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婚約破棄された呪術令嬢ですが、今さら「戻ってこい」と言われても王城の呪いはもう止まりません

作者: カルラ
掲載日:2026/05/16

シャンデリアの光が、眩しかった。

卒業舞踏会。

ハリングフォード王立学院の最後の夜。

煌めく衣装と笑い声と甘い香水の混じる大広間の片隅で、私はひとり、壁の染みを確認していた。

正確には染みではない。

ぼんやりとした、灰色の滲み。

人の負の感情が、長年かけて凝り固まったものだ。

今夜は人が多い分、少し濃い。

嫉妬、焦燥、劣等感、虚栄心――そういったものが空気に溶けて、壁に沁み込んでいく。

普通の人には見えないし、感じることもできない。

私には、見える。

 

「リディア!」

 

反射的に顔を上げる。

王太子エドワルド殿下が、大勢の視線を引き連れながら、まっすぐこちらへ歩いてくる。

その隣には聖女アリシアが寄り添い、頬をわずかに染めていた。

ああ、と思う。

今夜か。

 

「お前との婚約を破棄する!」

 

ホールに声が響いた。

会場がざわめき、視線が一斉に私へ集まる。

私は静かに息を吸った。

 

「……承知しました」

 

「お前のような陰気な女が王妃に相応しくない!

明るく、清らかで、民に愛されるような女性こそ、この王国に必要なのだ!」

 

陰気。

よく言われる。

社交界では陰気、不気味、呪われそう、と陰口を叩かれているのは知っている。

知っていても、特にどうこうする気にもなれなかった。

理由がある。

ちゃんとした理由が。

ただし、それを今この場で説明するつもりはない。

私はドレスの裾を持ち上げ、一礼した。

そのまま踵を返す。

扉へ向かいながら、私は一言だけ告げた。

 

「では、本日をもって、王城の呪術管理業務を終了します」

 

殿下の声が、一拍遅れる。

 

「……は?」

 

「七年間の業務引き継ぎ資料については、グレイシュ家よりお送りします。

なお、現時点でいくつかの封印が補修時期を過ぎております。

早急なご対処をお勧めします」

 

「何を言っている?

最後まで意味の分からない女だ」

 

殿下の声には嘲笑が混じっていた。

私は振り返らなかった。

振り返る理由が、ない。

 

外に出ると、夜風が頬に触れた。

五月の空気は清潔で、少し冷たい。

城壁の表面をちらりと確認する。

地下から這い上がろうとしている気配が、いつもよりやや強い。

 

「……三日は持つかな」

 

独り言が、夜に消えた。

実のところ、もう少し早めに補修しておきたかった封印が、地下の第四区画にある。

ただ今夜はもう、私には関係のない話だ。

馬車を呼んで、屋敷へ帰る。

七年間通い続けた王城を振り返ることもなく。

 

翌朝、父に報告した。

 

「昨夜、婚約破棄を受け入れました。

業務の終了も宣言してきました」

 

父は書類から顔を上げ、長い沈黙の後、深いため息をついた。

 

「……そうか」

 

「はい」

 

「怪我はないか」

 

「ありません」

 

「辛くはなかったか」

 

少し考えた。

辛い、という感覚が、正直なところあまりよくわからない。

呪いを日常的に浴び続けると、感情の輪郭が少しずつ削れていく。

喜びも、悲しみも、怒りも、どこかぼんやりとしてしまう。

陰気と言われるのはそのためだ。

好き好んで無表情なわけではない。

 

「特には」

 

父は窓の外を見た。

王都の空は、今日も青い。

 

「お前が七年間、あそこで何をしてきたか。

殿下はついに、知らないままだったな」

 

「知る必要もなかったのでしょう。

私がいたから」

 

父は何も言わなかった。

言葉の代わりに、ひとつ頷く。

それで十分だった。

 

その夜のことは、後から使用人の報告で聞いた。

王太子殿下の私室の鏡に、女が映ったと侍女が証言したという。

殿下が振り向いた時、部屋には誰もいなかった。

翌朝には、枕に髪の毛が大量に落ちていたとのことだ。

私はその話を、グレイシュ邸の庭でお茶を飲みながら聞いた。

 

「……なるほど」

 

「リディア様、大丈夫なのでしょうか、あちらは」

 

侍女のマリアが、恐る恐るといった様子で言う。

 

「大丈夫ではないでしょうね」

 

「え」

 

「第四区画の封印が崩れかけていましたから。

あそこは特に、処刑された者たちの念が強い場所です。

半年に一度は補修が必要なのですが、私が最後に手を入れてから、もう三ヶ月が経っていました」

 

「そ、それは……」

 

「殿下が引き継ぎ資料をお読みになれば、対処できる術者を探せるかもしれません。

昨日お送りしましたから」

 

「読んでいただけると思いますか?」

 

少し考えた。

あの殿下が、意味不明だと切り捨てた女の書いた資料を、真剣に読むかどうか。

 

「……さあ」

 

カップを置く。

お茶は少し冷めていたが、悪くない味だった。

 

二日目。

廊下で足音がする、誰もいない、と近衛騎士が報告。

深夜に扉を叩く音がして、開けると廊下は空だった、と侍女が証言。

城の東回廊にある大きな肖像画の目が動いた、と近衛兵が血相を変えて上官に報告したが、笑い飛ばされた。

翌日には同じ証言をする者が二人になり、三日目には五人になった。

三日目の深夜。

聖女アリシアが悲鳴を上げた。

 

「毎晩、黒い女が立ってるの……!

