長は約束通り、弟たちへ食料を届けるようになった。

 村では生贄のしきたりも廃止された。

 代わりに、干ばつの時は井戸を深く掘り、貯水池を整え、隣村と協力するようになったらしい。


 最初からそうしてほしかった。

 だが、変わったならよいことだ。


 私の仕事も増えた。

 アズラクさんの睡眠管理だけではない。

 時々、眠れない子どもを連れた親が山の麓まで来るようになった。


「ノエさんの子守歌を教えてください」


「夜泣きがひどくて」


「怖い夢を見るそうで」


 私は山の麓に小さな小屋を建て、そこで子守歌と寝る前の過ごし方を教えるようになった。

 アズラクさんは最初、不満そうだった。


「私の睡眠管理係ではなかったのか」


「昼間だけです」


「人間の子など、勝手に眠るだろう」


「眠れない子もいます」


「面倒だな」


「そうですね。でも、眠れないのはつらいでしょう?」


 そう言うと、アズラクさんは何も言わなくなった。

 その夜から、小屋の近くには竜の財宝から選んだ柔らかい毛布が置かれるようになった。

 アズラクさんは知らぬふりをしていたが、どう考えても彼だった。


     *


 一年後。


 私は、竜の山の睡眠管理係として暮らしていた。

 弟たちは時々遊びに来る。

 最初はアズラクさんを怖がっていたが、今ではすっかり慣れてしまった。


「竜さん、背中乗っていい?」


「だめだ」


「ちょっとだけ」


「だめだ」


「ノエ姉、お願いして」


「アズラクさん、少しだけ」


「……少しだけだ」


 甘い。

 竜は子どもに甘い。

 弟たちが背中で笑うと、アズラクさんは迷惑そうな顔をしながらも、尾をゆっくり揺らして落ちないようにしている。

 そんな姿を見るたび、私は胸の奥が温かくなった。


 ある夜、弟たちが帰った後、アズラクさんが言った。


「ノエ」


「はい」


「おまえは、もう生贄ではない」


「知っています」


「雇われてもいるが、それだけでもない」


 私は手を止めた。

 アズラクさんは、人の姿で洞窟の入口に座っていた。

 金色の目が、月明かりを映している。


「ここに、居たいだけ居ればいい」


「契約期間の話ですか?」


「違う」


「では」


「帰る場所の話だ」


 私は言葉を失った。


 帰る場所。

 昔から、私は誰かを寝かしつける側だった。


 弟たちに布を掛け、子守歌を歌い、大丈夫だと言い聞かせる側。

 自分がどこで眠れば安心できるのかなんて、あまり考えたことがなかった。


 けれど、今はわかる。


 雨音が聞こえる洞窟。

 柔らかい絨毯。

 眠るのが下手な竜。

 弟たちの笑い声。


 ここは、もう私の帰る場所になっていた。


「では」


 私は少しだけ笑った。


「これからも、寝かしつけますね」


「それは助かる」


「ただし、休みは今まで通りいただきます」


「わかっている」


「夜更かしは禁止です」


「努力する」


「努力ではなく、約束してください」


「……約束する」


 アズラクさんは、少し不満そうに言った。

 私はその顔を見て、つい笑ってしまった。


     *


 今夜も、竜の山には静かな雨が降っている。

 洞窟の奥では、アズラクさんが柔らかい絨毯の上に丸くなっている。

 私はそのそばで、子守歌を歌う。


 雨の夜に、羊が丘を越えて帰ってくる歌。

 灯りのともる家へ、子どもたちが戻ってくる歌。


 かつて生贄として山へ捧げられた私は、今では竜の専属睡眠管理係だ。

 村ではもう、生贄の話をする者はいない。

 代わりに、夜泣きする子がいると、母親たちはこう言うらしい。


「静かにおやすみ。山の竜様も、今ごろ眠っているよ」


 恐ろしい竜は、眠れる竜になった。

 捨てられた生贄は、帰る場所を見つけた。

 私は歌い終え、そっと立ち上がる。


 アズラクさんの寝息は、今日も穏やかだ。

 その大きな翼の陰で、私は小さくあくびをした。


「おやすみなさい、アズラクさん」


 低い寝息の合間に、かすかな声が返る。


「……おやすみ、ノエ」


 それは、眠る前の子どもみたいに素直な声だった。


 私は笑って、目を閉じる。

 明日もきっと、寝かしつけの仕事がある。


 けれど、それはもう、誰かに押しつけられた犠牲ではない。


 私が選んだ、私の仕事だ。

 そして、私が見つけた、私の幸せだった。


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