婚約破棄された呪術令嬢ですが、今さら「戻ってこい」と言われても王城の呪いはもう止まりません
シャンデリアの光が、眩しかった。
卒業舞踏会。
ハリングフォード王立学院の最後の夜。
煌めく衣装と笑い声と甘い香水の混じる大広間の片隅で、私はひとり、壁の染みを確認していた。
正確には染みではない。
ぼんやりとした、灰色の滲み。
人の負の感情が、長年かけて凝り固まったものだ。
今夜は人が多い分、少し濃い。
嫉妬、焦燥、劣等感、虚栄心――そういったものが空気に溶けて、壁に沁み込んでいく。
普通の人には見えないし、感じることもできない。
私には、見える。
「リディア!」
反射的に顔を上げる。
王太子エドワルド殿下が、大勢の視線を引き連れながら、まっすぐこちらへ歩いてくる。
その隣には聖女アリシアが寄り添い、頬をわずかに染めていた。
ああ、と思う。
今夜か。
「お前との婚約を破棄する!」
ホールに声が響いた。
会場がざわめき、視線が一斉に私へ集まる。
私は静かに息を吸った。
「……承知しました」
「お前のような陰気な女が王妃に相応しくない!
明るく、清らかで、民に愛されるような女性こそ、この王国に必要なのだ!」
陰気。
よく言われる。
社交界では陰気、不気味、呪われそう、と陰口を叩かれているのは知っている。
知っていても、特にどうこうする気にもなれなかった。
理由がある。
ちゃんとした理由が。
ただし、それを今この場で説明するつもりはない。
私はドレスの裾を持ち上げ、一礼した。
そのまま踵を返す。
扉へ向かいながら、私は一言だけ告げた。
「では、本日をもって、王城の呪術管理業務を終了します」
殿下の声が、一拍遅れる。
「……は?」
「七年間の業務引き継ぎ資料については、グレイシュ家よりお送りします。
なお、現時点でいくつかの封印が補修時期を過ぎております。
早急なご対処をお勧めします」
「何を言っている?
最後まで意味の分からない女だ」
殿下の声には嘲笑が混じっていた。
私は振り返らなかった。
振り返る理由が、ない。
外に出ると、夜風が頬に触れた。
五月の空気は清潔で、少し冷たい。
城壁の表面をちらりと確認する。
地下から這い上がろうとしている気配が、いつもよりやや強い。
「……三日は持つかな」
独り言が、夜に消えた。
実のところ、もう少し早めに補修しておきたかった封印が、地下の第四区画にある。
ただ今夜はもう、私には関係のない話だ。
馬車を呼んで、屋敷へ帰る。
七年間通い続けた王城を振り返ることもなく。
翌朝、父に報告した。
「昨夜、婚約破棄を受け入れました。
業務の終了も宣言してきました」
父は書類から顔を上げ、長い沈黙の後、深いため息をついた。
「……そうか」
「はい」
「怪我はないか」
「ありません」
「辛くはなかったか」
少し考えた。
辛い、という感覚が、正直なところあまりよくわからない。
呪いを日常的に浴び続けると、感情の輪郭が少しずつ削れていく。
喜びも、悲しみも、怒りも、どこかぼんやりとしてしまう。
陰気と言われるのはそのためだ。
好き好んで無表情なわけではない。
「特には」
父は窓の外を見た。
王都の空は、今日も青い。
「お前が七年間、あそこで何をしてきたか。
殿下はついに、知らないままだったな」
「知る必要もなかったのでしょう。
私がいたから」
父は何も言わなかった。
言葉の代わりに、ひとつ頷く。
それで十分だった。
その夜のことは、後から使用人の報告で聞いた。
王太子殿下の私室の鏡に、女が映ったと侍女が証言したという。
殿下が振り向いた時、部屋には誰もいなかった。
翌朝には、枕に髪の毛が大量に落ちていたとのことだ。
私はその話を、グレイシュ邸の庭でお茶を飲みながら聞いた。
「……なるほど」
「リディア様、大丈夫なのでしょうか、あちらは」
侍女のマリアが、恐る恐るといった様子で言う。
「大丈夫ではないでしょうね」
「え」
「第四区画の封印が崩れかけていましたから。
あそこは特に、処刑された者たちの念が強い場所です。
半年に一度は補修が必要なのですが、私が最後に手を入れてから、もう三ヶ月が経っていました」
「そ、それは……」
「殿下が引き継ぎ資料をお読みになれば、対処できる術者を探せるかもしれません。
昨日お送りしましたから」
「読んでいただけると思いますか?」
少し考えた。
あの殿下が、意味不明だと切り捨てた女の書いた資料を、真剣に読むかどうか。
「……さあ」
カップを置く。
お茶は少し冷めていたが、悪くない味だった。
二日目。
廊下で足音がする、誰もいない、と近衛騎士が報告。
深夜に扉を叩く音がして、開けると廊下は空だった、と侍女が証言。
城の東回廊にある大きな肖像画の目が動いた、と近衛兵が血相を変えて上官に報告したが、笑い飛ばされた。
翌日には同じ証言をする者が二人になり、三日目には五人になった。
三日目の深夜。
聖女アリシアが悲鳴を上げた。
「毎晩、黒い女が立ってるの……!