部屋の隅に……じっと、こっちを見てるの……!」

 

宰相ロッシュ卿が緊急会議を招集し、城の神官を呼び、祈祷師を呼び、清めの香を焚かせた。

何も変わらなかった。

 

そんな報告を受けながら、私は辺境移住の準備を進めていた。

引き継ぎ資料の補足を書き、呪術道具の梱包を確認し、移住先の物件の図面を眺める。

婚約破棄の翌々日に移住を発表したところ、問い合わせが殺到した。

グレイシュ家が呪い管理の家系であるという噂は、思ったより広まっていたようだ。

四日目の午前。

宰相ロッシュ卿が、直接屋敷を訪ねてきた。

応接間で向かい合うと、老いた顔に疲労と焦りが滲んでいた。

 

「リディア嬢。

ご無礼を承知の上で参りました」

 

「何用でしょうか」

 

「城の……城の地下が、おかしい。

第四区画の封印壁に亀裂が入り、昨夜からネズミが大量に出ています。

それが、その」

 

宰相は言葉を選ぶように間を置いた。

 

「……人語を、喋るのです」

 

マリアがお茶を持つ手を止めた。

私は静かに頷く。

 

「それは確かに、良くない状態ですね」

 

「戻ってきてください!

報酬は何でも!

婚約のことは……婚約のことは、もう一度考え直していただけるよう、私から殿下に」

 

「必要ありません」

 

「え」

 

「婚約については。

そちらは要りません」

 

「では報酬を!」

 

「今は予約が埋まっております」

 

宰相が固まった。

 

「……よ、予約?」

 

「はい。

昨日から依頼が三件入りまして。

来週からは四件目のご相談もあります。

辺境での開業を発表したところ、ありがたいことで」

 

「リディア嬢!

城が、本当に崩れかねないのです!」

 

「引き継ぎ資料はお読みになりましたか」

 

沈黙。

宰相はゆっくりと目を逸らした。

答えが出た。

資料には第四区画の補修方法と、対応できる術者の連絡先を記載してある。

王都に三名おり、腕前は私より劣るが、応急処置は可能だ。

 

「しかし!」

 

「宰相閣下」

 

私は宰相を見た。

 

「私はもう、王城の雇用者ではありません。

グレイシュ家と王家の契約は、婚約の成立を前提としていました。

婚約が破棄された今、契約は失効しています」

 

「そんな契約など……」

 

「存在します。

三代前に締結されたもので、写しはグレイシュ家の書庫にあります」

 

宰相は額に手を当てた。

年齢より老けて見えた。

長い沈黙の後、立ち上がる。

 

「……御礼申し上げます、リディア嬢。

七年間、誰も知らぬまま、よく尽くしてくださいました」

 

私は一礼した。

 

「お気をつけてお帰りください」

 

宰相が去った後、マリアが言った。

 

「リディア様、怒らなかったんですね」

 

「何に?」

 

「だって、七年間も誰も知らなかったなんて」

 

私はカップを手に取った。

怒る、という感覚も、実のところあまり明確ではない。

ただ、少し、疲れている気はする。

 

「ずっと呪いの側にいると、感情が削れていくの」

 

「え?」

 

「怒りも、悲しみも、喜びも。

呪いに浸かり続けると、そういうものが薄くなっていく。

陰気と言われるのはそのためよ」

 

マリアは何か言いたそうだったが、何も言わなかった。

窓の外では、王都の陽光が普通に降り注いでいる。

五日後には、辺境へ発つ予定だ。

 

出発の朝。

荷物は少ない。

呪術道具一式と着替えと、父からもらった書類の束。

三代分の呪術管理記録。

 

「辺境にも、きっと色々あるだろう」

 

父が言った。

 

「はい」

 

「手紙を書け。

返事は遅いかもしれんが、読んでいる」

 

「わかりました」

 

馬車に乗る前に、一度だけ王都の空を見上げた。

どこか、薄い。

王城の方角から、うっすらとした灰色の気配が漂っている。

三か所の封印崩壊は、まだ序章に過ぎない。

あの地下には、まだ眠っているものが幾つもある。

 

「……後は、知らない」

 

誰に言うでもなく、呟いた。

馬車のドアを閉める。

車輪が動き出した。

窓から王都が遠ざかるのを、私は特別な感傷もなく見送った。

 

辺境の町ランツブルクは、思ったよりずっと生き生きとしていた。

王都と比べれば地味で、道は石畳ではなく砂利敷きで、建物も低く素朴だ。

だが空気が、清潔だった。

呪いの濃度が薄い。

長年、王城地下の重く淀んだ空気の中で過ごしてきた身には、それだけで十分すぎる理由だった。

借り受けた家は、町の外れの二階建てだ。

一階を相談所にして、二階を住居にする。

看板を出した翌日から、客が来た。

一人目は、新しく買い取った倉庫から毎晩物音がすると言う商人。

二人目は、代々幽霊が出ると噂の屋敷を持て余している貴族。

三人目は、妻が拾った人形を手放さなくなったと困惑する農夫。

どれも、ありふれた案件だ。

効率よく処理していると、四日目に騎士団の副官がやってきた。

 

「呪い相談所の方ですか。

うちの団長から伝言があって」

 

「どうぞ」

 

「団長が言うには、『よそ者が一人で変な仕事をしているなら一度話を聞く』とのことです」

 

