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全部人のせいにする令嬢を証拠で潰したら、冷血宰相に溺愛されました

作者: 唯乃
掲載日:2026/04/13

 始まりはいつも唐突だ。


 私、アデライド・フォン・クレーヴェンが東方諸侯との通商交渉の失敗を告げられたのは、会議が終わって三十分後のことだった。廊下を歩いていたら、背後から名前を呼ばれた。振り返ると、ソフィア・ヴァン・ベルフォールドが立っていた。


 彼女は第二王子エドヴィン様の婚約者で、宮廷でいちばん華やかな地位にいる令嬢だ。金色の巻き毛に翡翠色の瞳、誰に対しても優しく微笑む。


 でも今は、笑っていなかった。


「アデライド様、今回の交渉が決裂したのは、あなたの資料に誤りがあったからよ」


「……どの箇所ですか」


「細かい話は今重要ではないわ。全体として、あなたの準備が不十分だったということ」


 私は一瞬、自分が何を言われたのか飲み込めなかった。


 資料は確かに私が作った。でも内容を確認して最終承認を出したのはソフィアだ。交渉当日、諸侯の代表に直接説明したのもソフィアだ。私はその場にすらいなかった。


「最終承認後の内容については、変更の権限を持っていません。承認書にはソフィア様の署名が——」


「あなたが最初から正確な資料を用意していれば、私が修正する手間もなかったはずよ」


 廊下に、他の文官が数名いた。全員、こちらを見ていた。


 私は続きを言えなかった。


 ソフィアは一度だけ悲しそうな顔をして、それから王子のいる方へ歩いて行った。





 それが最初だった。


 一週間後、宮廷の昼食会で、私は友人のマリアから少し距離を置かれた。


「……最近、ソフィア様と何かあったの?」


「交渉の失敗を私のせいにされた」


「そう」マリアは視線を逸らした。「でも、ソフィア様がそう言うなら、何かあったんじゃないかしら」


 何も言えなかった。


 マリアは悪い人じゃない。ただ、私よりソフィアの方が上位で、ソフィアに逆らうことは得策じゃないことを知っている。それだけだ。


 その翌週、上司である第三文官室長から呼ばれた。


「クレーヴェン、このところ仕事の質が落ちているという話が上から来ている」


「具体的に何が問題でしょうか」


「具体的な話というより……全体的に、信頼性に疑問が呈されているということだ」


 信頼性。


 その言葉が、じわじわと喉の奥に刺さった。


 さらに二週間後。廊下でエドヴィン王子と鉢合わせた。王子は私を見て、わずかに表情を曇らせた。


「クレーヴェン伯爵令嬢。……ソフィアに苦労をかけているようだな」


「殿下、私は——」


「今後は慎重に行動してくれ」


 それだけ言って、王子は行ってしまった。


 私はしばらく廊下に立ち尽くした。


 誰も、最後まで私の言葉を聞いてくれなかった。





 どん底は、静かに来た。


 北方三州への援助物資配分計画。国家として重要な案件で、担当はソフィア、補佐は私だった。私にとっては挽回のチャンスだと思っていた。


 六週間、私は全力で動いた。


 輸送業者との調整、書類の整理、進捗管理。ソフィアの指示を細かく確認して、記録して、実行した。うまくいくはずだった。


 でも医薬品が誤った経路で輸送されて、腐敗した状態で届いた。損失は金貨三千枚。


 翌日、緊急審問が召集された。


 会議室に入った瞬間、私はソフィアの顔を見た。


 悲しそうな、追い詰められたような顔。でもその目の奥には、いつもの自信が見え隠れしていた。


「殿下、誠に申し上げ難いのですが」ソフィアの声は震えていた。「今回の誤配送は、担当補佐のアデライド様の管理不備によるものです。輸送ルートの最終確認を任せていたのですが、彼女が見落としたとしか考えられません」


「違います。輸送ルートはソフィア様が決定されました。私はその指示に従って——」


「決定を補佐するのが補佐の役割でしょう。あなたが問題に気づいて報告してくれれば、こんなことにはならなかった」


「報告しました。三週間前の会議で、西回りルートの季節的なリスクについて——」


「そんな発言、記録にないわよ」


 会議の議事録は、私が作っていた。でも最終提出前にソフィアが「少し修正する」と言って持っていったことを、思い出した。


 返ってきた議事録を、私は確認しなかった。


 まだソフィアを信頼していたから。


「クレーヴェン」王子が重い声で言った。「この件の責任者として、相応の処分を検討しなければならない」


「殿下——」


 ソフィアの方を見ると、その目に浮かんでいたのは、勝利の色だった。隠す気もない、あからさまな。


「ごめんなさい、アデライド様」ソフィアは言った。「あなたにはもっとしっかりしていてほしかったわ」

 