部屋の隅に……じっと、こっちを見てるの……!」
宰相ロッシュ卿が緊急会議を招集し、城の神官を呼び、祈祷師を呼び、清めの香を焚かせた。
何も変わらなかった。
そんな報告を受けながら、私は辺境移住の準備を進めていた。
引き継ぎ資料の補足を書き、呪術道具の梱包を確認し、移住先の物件の図面を眺める。
婚約破棄の翌々日に移住を発表したところ、問い合わせが殺到した。
グレイシュ家が呪い管理の家系であるという噂は、思ったより広まっていたようだ。
四日目の午前。
宰相ロッシュ卿が、直接屋敷を訪ねてきた。
応接間で向かい合うと、老いた顔に疲労と焦りが滲んでいた。
「リディア嬢。
ご無礼を承知の上で参りました」
「何用でしょうか」
「城の……城の地下が、おかしい。
第四区画の封印壁に亀裂が入り、昨夜からネズミが大量に出ています。
それが、その」
宰相は言葉を選ぶように間を置いた。
「……人語を、喋るのです」
マリアがお茶を持つ手を止めた。
私は静かに頷く。
「それは確かに、良くない状態ですね」
「戻ってきてください!
報酬は何でも!
婚約のことは……婚約のことは、もう一度考え直していただけるよう、私から殿下に」
「必要ありません」
「え」
「婚約については。
そちらは要りません」
「では報酬を!」
「今は予約が埋まっております」
宰相が固まった。
「……よ、予約?」
「はい。
昨日から依頼が三件入りまして。
来週からは四件目のご相談もあります。
辺境での開業を発表したところ、ありがたいことで」
「リディア嬢!
城が、本当に崩れかねないのです!」
「引き継ぎ資料はお読みになりましたか」
沈黙。
宰相はゆっくりと目を逸らした。
答えが出た。
資料には第四区画の補修方法と、対応できる術者の連絡先を記載してある。
王都に三名おり、腕前は私より劣るが、応急処置は可能だ。
「しかし!」
「宰相閣下」
私は宰相を見た。
「私はもう、王城の雇用者ではありません。
グレイシュ家と王家の契約は、婚約の成立を前提としていました。
婚約が破棄された今、契約は失効しています」
「そんな契約など……」
「存在します。
三代前に締結されたもので、写しはグレイシュ家の書庫にあります」
宰相は額に手を当てた。
年齢より老けて見えた。
長い沈黙の後、立ち上がる。
「……御礼申し上げます、リディア嬢。
七年間、誰も知らぬまま、よく尽くしてくださいました」
私は一礼した。
「お気をつけてお帰りください」
宰相が去った後、マリアが言った。
「リディア様、怒らなかったんですね」
「何に?」
「だって、七年間も誰も知らなかったなんて」
私はカップを手に取った。
怒る、という感覚も、実のところあまり明確ではない。
ただ、少し、疲れている気はする。
「ずっと呪いの側にいると、感情が削れていくの」
「え?」
「怒りも、悲しみも、喜びも。
呪いに浸かり続けると、そういうものが薄くなっていく。
陰気と言われるのはそのためよ」
マリアは何か言いたそうだったが、何も言わなかった。
窓の外では、王都の陽光が普通に降り注いでいる。
五日後には、辺境へ発つ予定だ。
出発の朝。
荷物は少ない。
呪術道具一式と着替えと、父からもらった書類の束。
三代分の呪術管理記録。
「辺境にも、きっと色々あるだろう」
父が言った。
「はい」
「手紙を書け。
返事は遅いかもしれんが、読んでいる」
「わかりました」
馬車に乗る前に、一度だけ王都の空を見上げた。
どこか、薄い。
王城の方角から、うっすらとした灰色の気配が漂っている。
三か所の封印崩壊は、まだ序章に過ぎない。
あの地下には、まだ眠っているものが幾つもある。
「……後は、知らない」
誰に言うでもなく、呟いた。
馬車のドアを閉める。
車輪が動き出した。
窓から王都が遠ざかるのを、私は特別な感傷もなく見送った。
辺境の町ランツブルクは、思ったよりずっと生き生きとしていた。
王都と比べれば地味で、道は石畳ではなく砂利敷きで、建物も低く素朴だ。
だが空気が、清潔だった。
呪いの濃度が薄い。
長年、王城地下の重く淀んだ空気の中で過ごしてきた身には、それだけで十分すぎる理由だった。
借り受けた家は、町の外れの二階建てだ。
一階を相談所にして、二階を住居にする。
看板を出した翌日から、客が来た。
一人目は、新しく買い取った倉庫から毎晩物音がすると言う商人。
二人目は、代々幽霊が出ると噂の屋敷を持て余している貴族。
三人目は、妻が拾った人形を手放さなくなったと困惑する農夫。
どれも、ありふれた案件だ。
効率よく処理していると、四日目に騎士団の副官がやってきた。
「呪い相談所の方ですか。
うちの団長から伝言があって」
「どうぞ」
「団長が言うには、『よそ者が一人で変な仕事をしているなら一度話を聞く』とのことです」
なかなか失礼な言い方だと思ったが、表情には出なかった。