なかなか失礼な言い方だと思ったが、表情には出なかった。

 

「団長にお伝えください。

よろしければいつでもどうぞ、と」

 

翌朝、騎士団長が来た。

背が高い。

傷のある顔に、無表情。

強面という言葉がよく似合う男だった。

名をヴァルツ・クライン。

辺境騎士団長。

彼はまっすぐこちらを見て、単刀直入に言った。

 

「何ができる」

 

「呪いの除去、封印の補修、呪物の解体、悪霊の祓い、憑依案件全般です」

 

「怪異の目撃情報が出たとき、協力を頼めるか」

 

「案件によります」

 

「条件は?」

 

「危険度に応じた報酬と、現場への同行者。

術者は単独行動を推奨しません」

 

ヴァルツは少しの間、私を見た。

見定めるような目つきだったが、嫌ではなかった。

 

「わかった」

 

それだけ言って、彼はお茶も飲まずに立ち上がった。

 

「また来る」

 

「どうぞ」

 

扉が閉まる。

応接間に、静かな空気が戻った。

私はカップを手に取る。

お茶はもうすっかり冷めていたが、なぜか、少しだけ温かい気がした。


辺境での生活は、思いのほか性に合っていた。

王都の社交界と違い、ここでは誰も私を「陰気な侯爵令嬢」と見ない。

呪い相談所の看板を出した翌週には、口コミで依頼が増え、二週目には予約が一週間先まで埋まった。

客層は様々だ。

代々続く祟りに悩む旧家の当主。

事故が頻発する鉱山の責任者。

夜ごと奇妙な夢を見るという元兵士。

どれも放置すれば拗れる案件ばかりで、仕事は途切れない。

むしろ王城の定期業務より、ずっと忙しいくらいだ。

 

「最近、顔色がいいですよ、リディア様」

 

マリアが言った。

 

「そうかしら」

 

「なんというか……少し、柔らかくなった感じがします」

 

自分ではよくわからない。

ただ確かに、ここの空気は軽い。

呪いの濃度が薄い分、感情の削れ具合が緩やかだ。

朝、窓を開けると遠くの山が見える。

王都では見えなかったものが、ここには普通にある。

 

「ところでリディア様、また王都から手紙が来ています」

 

「何通目?」

 

「今週で六通目です」

 

「……積んでおいて」

 

「積むのですか」

 

「読む時間がないのよ。

予約が詰まっているから」

 

マリアは何か言いたそうな顔をしたが、黙って手紙を脇のテーブルへ重ねた。

六通の封筒が、しずかに積み上がっている。

差出人はいずれも王城関係者だ。

宰相、宮廷神官長、近衛隊長、そして一通だけ、見覚えのない筆跡のもの。

後で読もう、とは思っている。

ただ今は、十時の予約客を待っていた。

 

ヴァルツが来たのは、昼過ぎのことだ。

扉を開けるなり、いつもの無表情のまま言った。

 

「北の廃村に怪異が出た。

住民が近づけないと言っている」

 

「規模は」

 

「半径二百メートルほど、霧が晴れないらしい。

夜になると声がする、と」

 

「声の種類は」

 

「泣き声と、笑い声が混在している、とのことだ」

 

私はカップを置いた。

泣き声と笑い声の混在は、感情の残滓が飽和しているサインだ。

長年誰も手を入れていない場所に溜まった念が、形を持ち始めている。

 

「明日の午前であれば行けます」

 

「わかった。

馬は俺が手配する」

 

「同行は?」

 

「俺が行く」

 

言ってから、ヴァルツは少し間を置いた。

 

「……問題あるか」

 

「ありません。

ただひとつ確認ですが、怪異を見ても動じない方ですか」

 

「怪異というのが何かよくわからんが、怖くはない」

 

「幽霊が目の前に出ても?」

 

「出たことがないのでわからん」

 

正直な答えだと思った。

 

「では明日、夜明け前にここへ来てください」

 

「承知した」

 

ヴァルツはそれだけ言って、また扉を閉めた。

相変わらず、お茶を飲まない男だ。

ただその背中は、思ったより頼もしい。

 

その夜。

積み上がっていた手紙を、ようやく読んだ。

宰相からが三通、神官長からが二通、近衛隊長からが一通。

内容はどれも似たようなものだ。

状況が悪化している、早急に戻ってほしい、報酬は交渉する、という趣旨。

最後の一通を手に取る。

見覚えのない筆跡。

封を切ると、短い文面が出てきた。

 

「突然のご連絡をお許しください。

聖女アリシアと申します。

リディア様に、直接お詫びを申し上げたく、筆を執りました」

 

読み進める。

文面は丁寧で、飾り気がなかった。

彼女は自分が、私の仕事の重要性を全く知らずに、婚約破棄を後押ししてしまったと書いていた。

エドワルド殿下に「陰気な婚約者より、あなたのような聖女の方が王妃に相応しい」と言われた時、彼女は単純に喜んでしまった、と。

今になって城で何が起きているかを知り、自分が何をしてしまったかを理解した、とも。

最後の一文。

 

「あなたを陥れようとしたわけではありませんでした。

ただ、知らなかったのです。

その無知が、どれほどの結果を招いたか。

今さら申し訳ないとは思っていますが、それでも伝えずにはいられませんでした」

 