 私の中のずっと押さえていた何かが、静かに、音もなく、限界を超えた。





 頭が、妙に冷えていた。


 怒りでも悲しみでもなく、もっと透明な何かだ。


(……ああ、そうか)


 私は会議室の床を見た。


 戦う場所が間違っていた。感情で訴えても、言葉で反論しても、何も変わらない。


 でも。


 証拠があれば。


 ゆっくり顔を上げた。


 頭の中で、この六週間の記録が走馬灯のように流れた。ソフィアが出した指示書。自分が書き留めた発言記録。承認印のある書類。ソフィアが「少し修正する」と言って持っていった議事録——返ってきたときの、わずかな違和感。


 全部、ある。


 私はゆっくりと書類鞄に手をかけた。


「……確認してもいいですか」


 声が出た。自分でも驚くくらい、冷たい声だった。


「なんでしょうか、クレーヴェン」


「今回の件の、記録を確認させてください。全員の前で」


 王子が眉をひそめた。ソフィアの目が、わずかに細くなった。


「今さら何を——」


「五分で終わります」


 私は立ち上がった。


「全部、証明します」



◇   



「まず、輸送ルートの策定について」


 書類を一枚取り出した。


「これは計画開始時の第一回会議の指示書です。輸送ルートの策定権限は担当者であるソフィア様に帰属する、と明記されています。文官三名の署名があります」


 ソフィアが口を開いた。


「そんなの、補佐が確認するのは当然——」


「二つ目」


 ソフィアを無視して続けた。


「三週間前、ソフィア様が西回りルートの採用を口頭で指示された際、私はその場で書面化して署名をいただいています。日付、内容、署名、全部あります」


「私はそんな指示を——」


「三つ目」


 もう一枚。


「議事録の原本です。ソフィア様が修正する前の、私が文書管理室に提出した原本です。受領印と日付があります。三週間前の会議で私が西回りルートの季節的リスクを指摘した発言が、そのまま残っています」