「団長にお伝えください。
よろしければいつでもどうぞ、と」
翌朝、騎士団長が来た。
背が高い。
傷のある顔に、無表情。
強面という言葉がよく似合う男だった。
名をヴァルツ・クライン。
辺境騎士団長。
彼はまっすぐこちらを見て、単刀直入に言った。
「何ができる」
「呪いの除去、封印の補修、呪物の解体、悪霊の祓い、憑依案件全般です」
「怪異の目撃情報が出たとき、協力を頼めるか」
「案件によります」
「条件は?」
「危険度に応じた報酬と、現場への同行者。
術者は単独行動を推奨しません」
ヴァルツは少しの間、私を見た。
見定めるような目つきだったが、嫌ではなかった。
「わかった」
それだけ言って、彼はお茶も飲まずに立ち上がった。
「また来る」
「どうぞ」
扉が閉まる。
応接間に、静かな空気が戻った。
私はカップを手に取る。
お茶はもうすっかり冷めていたが、なぜか、少しだけ温かい気がした。
辺境での生活は、思いのほか性に合っていた。
王都の社交界と違い、ここでは誰も私を「陰気な侯爵令嬢」と見ない。
呪い相談所の看板を出した翌週には、口コミで依頼が増え、二週目には予約が一週間先まで埋まった。
客層は様々だ。
代々続く祟りに悩む旧家の当主。
事故が頻発する鉱山の責任者。
夜ごと奇妙な夢を見るという元兵士。
どれも放置すれば拗れる案件ばかりで、仕事は途切れない。
むしろ王城の定期業務より、ずっと忙しいくらいだ。
「最近、顔色がいいですよ、リディア様」
マリアが言った。
「そうかしら」
「なんというか……少し、柔らかくなった感じがします」
自分ではよくわからない。
ただ確かに、ここの空気は軽い。
呪いの濃度が薄い分、感情の削れ具合が緩やかだ。
朝、窓を開けると遠くの山が見える。
王都では見えなかったものが、ここには普通にある。
「ところでリディア様、また王都から手紙が来ています」
「何通目?」
「今週で六通目です」
「……積んでおいて」
「積むのですか」
「読む時間がないのよ。
予約が詰まっているから」
マリアは何か言いたそうな顔をしたが、黙って手紙を脇のテーブルへ重ねた。
六通の封筒が、しずかに積み上がっている。
差出人はいずれも王城関係者だ。
宰相、宮廷神官長、近衛隊長、そして一通だけ、見覚えのない筆跡のもの。
後で読もう、とは思っている。
ただ今は、十時の予約客を待っていた。
ヴァルツが来たのは、昼過ぎのことだ。
扉を開けるなり、いつもの無表情のまま言った。
「北の廃村に怪異が出た。
住民が近づけないと言っている」
「規模は」
「半径二百メートルほど、霧が晴れないらしい。
夜になると声がする、と」
「声の種類は」
「泣き声と、笑い声が混在している、とのことだ」
私はカップを置いた。
泣き声と笑い声の混在は、感情の残滓が飽和しているサインだ。
長年誰も手を入れていない場所に溜まった念が、形を持ち始めている。
「明日の午前であれば行けます」
「わかった。
馬は俺が手配する」
「同行は?」
「俺が行く」
言ってから、ヴァルツは少し間を置いた。
「……問題あるか」
「ありません。
ただひとつ確認ですが、怪異を見ても動じない方ですか」
「怪異というのが何かよくわからんが、怖くはない」
「幽霊が目の前に出ても?」
「出たことがないのでわからん」
正直な答えだと思った。
「では明日、夜明け前にここへ来てください」
「承知した」
ヴァルツはそれだけ言って、また扉を閉めた。
相変わらず、お茶を飲まない男だ。
ただその背中は、思ったより頼もしい。
その夜。
積み上がっていた手紙を、ようやく読んだ。
宰相からが三通、神官長からが二通、近衛隊長からが一通。
内容はどれも似たようなものだ。
状況が悪化している、早急に戻ってほしい、報酬は交渉する、という趣旨。
最後の一通を手に取る。
見覚えのない筆跡。
封を切ると、短い文面が出てきた。
「突然のご連絡をお許しください。
聖女アリシアと申します。
リディア様に、直接お詫びを申し上げたく、筆を執りました」
読み進める。
文面は丁寧で、飾り気がなかった。
彼女は自分が、私の仕事の重要性を全く知らずに、婚約破棄を後押ししてしまったと書いていた。
エドワルド殿下に「陰気な婚約者より、あなたのような聖女の方が王妃に相応しい」と言われた時、彼女は単純に喜んでしまった、と。
今になって城で何が起きているかを知り、自分が何をしてしまったかを理解した、とも。
最後の一文。
「あなたを陥れようとしたわけではありませんでした。
ただ、知らなかったのです。
その無知が、どれほどの結果を招いたか。
今さら申し訳ないとは思っていますが、それでも伝えずにはいられませんでした」
手紙を、膝の上に置いた。
怒りが来るかと思ったが、来なかった。
ただ、少し疲れた気持ちになった。
悪意がなかったのはわかる。
彼女はきっと、本当に善良な人間だ。