手紙を、膝の上に置いた。

怒りが来るかと思ったが、来なかった。

ただ、少し疲れた気持ちになった。

悪意がなかったのはわかる。

彼女はきっと、本当に善良な人間だ。

ただ善意と無知が組み合わさると、時として悪意より深く人を傷つける。

それが七年分、積み重なっていた。

 

返事は書かなかった。

今は書く言葉が見つからない。

いつか、気持ちが整理されたら書こう。

そう思いながら、手紙を引き出しに入れた。

 

翌朝。

夜明け前にヴァルツが来た。

馬を二頭引いてきた。

私は呪術道具の入った鞄を肩にかけ、外へ出る。

空は薄い藍色で、星がまだ残っている。

 

「寒くないか」

 

ヴァルツが言った。

 

「平気です」

 

「そうか」

 

それだけで、馬が動き出した。

北の廃村までは、馬で一時間ほどだ。

道中、ヴァルツはほとんど喋らなかった。

私も喋らなかった。

ただ、沈黙が苦ではなかった。

王都での沈黙は、常に何かを隠すための沈黙だった。

この人の沈黙は、ただの沈黙だ。

 

廃村の手前で、霧が見えた。

晴れた朝にもかかわらず、白い霧が低く立ち込めている。

馬が止まろうとするのを、ヴァルツが静かに落ち着かせた。

 

「これが怪異か」

 

「霧ではありません。

念の可視化です。

この濃度は……かなり長年放置されていますね」

 

「危険か」

 

「中に入れば影響を受けます。

私は大丈夫ですが、あなたは」

 

「俺も行く」

 

「頭痛や吐き気が出たら、すぐ言ってください」

 

「わかった」

 

二人で馬を降り、村の入り口へ進む。

霧の中に入った瞬間、温度が下がった。

空気が重い。

耳の奥で、かすかに泣き声がする。

ヴァルツは表情を変えない。

霧の中を見回して、静かに立っている。

 

「何が見える」

 

「霧と、古い建物だけだ」

 

普通の人には霧にしか見えない。

私には見える。

至る所に、灰色の影が漂っている。

怒りや悲しみが固まった残滓だ。

この村では昔、何かがあったのだろう。

私は鞄から道具を取り出し、作業を始めた。

 

一時間後。

霧が薄れ始めた。

ヴァルツはその間、一度も騒がず、ただ黙って私の周囲を守るように立っていた。

怪異の類が全く見えていないのに、その場を離れなかった。

 

「終わりました」

 

「そうか。

お疲れ」

 

短い言葉だったが、何か温かいものがあった。

帰り道、ヴァルツが言った。

 

「お前は、仕事中に顔が変わるな」

 

「変わりますか」

 

「集中している時、少し……なんというか、生きている感じがする」

 

少し考えた。

 

「それは多分、呪いに向き合っている時だけ、感情が戻るからだと思います」

 

「戻る?」

 

「普段は削れているんです。

長年、呪いの近くにいたので」

 

ヴァルツはしばらく黙っていた。

馬の蹄の音だけが、朝の道に響く。

 

「……そうか」

 

それだけだった。

それ以上は何も言わなかった。

ただその短い言葉の中に、責めも憐れみもなく、ただ受け取った、という重さがあった。

私はそれを、不思議と心地よく感じた。

 

ランツブルクに戻ると、マリアが血相を変えて駆け寄ってきた。

 

「リディア様!

王都から使者が来ています!

今度は近衛騎士が直接!」

 

応接間を覗くと、近衛の制服を着た若い騎士が、緊張した面持ちで立っていた。

 

「グレイシュ嬢、急ぎお伝えに参りました。

昨夜、王城地下の第四区画と第七区画の封印が同時に崩壊しました。

現在、城の東翼で原因不明の怪現象が続いており、複数の使用人が倒れています」

 

「第七区画も」

 

思わず呟いた。

第七区画は、第四よりさらに古い封印だ。

百年以上前に私の曾祖母が施した封印で、その下には……。

 

「グレイシュ嬢、どうか戻っていただけないでしょうか。

宰相閣下も、陛下も、今はただ」

 

「少し時間をください」

 

静かに言った。

騎士が口を閉じる。

私は窓の外を見た。

ランツブルクの空は今日も澄んでいて、遠くの山に雪が光っている。

この仕事が好きだ。

この空気が好きだ。

この静かな沈黙が好きだ。

ただ、第七区画の封印が崩れたなら、話は変わる。

あそこに眠っているものは、応急処置で止まるレベルではない。

 

「……わかりました」

 

「では!」

 

「ただし条件があります。

ひとつ、報酬は正式契約で。

ふたつ、私の指示に従っていただく。

みっつ」

 

少し間を置いた。

 

「私の仕事が何であるか、今後は王城関係者全員に正式に周知すること。

知らなかった、では済まない状況になりますので」

 

騎士は何度も頷いた。

 

「承知しました、全て宰相閣下にお伝えします」

 

「では明後日、王都へ向かいます。

ここの案件を一件片付けてから」

 

騎士が退室した後、ヴァルツが入り口に立っているのに気付いた。

いつ来たのか、わからなかった。

 

「聞いていたんですか」

 

「扉が開いていたので」

 

「……そうですか」

 

ヴァルツは腕を組んで、静かに言った。

 

「お前は見捨てると後悔するタイプだろ」

 

図星だったので、答えなかった。

 

「行ってこい。

ここの案件は、戻ってから片付ければいい」

 

「でも予約が」

 

「俺から客に説明する」

 

「……あなたが?」

 

「何か問題あるか」

 