 会議室が、静かになった。


 ソフィアの顔から、血の気が引いていくのが見えた。


「……それは」


「修正後の議事録と見比べれば、どこが変わったかすぐわかります」


 三枚の書類を机の上に並べた。


「命令系統。承認記録。発言記録。全部揃っています」


 誰も、何も言わなかった。




 ソフィアが最初に動いた。


「捏造よ」


 声は震えていた。それでも、まだ勝てると思っている目だった。


「こんな書類、あなたが後から——」


「文書管理室の受領印と登録番号があります。今すぐ照合できます」

「署名は筆跡鑑定が可能です。改ざんかどうかは、すぐに判別できます」


 ソフィアの言葉が止まった。


 視線が揺れる。逃げ場を探すように、王子へ向いた。


「……エドヴィン様」


 縋るような声だった。


 だが王子は、何も言わなかった。


 机の上の書類を見ている。その視線は、ソフィアではなく、そこに並んだ“事実”に固定されていた。


「殿下……?」


「——黙れ」


 低い声だった。


 ソフィアの顔が、固まる。


「……今は、何も言うな」


 王子はゆっくりと顔を上げた。その表情には、迷いではなく、理解があった。


 そして同時に、明確な拒絶も。


 ソフィアの唇が震えた。


「……違うの、私は……みんなのために——」


 誰も、反応しなかった。


 その沈黙が、何よりも雄弁だった。


 ソフィアの膝が、崩れた。


 床に落ちる音が、やけに大きく響いた。


「……どうして……」


 掠れた声だった。


「どうして、私が……」


 その問いに、答える者はいない。


 ただ一つ。


 机の上の書類だけが、変わらずそこにあった。





「——なるほど」


 声がした。


 会議室の端、壁際に一人で立っていた男が口を開いた。


 私は彼がいることに気づいていたが、誰なのかは知らなかった。三十代半ば、黒に近い深緑の瞳、感情をほとんど映さない顔。宰相府の紋章が、上着の胸元に小さく入っていた。


「失礼、少し確認させてください」


 男は書類に向かって歩いてきた。机の上に並んだ三枚を、順番に手に取って見た。読み込むというより、構造を確かめるような見方だった。


「文書管理室の受領印は、第一回会議の翌日付けです」男は言った。「つまりこの指示書は、計画開始直後に正規の手続きで保管されていた」


「そうです」


「修正前の議事録は、修正後のものより三日前に提出されている。つまり改ざんは事後に行われた」


「そうです」


「あなたは最初から、これを持っていた」


「持っていました」


 男はアデライドを見た。


「なぜ最初から出さなかったんですか」


 私は少し考えた。


「一つの証拠では、パターンを証明できないからです。今回、三つ揃いました」


 男は静かに、私を見続けた。


「最初から分かっていた、ということですか。自分が追い詰められる前から」


「追い詰められる前ではありません」アデライドは言った。「追い詰められながら、記録していました」


 一瞬の沈黙。


 男は、もう一度書類を見た。


「グレゴワール・ド・サヴァランです」男は言った。「宰相府から、視察に来ていました」


 宰相府。


 アデライドは、その言葉の重さを理解した。


「今日の騒動、最初から見ていました」グレゴワールは続けた。「全部、理解しています」


 視線が、私に固定された。


「あなたは、感情で記録していた」

「怒りながら書き留めて、悲しみながら保管して、それでも論理の形にして出した」グレゴワールは言った。「感情と合理性を同時に持てる人間は、珍しい」


 私は、何と返せばいいか分からなかった。


 グレゴワールは視線を王子に向けた。


「殿下、この件の処分については、宰相府として意見を申し上げます」





 処分は、その日のうちに決まった。


 ソフィアは婚約者の地位を剥奪され、国家資産損耗の責任者として拘束された。


 連行される直前、彼女は一度だけ振り返った。


 視線は私を捉えたが、彼女から何の言葉も出なかった。


 代わりに浮かんでいたのは、理解できないものを見る目だけ。


 そのまま、連れていかれた。


 エドヴィン王子は、最後まで動かなかった。


 ただ椅子に座ったまま、机の上を見つめていた。


 自分が何を見落としていたのかを、ようやく理解した顔だった。





 会議室を出たのは夕方だった。


 廊下は静かで、足音だけが響いた。


 私はしばらく歩いて、人気のない角を曲がったところで立ち止まった。


 壁に背を預ける。


 ゆっくりと、息を吐いていると、後ろから声をかけられた。


「クレーヴェン令嬢」


 振り返ると、グレゴワールが立っていた。


「少し時間をいただけますか」


 近くの小さな応接間に通されると、グレゴワールは前置きなしに言った。


「宰相府への異動を打診したい」


「……理由を聞いてもいいですか」


「今日のあなたの言動を見たからです」


「それだけですか」


「それで十分です」


 私の向かいにグレゴワールが座った。


「あなたは感情で動く人間ですか、論理で動く人間ですか」


「どちらでもないと思います」アデライドは答えた。「感情を燃料にして、論理で動きます」


 グレゴワールは少し黙った。


「今日、あの場で崩れなかった。なぜですか」


「崩れたら記録できないので」


「追い詰められていたはずですが」


「追い詰められた方が、記録が精密になります」


 また沈黙。今度は少し長かった。


 グレゴワールは、何か考えるように窓の外を見た。それから視線を戻した。


「正直に言います。宰相府には、膨大な情報が集まります。整理する人間はいる。分析する人間もいる。でも、感情を持ったまま記録できる人間はいない」


「感情は記録の邪魔だと思っていました」


「邪魔な場合もある。でも今日のあなたは違った」グレゴワールは言った。「怒りながら、悲しみながら、それでも事実だけを並べた。あれは技術じゃない。性質です」


 アデライドはしばらく、自分の手を見た。


「……私を、便利な道具として使いたいということですか」


「違います」


 グレゴワールははっきり言った。


「価値があると思っているから、側に置きたい」


 私は顔を上げた。


 グレゴワールの目は、相変わらず感情を映さなかった。でもその言葉には、はっきりとした意志があった。値踏みでも、同情でもない。


「……それは命令ですか」


「選択肢です」


 私は、少し考えた。


 今日、初めて誰かに、ちゃんと見てもらえた気がした。能力じゃなくて、自分が何者かを。感情を持ちながら記録を取り続けたことを。


 それがどれだけ苦しかったかも、たぶん、この人には分かっている。


「……お受けします」


「理由を聞かせてください」


「あなたは私の記録を読んで、感情の話をした最初の人だったので」


 グレゴワールはしばらく私を見ていた。


 それから、ゆっくりと言った。


「では、一つだけ訂正しておきます」


 首を傾げた。


「あなたは“記録した”のではない」


 グレゴワールの声は低かった。


「耐えながら、積み上げた」


 言葉が、わずかに重く落ちる。


「そういう人間は、簡単には手放さない」


 私は、一瞬だけ言葉を失った。


「……それは」


「命令ではないと言いましたが」グレゴワールは続けた。「少し訂正します」


 一歩、距離を詰める。


「こちらに来い」


 短く、それだけだった。


 だが拒否する選択肢を、ほとんど残さない言い方だった。


 私は、ほんの少しだけ息を止めた。


 それから、小さく頷いた。


「……承知しました」




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