ただ善意と無知が組み合わさると、時として悪意より深く人を傷つける。
それが七年分、積み重なっていた。
返事は書かなかった。
今は書く言葉が見つからない。
いつか、気持ちが整理されたら書こう。
そう思いながら、手紙を引き出しに入れた。
翌朝。
夜明け前にヴァルツが来た。
馬を二頭引いてきた。
私は呪術道具の入った鞄を肩にかけ、外へ出る。
空は薄い藍色で、星がまだ残っている。
「寒くないか」
ヴァルツが言った。
「平気です」
「そうか」
それだけで、馬が動き出した。
北の廃村までは、馬で一時間ほどだ。
道中、ヴァルツはほとんど喋らなかった。
私も喋らなかった。
ただ、沈黙が苦ではなかった。
王都での沈黙は、常に何かを隠すための沈黙だった。
この人の沈黙は、ただの沈黙だ。
廃村の手前で、霧が見えた。
晴れた朝にもかかわらず、白い霧が低く立ち込めている。
馬が止まろうとするのを、ヴァルツが静かに落ち着かせた。
「これが怪異か」
「霧ではありません。
念の可視化です。
この濃度は……かなり長年放置されていますね」
「危険か」
「中に入れば影響を受けます。
私は大丈夫ですが、あなたは」
「俺も行く」
「頭痛や吐き気が出たら、すぐ言ってください」
「わかった」
二人で馬を降り、村の入り口へ進む。
霧の中に入った瞬間、温度が下がった。
空気が重い。
耳の奥で、かすかに泣き声がする。
ヴァルツは表情を変えない。
霧の中を見回して、静かに立っている。
「何が見える」
「霧と、古い建物だけだ」
普通の人には霧にしか見えない。
私には見える。
至る所に、灰色の影が漂っている。
怒りや悲しみが固まった残滓だ。
この村では昔、何かがあったのだろう。
私は鞄から道具を取り出し、作業を始めた。
一時間後。
霧が薄れ始めた。
ヴァルツはその間、一度も騒がず、ただ黙って私の周囲を守るように立っていた。
怪異の類が全く見えていないのに、その場を離れなかった。
「終わりました」
「そうか。
お疲れ」
短い言葉だったが、何か温かいものがあった。
帰り道、ヴァルツが言った。
「お前は、仕事中に顔が変わるな」
「変わりますか」
「集中している時、少し……なんというか、生きている感じがする」
少し考えた。
「それは多分、呪いに向き合っている時だけ、感情が戻るからだと思います」
「戻る?」
「普段は削れているんです。
長年、呪いの近くにいたので」
ヴァルツはしばらく黙っていた。
馬の蹄の音だけが、朝の道に響く。
「……そうか」
それだけだった。
それ以上は何も言わなかった。
ただその短い言葉の中に、責めも憐れみもなく、ただ受け取った、という重さがあった。
私はそれを、不思議と心地よく感じた。
ランツブルクに戻ると、マリアが血相を変えて駆け寄ってきた。
「リディア様!
王都から使者が来ています!
今度は近衛騎士が直接!」
応接間を覗くと、近衛の制服を着た若い騎士が、緊張した面持ちで立っていた。
「グレイシュ嬢、急ぎお伝えに参りました。
昨夜、王城地下の第四区画と第七区画の封印が同時に崩壊しました。
現在、城の東翼で原因不明の怪現象が続いており、複数の使用人が倒れています」
「第七区画も」
思わず呟いた。
第七区画は、第四よりさらに古い封印だ。
百年以上前に私の曾祖母が施した封印で、その下には……。
「グレイシュ嬢、どうか戻っていただけないでしょうか。
宰相閣下も、陛下も、今はただ」
「少し時間をください」
静かに言った。
騎士が口を閉じる。
私は窓の外を見た。
ランツブルクの空は今日も澄んでいて、遠くの山に雪が光っている。
この仕事が好きだ。
この空気が好きだ。
この静かな沈黙が好きだ。
ただ、第七区画の封印が崩れたなら、話は変わる。
あそこに眠っているものは、応急処置で止まるレベルではない。
「……わかりました」
「では!」
「ただし条件があります。
ひとつ、報酬は正式契約で。
ふたつ、私の指示に従っていただく。
みっつ」
少し間を置いた。
「私の仕事が何であるか、今後は王城関係者全員に正式に周知すること。
知らなかった、では済まない状況になりますので」
騎士は何度も頷いた。
「承知しました、全て宰相閣下にお伝えします」
「では明後日、王都へ向かいます。
ここの案件を一件片付けてから」
騎士が退室した後、ヴァルツが入り口に立っているのに気付いた。
いつ来たのか、わからなかった。
「聞いていたんですか」
「扉が開いていたので」
「……そうですか」
ヴァルツは腕を組んで、静かに言った。
「お前は見捨てると後悔するタイプだろ」
図星だったので、答えなかった。
「行ってこい。
ここの案件は、戻ってから片付ければいい」
「でも予約が」
「俺から客に説明する」
「……あなたが?」
「何か問題あるか」
この強面の騎士団長が、呪い相談所の予約客に説明して回る図を想像した。