この強面の騎士団長が、呪い相談所の予約客に説明して回る図を想像した。

 

「……お願いします」

 

少しだけ、口の端が上がった気がした。

自分でも気付かないほど、わずかに。

 

翌日。

王都へ向かう馬車の中で、私は久しぶりに王城の地下を思い浮かべた。

第四区画、第七区画。

崩れた封印の下に何が眠っているか、私はよく知っている。

王族と貴族が長年かけて積み上げてきた腐敗と欺瞞、そこから生まれた国民の怨念。

一人の女が七年間、毎日少しずつ抑えてきたものだ。

今、それが一気に解放されようとしている。

窓の外を流れる景色を見ながら、私は静かに道具の確認をした。

怒りは、ない。

悲しみも、ない。

ただ、仕事だという感覚が、じわりと戻ってくる。

これが私の呪いだ、と思う。

誰かが困っていれば、行かずにはいられない。

たとえ、その誰かが私を追い出した相手でも。

馬車が王都へ向けて、速度を上げた。


王都が見えてきた頃、空の色が変わっていた。

晴れているのに、どこか濁っている。

光の質が悪い、とでも言うべきか。

呪いに慣れた目には、すぐわかる。

王城の方角から、灰色の靄が薄く広がっていた。

 

「……思ったより、早い」

 

独り言が、馬車の中に落ちた。

私の見立てでは、もう二週間は持つはずだった。

封印の崩壊速度が、予想を上回っている。

理由は、わかっている。

王族と貴族の腐敗が、私の想定より深かったのだ。

国民の怨念が、それだけ蓄積していた。

私が一人で七年間抑えてきたものの総量を、改めて実感する。

馬車が王城の門をくぐると、出迎えた宰相の顔は見違えるほど老けていた。

 

「よく来てくださいました、リディア嬢」

 

「状況を教えてください。

詳しく」

 

「はい、はい。

まず第四区画ですが――」

 

宰相が早口で説明する間、私は城の壁を確認した。

いたる所に、灰色の染みが広がっている。

以前は毎日手入れをしていたから、ここまで可視化されることはなかった。

二週間で、随分と広がったものだ。

 

「第七区画の封印は、現在どんな状態ですか」

 

「亀裂が……亀裂が三本入っています。

夜になると地下から声が聞こえ、昨日は地下への扉が内側から激しく叩かれました」

 

「中から」

 

「はい」

 

私は目を閉じた。

第七区画の封印の下には、かつてこの王城で謀殺された三十七人分の念が眠っている。

曾祖母が一生をかけて封じたものだ。

それが起き上がろうとしている。

 

「わかりました。

まず地下へ行きます。

案内してください」

 

「リディア嬢」

 

宰相が、少し躊躇うような顔をした。

 

「殿下が……殿下も、お会いしたいと」

 

「後でよければ」

 

「は、はい」

 

宰相が先導する廊下を歩きながら、私は城の空気を読んでいた。

使用人たちが、遠くから私を見ている。

怖れているのか、安堵しているのか、その両方か。

前よりずっと、陰気な顔をした者が多い。

城に巣食った呪いの影響だ。

気力が落ちる、眠れない、理由のない不安に駆られる。

普通の人はその原因がわからないまま、じわじわと蝕まれていく。

地下への扉の前で、近衛騎士が二人、青い顔で立っていた。

 

「ご苦労様です。

扉を開けてください」

 

「し、しかし昨夜から――」

 

「大丈夫です」

 

断言すると、騎士は黙って鍵を抜いた。

扉が開いた瞬間、どっと重い空気が押し出てきた。

宰相が小さく呻く。

私は平然と中へ入った。

 

地下は、変わり果てていた。

私が毎日手入れをしていた頃は、薄暗いが清潔な石造りの通路だった。

今は壁一面に、黒い染みが広がっている。

足元には、細かいひびが無数に走っていた。

第四区画。

亀裂から、もやが漏れ出ている。

ここはまだ、処置できる。

問題は、第七区画だ。

通路の奥へ進むほど、空気が重くなる。

温度が下がる。

かすかな泣き声が、壁の内側から聞こえてくる。

第七区画の扉の前で、私は立ち止まった。

扉の表面に、三本の亀裂が走っている。

その縁が、黒く変色していた。

私は鞄を下ろし、道具を取り出した。

 

作業は三時間かかった。

第七区画の亀裂を一時的に封じ、第四区画の崩壊部分に応急処置を施す。

完全な修復ではない。

今の私一人では、時間がかかりすぎる。

それでも、最悪の事態は当面免れた。

地上へ戻ると、宰相と神官長が廊下で待っていた。

 

「どうでしたか」

 

「一時的に抑えました。

ただし、完全な修復には一週間はかかります。

毎日作業が必要です」

 

「一週間……」

 

「それと、根本的な問題を申し上げていいですか」

 

宰相が背筋を伸ばした。

 

「どうぞ」

 

「第七区画の封印が崩れかけているのは、封印が古くなったからだけではありません。

この国の民の怨念が増大し続けているからです。

腐敗した政治、理不尽な税、不正が罰せられない現状――そういったものが積み重なって、呪いになっています。

私が毎日手を入れていたのは、その増加分を日々処理していたからです。

王城そのものが、この国の歪みを吸収し続けていました」

 

宰相の顔が、青くなった。

 

「つまり……」

 

「封印を修復しても、元凶が変わらなければ、また崩れます。

私が戻っても、また同じことが起きます」

 

長い沈黙。

 