「……お願いします」
少しだけ、口の端が上がった気がした。
自分でも気付かないほど、わずかに。
翌日。
王都へ向かう馬車の中で、私は久しぶりに王城の地下を思い浮かべた。
第四区画、第七区画。
崩れた封印の下に何が眠っているか、私はよく知っている。
王族と貴族が長年かけて積み上げてきた腐敗と欺瞞、そこから生まれた国民の怨念。
一人の女が七年間、毎日少しずつ抑えてきたものだ。
今、それが一気に解放されようとしている。
窓の外を流れる景色を見ながら、私は静かに道具の確認をした。
怒りは、ない。
悲しみも、ない。
ただ、仕事だという感覚が、じわりと戻ってくる。
これが私の呪いだ、と思う。
誰かが困っていれば、行かずにはいられない。
たとえ、その誰かが私を追い出した相手でも。
馬車が王都へ向けて、速度を上げた。
王都が見えてきた頃、空の色が変わっていた。
晴れているのに、どこか濁っている。
光の質が悪い、とでも言うべきか。
呪いに慣れた目には、すぐわかる。
王城の方角から、灰色の靄が薄く広がっていた。
「……思ったより、早い」
独り言が、馬車の中に落ちた。
私の見立てでは、もう二週間は持つはずだった。
封印の崩壊速度が、予想を上回っている。
理由は、わかっている。
王族と貴族の腐敗が、私の想定より深かったのだ。
国民の怨念が、それだけ蓄積していた。
私が一人で七年間抑えてきたものの総量を、改めて実感する。
馬車が王城の門をくぐると、出迎えた宰相の顔は見違えるほど老けていた。
「よく来てくださいました、リディア嬢」
「状況を教えてください。
詳しく」
「はい、はい。
まず第四区画ですが――」
宰相が早口で説明する間、私は城の壁を確認した。
いたる所に、灰色の染みが広がっている。
以前は毎日手入れをしていたから、ここまで可視化されることはなかった。
二週間で、随分と広がったものだ。
「第七区画の封印は、現在どんな状態ですか」
「亀裂が……亀裂が三本入っています。
夜になると地下から声が聞こえ、昨日は地下への扉が内側から激しく叩かれました」
「中から」
「はい」
私は目を閉じた。
第七区画の封印の下には、かつてこの王城で謀殺された三十七人分の念が眠っている。
曾祖母が一生をかけて封じたものだ。
それが起き上がろうとしている。
「わかりました。
まず地下へ行きます。
案内してください」
「リディア嬢」
宰相が、少し躊躇うような顔をした。
「殿下が……殿下も、お会いしたいと」
「後でよければ」
「は、はい」
宰相が先導する廊下を歩きながら、私は城の空気を読んでいた。
使用人たちが、遠くから私を見ている。
怖れているのか、安堵しているのか、その両方か。
前よりずっと、陰気な顔をした者が多い。
城に巣食った呪いの影響だ。
気力が落ちる、眠れない、理由のない不安に駆られる。
普通の人はその原因がわからないまま、じわじわと蝕まれていく。
地下への扉の前で、近衛騎士が二人、青い顔で立っていた。
「ご苦労様です。
扉を開けてください」
「し、しかし昨夜から――」
「大丈夫です」
断言すると、騎士は黙って鍵を抜いた。
扉が開いた瞬間、どっと重い空気が押し出てきた。
宰相が小さく呻く。
私は平然と中へ入った。
地下は、変わり果てていた。
私が毎日手入れをしていた頃は、薄暗いが清潔な石造りの通路だった。
今は壁一面に、黒い染みが広がっている。
足元には、細かいひびが無数に走っていた。
第四区画。
亀裂から、もやが漏れ出ている。
ここはまだ、処置できる。
問題は、第七区画だ。
通路の奥へ進むほど、空気が重くなる。
温度が下がる。
かすかな泣き声が、壁の内側から聞こえてくる。
第七区画の扉の前で、私は立ち止まった。
扉の表面に、三本の亀裂が走っている。
その縁が、黒く変色していた。
私は鞄を下ろし、道具を取り出した。
作業は三時間かかった。
第七区画の亀裂を一時的に封じ、第四区画の崩壊部分に応急処置を施す。
完全な修復ではない。
今の私一人では、時間がかかりすぎる。
それでも、最悪の事態は当面免れた。
地上へ戻ると、宰相と神官長が廊下で待っていた。
「どうでしたか」
「一時的に抑えました。
ただし、完全な修復には一週間はかかります。
毎日作業が必要です」
「一週間……」
「それと、根本的な問題を申し上げていいですか」
宰相が背筋を伸ばした。
「どうぞ」
「第七区画の封印が崩れかけているのは、封印が古くなったからだけではありません。
この国の民の怨念が増大し続けているからです。
腐敗した政治、理不尽な税、不正が罰せられない現状――そういったものが積み重なって、呪いになっています。
私が毎日手を入れていたのは、その増加分を日々処理していたからです。
王城そのものが、この国の歪みを吸収し続けていました」
宰相の顔が、青くなった。
「つまり……」