「……肝に銘じます」

 

宰相の声は、静かだった。

それ以上は言わなかった。

言うべき言葉を、私は持っていない。

これは術者の仕事の外だ。

 

その夜、殿下に呼ばれた。

応接室に入ると、エドワルド殿下は椅子に座っていた。

いつもの傲慢な姿勢ではなく、どこか縮んで見えた。

髪が、抜け落ちていた。

思っていたより、深刻な状態だ。

髪の抜けは、怨念が近くにある者に出やすい症状だ。

殿下は私を見ると、唇を開いた。

 

「リディア……」

 

「殿下、敬語は不要です。

今日はただの術者として来ています」

 

殿下が口を閉じた。

また開く。

 

「戻ってきてくれないか」

 

「婚約者として、という意味でしたら、お断りします」

 

「それは……」

 

「術者として定期契約を結ぶことは、条件次第で検討します。

先ほど宰相閣下にお伝えした三つの条件が受け入れられるなら」

 

殿下はしばらく黙っていた。

私も黙っていた。

応接室の壁に、薄い染みが広がっている。

殿下の近くの空気は、特に重い。

 

「……俺は、お前が何をしていたか知らなかった」

 

「はい」

 

「知ろうともしなかった」

 

「そうですね」

 

「それについては……」

 

殿下が、目を逸らした。

謝罪の言葉が来るかと思ったが、来なかった。

プライドが邪魔をしているのか、言葉が見つからないのか。

どちらでもよかった。

私はもう、この人に何かを求めていない。

 

「殿下、ひとつだけ申し上げます」

 

「何だ」

 

「私が陰気なのは、この城の呪いを一人で浴び続けていたからです。

好きでそうなったわけではありません」

 

殿下の顔が、固まった。

私は続ける。

 

「七年間、毎日地下へ通いました。

処刑された者の念を鎮め、謀殺された者の怒りを封じ、戦争で死んだ者の絶望を抑えていました。

誰にも言わずに、それをしていました。

陰気だと嘲笑われながら、それをしていました」

 

声は平坦だった。

怒りも悲しみもない。

ただ、事実だけを並べる。

 

「それを知っておいてほしかった。

ただそれだけです」

 

殿下は何も言わなかった。

私は礼をして、部屋を出た。

 

廊下を歩きながら、自分の手を見た。

震えていない。

涙も出ない。

ただ、胸のどこかが、わずかに軽くなった気がした。

言えた、と思う。

七年分のことを、全部ではないが、少しだけ。

 

翌日から、地下の作業が続いた。

毎朝、夜明けと共に地下へ入り、夕方まで封印の補修をする。

地道な作業だ。

壁の亀裂を塞ぎ、染みを取り除き、蓄積した念を少しずつ処理していく。

三日目。

第四区画の処置がほぼ完了した。

第七区画の亀裂は、まだ残っている。

四日目。

作業中に、聖女アリシアが地下へ来た。

扉の前で、青い顔をして立っていた。

 

「入るつもりですか」

 

「……少し、話を聞いてもらえますか」

 

私は作業の手を止めた。

通路に二人で立つ。

アリシアは、手紙よりずっと小さく見えた。

 

「あの手紙、届きましたか」

 

「届きました」

 

「返事がなかったので、怒らせてしまったかと」

 

「怒ってはいません。

ただ、何を書けばいいかわからなかっただけです」

 

アリシアは俯いた。

 

「私が……私が知っていれば、と何度も思いました。

でも知らなかった。

そして知ろうともしなかった」

 

「あなたが知れる立場ではありませんでした。

グレイシュ家の業務は秘密裏のものでしたから」

 

「でも」

 

「アリシア様」

 

私は彼女を見た。

 

「あなたは悪人ではない。

ただ、善意と無知は時として、悪意と同じ結果を招く。

それだけのことです」

 

アリシアの目に、涙が浮かんだ。

 

「……それだけのこと、と言えるあなたが、私には」

 

「言えているわけではありません」

 

正直に答えた。

 

「ただ今は、怒りを感じる余裕がないだけです。

仕事が先です」

 

アリシアは小さく頷いた。

それ以上は何も言わなかった。

ただ、地下の入り口まで戻る私の背中を、しばらく見ていた気配がした。

 

五日目の夜。

作業を終えて地上へ戻ると、ヴァルツが城の門の外に立っていた。

 

「……なぜここに」

 

「様子を見に来た」

 

「ランツブルクから?」

 

「馬で半日だ。

大したことない」

 

私はしばらく、その男を見た。

強面で、無表情で、余計なことを言わない男。

 

「……仕事は大丈夫ですか、向こうは」

 

「問題ない。

マリアとかいう侍女が、なかなか優秀だ」

 

「そうですか」

 

「お前は」

 

ヴァルツが、真っ直ぐ私を見た。

 

「大丈夫か」

 

城の夜風が吹いた。

王都の空気は、まだ重い。

でも、前よりは少し、軽くなってきている。

 

「……大丈夫だと思います」

 

「思います、か」

 

「確信はありません。

ただ、あと二日で作業が終わります。

終わったら帰ります」

 

「そうか」

 

ヴァルツは頷いた。

 

「なら俺も二日、ここにいる」

 

「理由は」

 

「ない」

 

嘘だと思ったが、追及しなかった。

この男の傍にいると、呪いの気配が薄く感じる。

理由はわからない。

ただ、それだけで十分だった。


六日目の朝。

地下へ向かう前に、空を見上げた。

王都の空は、少しずつ色を取り戻しつつある。

五日間の作業で、蓄積した念の大半を処理した。

第七区画の亀裂も、あと一日あれば完全に塞げる。

終わりが見えてきた。

そう思った瞬間だった。

足元が、揺れた。

地面ではない。

空気が、揺れた。

地下の深いところから、何かが押し上げてくる感覚。

私は走った。

 

地下への扉を開けた瞬間、黒い靄が溢れ出てきた。

第七区画の封印が、崩れている。

昨日施した応急処置が、一夜にして破られていた。

通路の奥から、声がした。

泣き声でも笑い声でもない。

怒りの声だ。

低く、重く、壁を震わせるような唸り。

百年分の、積み重なった怒り。

 

「まずい」

 

走りながら、道具を取り出す。

第七区画の扉の前に着いた時、扉はすでに歪んでいた。

亀裂が、五本に増えている。

縁の黒い変色が、もう扉全体に広がっていた。

封印の術式を展開する。

光が広がり、亀裂の一本が塞がる。

二本目。

しかし三本目に差し掛かった瞬間、扉が内側から激しく叩かれた。

衝撃で術式が乱れる。

 

「くっ……」

 

足を踏ん張り、もう一度術式を組み直す。

こういう時、感情の摩耗が逆に役に立つ。

怖くない。

動じない。

ただ、作業をする。

しかし今夜の念の強さは、これまでとは桁が違った。

扉がまた叩かれる。

亀裂が増える。

術式を展開するそばから、崩れていく。

背後に足音がした。

振り返ると、ヴァルツが立っていた。

 

「何があった」

 

「封印が崩れかけています。

今すぐ地上に戻ってください」

 

「断る」

 

「危険です」

 

「お前だけが危険なのか」

 

言い返せなかった。

ヴァルツは私の隣に立った。

 

「俺に何かできることはあるか」

 

「……私が倒れたら、地上へ引きずり出してください」

 

「わかった」

 

それだけで十分だった。

私は再び術式を展開した。

 

扉が、割れた。

木材ではなく、封印そのものが、ひびを入れながら砕けていく。

黒い靄が通路に溢れ出す。

中から、形のない何かが押し出てくる。

怒りだ。

悲しみだ。

絶望だ。

百年分の、謀殺された三十七人の、行き場のない感情の塊。

それが私に、ぶつかってきた。

 

頭の中に、声が流れ込んできた。

なぜ殺された。

なぜ誰も助けなかった。

なぜ誰も知らないままだ。

なぜ。

なぜ。

なぜ。

私はそれを、受け取った。

受け取りながら、術式を展開し続ける。

これが呪い管理の仕事だ。

怨念を退けるのではない。

受け取って、鎮めて、送り出す。

それには感情が必要だ。

相手の感情を、自分の中に通す。

だから感情が削れる。

七年間、私はずっとこれをしていた。

 

靄が、さらに濃くなった。

三十七人分の怒りが、私の中を通り抜けていく。

一人目。

二人目。

ひとりひとりの、名前のない感情。

十人目を過ぎた頃、何かが溢れた。

私の中で、何かが崩れた。

怒りだった。

自分の怒りだ。

七年間、積み上げて、ずっと気付かなかったものが、他者の感情に触れて形を持った。

 

「私は……」

 

声が出た。

術式を維持しながら、言葉が溢れてきた。

 

「私は……好きで陰気だったわけじゃない……!」

 

誰に言うでもない。

ただ、出てきた。

 

「毎日来ていた。

誰にも言わずに、来ていた。

あなたたちの怒りを受け取るために、来ていた。

それで感情が削れて、陰気と笑われた。

呪われそうと、陰口を叩かれた。

それでも来ていた。

誰も知らなくても、来ていた……!」

 

声が震えた。

涙が出た。

七年間で初めて、涙が出た。

術式の光が広がる。

靄が薄れる。

三十七人の念が、一人ずつ、静かになっていく。

泣きながら、作業を続けた。

怒りを流しながら、術式を維持した。

これが、正しいやり方だと、今初めてわかった。

感情が削れていたから、うまくできていなかった。

感情があるから、念が通る。

鎮められる。

二十人。

三十人。

三十五人。

 

最後の一人の念が、私の中を通り抜けた時。

静かになった。

通路から、靄が消えた。

扉の亀裂が、ゆっくりと塞がっていく。

空気が、軽くなった。

私は膝をついた。

 

「……終わった」

 

ヴァルツが、すぐ隣にいた。

私の肩に、大きな手が置かれた。

何も言わなかった。

ただ、そこにいた。

 

どのくらい、そうしていたかわからない。

涙が止まった頃、私は立ち上がった。

膝の土を払う。

 

「見苦しいところを」

 

「見苦しくはない」

 

ヴァルツが静かに言った。

 

「……そうですか」

 

「ああ」

 

私たちは地上へ戻った。

 

城の外に出ると、空が明るかった。

朝の光が、まっすぐ降り注いでいる。

靄はない。

染みもない。

王都の空が、久しぶりに、ただの空だった。

 

宰相が駆け寄ってきた。

その後ろに、エドワルド殿下がいた。

 

「リディア嬢!