「封印を修復しても、元凶が変わらなければ、また崩れます。
私が戻っても、また同じことが起きます」
長い沈黙。
「……肝に銘じます」
宰相の声は、静かだった。
それ以上は言わなかった。
言うべき言葉を、私は持っていない。
これは術者の仕事の外だ。
その夜、殿下に呼ばれた。
応接室に入ると、エドワルド殿下は椅子に座っていた。
いつもの傲慢な姿勢ではなく、どこか縮んで見えた。
髪が、抜け落ちていた。
思っていたより、深刻な状態だ。
髪の抜けは、怨念が近くにある者に出やすい症状だ。
殿下は私を見ると、唇を開いた。
「リディア……」
「殿下、敬語は不要です。
今日はただの術者として来ています」
殿下が口を閉じた。
また開く。
「戻ってきてくれないか」
「婚約者として、という意味でしたら、お断りします」
「それは……」
「術者として定期契約を結ぶことは、条件次第で検討します。
先ほど宰相閣下にお伝えした三つの条件が受け入れられるなら」
殿下はしばらく黙っていた。
私も黙っていた。
応接室の壁に、薄い染みが広がっている。
殿下の近くの空気は、特に重い。
「……俺は、お前が何をしていたか知らなかった」
「はい」
「知ろうともしなかった」
「そうですね」
「それについては……」
殿下が、目を逸らした。
謝罪の言葉が来るかと思ったが、来なかった。
プライドが邪魔をしているのか、言葉が見つからないのか。
どちらでもよかった。
私はもう、この人に何かを求めていない。
「殿下、ひとつだけ申し上げます」
「何だ」
「私が陰気なのは、この城の呪いを一人で浴び続けていたからです。
好きでそうなったわけではありません」
殿下の顔が、固まった。
私は続ける。
「七年間、毎日地下へ通いました。
処刑された者の念を鎮め、謀殺された者の怒りを封じ、戦争で死んだ者の絶望を抑えていました。
誰にも言わずに、それをしていました。
陰気だと嘲笑われながら、それをしていました」
声は平坦だった。
怒りも悲しみもない。
ただ、事実だけを並べる。
「それを知っておいてほしかった。
ただそれだけです」
殿下は何も言わなかった。
私は礼をして、部屋を出た。
廊下を歩きながら、自分の手を見た。
震えていない。
涙も出ない。
ただ、胸のどこかが、わずかに軽くなった気がした。
言えた、と思う。
七年分のことを、全部ではないが、少しだけ。
翌日から、地下の作業が続いた。
毎朝、夜明けと共に地下へ入り、夕方まで封印の補修をする。
地道な作業だ。
壁の亀裂を塞ぎ、染みを取り除き、蓄積した念を少しずつ処理していく。
三日目。
第四区画の処置がほぼ完了した。
第七区画の亀裂は、まだ残っている。
四日目。
作業中に、聖女アリシアが地下へ来た。
扉の前で、青い顔をして立っていた。
「入るつもりですか」
「……少し、話を聞いてもらえますか」
私は作業の手を止めた。
通路に二人で立つ。
アリシアは、手紙よりずっと小さく見えた。
「あの手紙、届きましたか」
「届きました」
「返事がなかったので、怒らせてしまったかと」
「怒ってはいません。
ただ、何を書けばいいかわからなかっただけです」
アリシアは俯いた。
「私が……私が知っていれば、と何度も思いました。
でも知らなかった。
そして知ろうともしなかった」
「あなたが知れる立場ではありませんでした。
グレイシュ家の業務は秘密裏のものでしたから」
「でも」
「アリシア様」
私は彼女を見た。
「あなたは悪人ではない。
ただ、善意と無知は時として、悪意と同じ結果を招く。
それだけのことです」
アリシアの目に、涙が浮かんだ。
「……それだけのこと、と言えるあなたが、私には」
「言えているわけではありません」
正直に答えた。
「ただ今は、怒りを感じる余裕がないだけです。
仕事が先です」
アリシアは小さく頷いた。
それ以上は何も言わなかった。
ただ、地下の入り口まで戻る私の背中を、しばらく見ていた気配がした。
五日目の夜。
作業を終えて地上へ戻ると、ヴァルツが城の門の外に立っていた。
「……なぜここに」
「様子を見に来た」
「ランツブルクから?」
「馬で半日だ。
大したことない」
私はしばらく、その男を見た。
強面で、無表情で、余計なことを言わない男。
「……仕事は大丈夫ですか、向こうは」
「問題ない。
マリアとかいう侍女が、なかなか優秀だ」
「そうですか」
「お前は」
ヴァルツが、真っ直ぐ私を見た。
「大丈夫か」
城の夜風が吹いた。
王都の空気は、まだ重い。
でも、前よりは少し、軽くなってきている。
「……大丈夫だと思います」
「思います、か」
「確信はありません。
ただ、あと二日で作業が終わります。
終わったら帰ります」
「そうか」
ヴァルツは頷いた。
「なら俺も二日、ここにいる」
「理由は」
「ない」
嘘だと思ったが、追及しなかった。
この男の傍にいると、呪いの気配が薄く感じる。