地下から光が……何があったのですか」

 

「第七区画の封印を、修復しました。

これで当面は大丈夫です」

 

宰相が深く頭を下げた。

 

「……ありがとうございます」

 

「条件はお忘れなく」

 

「もちろんです」

 

殿下が、一歩前に出た。

私を見る目が、これまでと違った。

どこか、剥き出しになったような目だった。

 

「リディア」

 

「殿下」

 

「戻ってきてくれ。

それは……婚約の話ではない。

ただ、戻ってきてくれ」

 

宰相が口を開いた。

 

「殿下、リディア嬢は」

 

「わかっている」

 

殿下は目を逸らさなかった。

 

「俺は七年間、何も知らなかった。

知ろうともしなかった。

それがどれほどの話か、昨夜ようやく宰相から聞いた」

 

「聞いて、どうされましたか」

 

「……言葉が出なかった」

 

「そうですか」

 

「お前が一人で支えていたものを、俺は笑い飛ばした。

陰気だと、意味がわからないと。

そして追い出した」

 

宰相が、静かに言った。

 

「殿下が追い出した女性が、ずっとこれを抑えていたのです。

七年間、毎日、誰にも知られずに」

 

殿下の顔が、歪んだ。

謝罪の言葉を探しているのか、それとも別の言葉か。

どちらにせよ、私には関係のない話だ。

 

「殿下、申し上げます」

 

私は真っ直ぐ、殿下を見た。

 

「私はもう、王城に戻りません。

定期業務の契約については、改めて文書で条件を提示します。

月に一度、二泊三日の点検業務として受けることは可能です。

ただし私の拠点は辺境のままです」

 

「しかし――」

 

「殿下、ひとつだけ」

 

殿下が口を閉じた。

 

「私は王城の呪いを憎んでいません。

あの地下で鎮めてきた念も、憎んでいません。

ただ、私自身の人生を、私が選んでいい。

それだけのことです」

 

殿下は、何も言わなかった。

言えなかったのかもしれない。

私は一礼して、背を向けた。

 

城門を出たところで、ヴァルツが並んだ。

 

「帰るか」

 

「帰ります」

 

「馬の手配をする」

 

「ありがとうございます」

 

歩きながら、王都の通りを見た。

店が開いている。

子供が走っている。

普通の朝だ。

この町の人たちは知らない。

昨夜、城の地下で何があったか。

それでいい。

知らなくていいものは、知らなくていい。

 

「ヴァルツさん」

 

「何だ」

 

「泣いているところを見ていましたね」

 

「見た」

 

「……言いふらさないでください」

 

ヴァルツは少し間を置いた。

 

「誰に言う」

 

「それもそうですね」

 

この辺境の騎士団長が、呪い相談所の術者の話を誰かに語る場面が、まったく想像できなかった。

口の端が、上がった。

昨日より、はっきりと。

 

王都を発ったのは、昼過ぎだった。

馬車の窓から、城の尖塔が遠ざかっていくのを見た。

今度は、少し感傷があった。

七年間通い続けた場所だ。

怨念と暗い通路と、誰も知らない仕事の場所。

嫌いではなかった。

ただ、もうここに縛られなくていい。

そう思うと、胸がすっと軽くなった。

 

ランツブルクに着いたのは、翌日の夕方だった。

家の前に、マリアが立っていた。

顔を見るなり、駆け寄ってきた。

 

「リディア様!

お帰りなさいませ!

お怪我はないですか、顔色は、ちゃんと眠れましたか」

 

「大丈夫。

ただいま」

 

「ただいま、って……!

初めて言いましたね、そんな風に……!」

 

マリアが目を潤ませた。

そうだったかもしれない。

家に入ると、相談所の応接室に案件の書類が積んであった。

ヴァルツが対応してくれていたらしい。

几帳面な字で、依頼内容と優先度が書かれている。

 

「几帳面ですね」

 

ヴァルツが後ろから言った。

 

「騎士団長の仕事は書類仕事も多い」

 

「手伝ってもらいましたね」

 

「暇だった」

 

嘘だと思ったが、また追及しなかった。

マリアがお茶を出してくれた。

久しぶりの、この家のお茶の味だ。

温かかった。

 

三人で応接室に座った。

外では、夕方の光が山を染めている。

空気は清潔で、呪いの気配が薄い。

私の好きな空気だ。

 

「明日から、また仕事ですか」

 

マリアが言った。

 

「そうですね」

 

「積んであります、案件が」

 

「見ました。

順番に片付けます」

 

マリアがほっとした顔をした。

ヴァルツはお茶を飲んでいた。

今日は飲んでいる、と思った。

 

「ヴァルツさん」

 

「何だ」

 

「いつもお茶を飲まずに帰るのに、今日は飲んでいますね」

 

少しの間があった。

 

「……今日は急いでいない」

 

それだけ言って、またカップを持った。

私も飲んだ。

山の見える窓。

積んである書類。

お茶の温度。

十分だと思った。

これで十分だ。

 

そこへ、扉がノックされた。

マリアが開けると、中年の男性が立っていた。

顔が青い。

目の下に隈がある。

明らかに、数日は眠れていない顔だ。

 

「あの、こちらが……呪い相談所、でしょうか」

 

「はい」

 

私はカップを置いた。

 

「助けてください。

妻が……妻が古道具屋で人形を買ってきたんですが、それを手放さなくなって。

毎晩、その人形が喋っているような声がして……」

 

ヴァルツが静かに立ち上がった。

 

「仕事だな」

 

「そうですね」

 

私は書類を手に取った。

山は夕焼けで赤く染まっている。

明日の案件が、また増えた。

 

でも今は、それでいい。

 





終幕


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