理由はわからない。
ただ、それだけで十分だった。
六日目の朝。
地下へ向かう前に、空を見上げた。
王都の空は、少しずつ色を取り戻しつつある。
五日間の作業で、蓄積した念の大半を処理した。
第七区画の亀裂も、あと一日あれば完全に塞げる。
終わりが見えてきた。
そう思った瞬間だった。
足元が、揺れた。
地面ではない。
空気が、揺れた。
地下の深いところから、何かが押し上げてくる感覚。
私は走った。
地下への扉を開けた瞬間、黒い靄が溢れ出てきた。
第七区画の封印が、崩れている。
昨日施した応急処置が、一夜にして破られていた。
通路の奥から、声がした。
泣き声でも笑い声でもない。
怒りの声だ。
低く、重く、壁を震わせるような唸り。
百年分の、積み重なった怒り。
「まずい」
走りながら、道具を取り出す。
第七区画の扉の前に着いた時、扉はすでに歪んでいた。
亀裂が、五本に増えている。
縁の黒い変色が、もう扉全体に広がっていた。
封印の術式を展開する。
光が広がり、亀裂の一本が塞がる。
二本目。
しかし三本目に差し掛かった瞬間、扉が内側から激しく叩かれた。
衝撃で術式が乱れる。
「くっ……」
足を踏ん張り、もう一度術式を組み直す。
こういう時、感情の摩耗が逆に役に立つ。
怖くない。
動じない。
ただ、作業をする。
しかし今夜の念の強さは、これまでとは桁が違った。
扉がまた叩かれる。
亀裂が増える。
術式を展開するそばから、崩れていく。
背後に足音がした。
振り返ると、ヴァルツが立っていた。
「何があった」
「封印が崩れかけています。
今すぐ地上に戻ってください」
「断る」
「危険です」
「お前だけが危険なのか」
言い返せなかった。
ヴァルツは私の隣に立った。
「俺に何かできることはあるか」
「……私が倒れたら、地上へ引きずり出してください」
「わかった」
それだけで十分だった。
私は再び術式を展開した。
扉が、割れた。
木材ではなく、封印そのものが、ひびを入れながら砕けていく。
黒い靄が通路に溢れ出す。
中から、形のない何かが押し出てくる。
怒りだ。
悲しみだ。
絶望だ。
百年分の、謀殺された三十七人の、行き場のない感情の塊。
それが私に、ぶつかってきた。
頭の中に、声が流れ込んできた。
なぜ殺された。
なぜ誰も助けなかった。
なぜ誰も知らないままだ。
なぜ。
なぜ。
なぜ。
私はそれを、受け取った。
受け取りながら、術式を展開し続ける。
これが呪い管理の仕事だ。
怨念を退けるのではない。
受け取って、鎮めて、送り出す。
それには感情が必要だ。
相手の感情を、自分の中に通す。
だから感情が削れる。
七年間、私はずっとこれをしていた。
靄が、さらに濃くなった。
三十七人分の怒りが、私の中を通り抜けていく。
一人目。
二人目。
ひとりひとりの、名前のない感情。
十人目を過ぎた頃、何かが溢れた。
私の中で、何かが崩れた。
怒りだった。
自分の怒りだ。
七年間、積み上げて、ずっと気付かなかったものが、他者の感情に触れて形を持った。
「私は……」
声が出た。
術式を維持しながら、言葉が溢れてきた。
「私は……好きで陰気だったわけじゃない……!」
誰に言うでもない。
ただ、出てきた。
「毎日来ていた。
誰にも言わずに、来ていた。
あなたたちの怒りを受け取るために、来ていた。
それで感情が削れて、陰気と笑われた。
呪われそうと、陰口を叩かれた。
それでも来ていた。
誰も知らなくても、来ていた……!」
声が震えた。
涙が出た。
七年間で初めて、涙が出た。
術式の光が広がる。
靄が薄れる。
三十七人の念が、一人ずつ、静かになっていく。
泣きながら、作業を続けた。
怒りを流しながら、術式を維持した。
これが、正しいやり方だと、今初めてわかった。
感情が削れていたから、うまくできていなかった。
感情があるから、念が通る。
鎮められる。
二十人。
三十人。
三十五人。
最後の一人の念が、私の中を通り抜けた時。
静かになった。
通路から、靄が消えた。
扉の亀裂が、ゆっくりと塞がっていく。
空気が、軽くなった。
私は膝をついた。
「……終わった」
ヴァルツが、すぐ隣にいた。
私の肩に、大きな手が置かれた。
何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
どのくらい、そうしていたかわからない。
涙が止まった頃、私は立ち上がった。
膝の土を払う。
「見苦しいところを」
「見苦しくはない」
ヴァルツが静かに言った。
「……そうですか」
「ああ」
私たちは地上へ戻った。
城の外に出ると、空が明るかった。
朝の光が、まっすぐ降り注いでいる。
靄はない。
染みもない。
王都の空が、久しぶりに、ただの空だった。
宰相が駆け寄ってきた。
その後ろに、エドワルド殿下がいた。
「リディア嬢!
地下から光が……何があったのですか」
「第七区画の封印を、修復しました。
これで当面は大丈夫です」
宰相が深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「条件はお忘れなく」
「もちろんです」
殿下が、一歩前に出た。
私を見る目が、これまでと違った。
どこか、剥き出しになったような目だった。
「リディア」
「殿下」
「戻ってきてくれ。
それは……婚約の話ではない。
ただ、戻ってきてくれ」
宰相が口を開いた。
「殿下、リディア嬢は」
「わかっている」
殿下は目を逸らさなかった。
「俺は七年間、何も知らなかった。
知ろうともしなかった。
それがどれほどの話か、昨夜ようやく宰相から聞いた」
「聞いて、どうされましたか」
「……言葉が出なかった」
「そうですか」
「お前が一人で支えていたものを、俺は笑い飛ばした。
陰気だと、意味がわからないと。
そして追い出した」
宰相が、静かに言った。
「殿下が追い出した女性が、ずっとこれを抑えていたのです。
七年間、毎日、誰にも知られずに」
殿下の顔が、歪んだ。
謝罪の言葉を探しているのか、それとも別の言葉か。
どちらにせよ、私には関係のない話だ。
「殿下、申し上げます」
私は真っ直ぐ、殿下を見た。
「私はもう、王城に戻りません。
定期業務の契約については、改めて文書で条件を提示します。
月に一度、二泊三日の点検業務として受けることは可能です。
ただし私の拠点は辺境のままです」
「しかし――」
「殿下、ひとつだけ」
殿下が口を閉じた。
「私は王城の呪いを憎んでいません。
あの地下で鎮めてきた念も、憎んでいません。
ただ、私自身の人生を、私が選んでいい。
それだけのことです」
殿下は、何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
私は一礼して、背を向けた。
城門を出たところで、ヴァルツが並んだ。
「帰るか」
「帰ります」
「馬の手配をする」
「ありがとうございます」
歩きながら、王都の通りを見た。
店が開いている。
子供が走っている。
普通の朝だ。
この町の人たちは知らない。
昨夜、城の地下で何があったか。
それでいい。
知らなくていいものは、知らなくていい。
「ヴァルツさん」
「何だ」
「泣いているところを見ていましたね」
「見た」
「……言いふらさないでください」
ヴァルツは少し間を置いた。
「誰に言う」
「それもそうですね」
この辺境の騎士団長が、呪い相談所の術者の話を誰かに語る場面が、まったく想像できなかった。
口の端が、上がった。
昨日より、はっきりと。
王都を発ったのは、昼過ぎだった。
馬車の窓から、城の尖塔が遠ざかっていくのを見た。
今度は、少し感傷があった。
七年間通い続けた場所だ。
怨念と暗い通路と、誰も知らない仕事の場所。
嫌いではなかった。
ただ、もうここに縛られなくていい。
そう思うと、胸がすっと軽くなった。
ランツブルクに着いたのは、翌日の夕方だった。
家の前に、マリアが立っていた。
顔を見るなり、駆け寄ってきた。
「リディア様!
お帰りなさいませ!
お怪我はないですか、顔色は、ちゃんと眠れましたか」
「大丈夫。
ただいま」
「ただいま、って……!
初めて言いましたね、そんな風に……!」
マリアが目を潤ませた。
そうだったかもしれない。
家に入ると、相談所の応接室に案件の書類が積んであった。
ヴァルツが対応してくれていたらしい。
几帳面な字で、依頼内容と優先度が書かれている。
「几帳面ですね」
ヴァルツが後ろから言った。
「騎士団長の仕事は書類仕事も多い」
「手伝ってもらいましたね」
「暇だった」
嘘だと思ったが、また追及しなかった。
マリアがお茶を出してくれた。
久しぶりの、この家のお茶の味だ。
温かかった。
三人で応接室に座った。
外では、夕方の光が山を染めている。
空気は清潔で、呪いの気配が薄い。
私の好きな空気だ。
「明日から、また仕事ですか」
マリアが言った。
「そうですね」
「積んであります、案件が」
「見ました。
順番に片付けます」
マリアがほっとした顔をした。
ヴァルツはお茶を飲んでいた。
今日は飲んでいる、と思った。
「ヴァルツさん」
「何だ」
「いつもお茶を飲まずに帰るのに、今日は飲んでいますね」
少しの間があった。
「……今日は急いでいない」
それだけ言って、またカップを持った。
私も飲んだ。
山の見える窓。
積んである書類。
お茶の温度。
十分だと思った。
これで十分だ。
そこへ、扉がノックされた。
マリアが開けると、中年の男性が立っていた。
顔が青い。
目の下に隈がある。
明らかに、数日は眠れていない顔だ。
「あの、こちらが……呪い相談所、でしょうか」
「はい」
私はカップを置いた。
「助けてください。
妻が……妻が古道具屋で人形を買ってきたんですが、それを手放さなくなって。
毎晩、その人形が喋っているような声がして……」
ヴァルツが静かに立ち上がった。
「仕事だな」
「そうですね」
私は書類を手に取った。
山は夕焼けで赤く染まっている。
明日の案件が、また増えた。
でも今は、それでいい。
終幕




