全部人のせいにする令嬢を証拠で潰したら、冷血宰相に溺愛されました
始まりはいつも唐突だ。
私、アデライド・フォン・クレーヴェンが東方諸侯との通商交渉の失敗を告げられたのは、会議が終わって三十分後のことだった。廊下を歩いていたら、背後から名前を呼ばれた。振り返ると、ソフィア・ヴァン・ベルフォールドが立っていた。
彼女は第二王子エドヴィン様の婚約者で、宮廷でいちばん華やかな地位にいる令嬢だ。金色の巻き毛に翡翠色の瞳、誰に対しても優しく微笑む。
でも今は、笑っていなかった。
「アデライド様、今回の交渉が決裂したのは、あなたの資料に誤りがあったからよ」
「……どの箇所ですか」
「細かい話は今重要ではないわ。全体として、あなたの準備が不十分だったということ」
私は一瞬、自分が何を言われたのか飲み込めなかった。
資料は確かに私が作った。でも内容を確認して最終承認を出したのはソフィアだ。交渉当日、諸侯の代表に直接説明したのもソフィアだ。私はその場にすらいなかった。
「最終承認後の内容については、変更の権限を持っていません。承認書にはソフィア様の署名が——」
「あなたが最初から正確な資料を用意していれば、私が修正する手間もなかったはずよ」
廊下に、他の文官が数名いた。全員、こちらを見ていた。
私は続きを言えなかった。
ソフィアは一度だけ悲しそうな顔をして、それから王子のいる方へ歩いて行った。
◇
それが最初だった。
一週間後、宮廷の昼食会で、私は友人のマリアから少し距離を置かれた。
「……最近、ソフィア様と何かあったの?」
「交渉の失敗を私のせいにされた」
「そう」マリアは視線を逸らした。「でも、ソフィア様がそう言うなら、何かあったんじゃないかしら」
何も言えなかった。
マリアは悪い人じゃない。ただ、私よりソフィアの方が上位で、ソフィアに逆らうことは得策じゃないことを知っている。それだけだ。
その翌週、上司である第三文官室長から呼ばれた。
「クレーヴェン、このところ仕事の質が落ちているという話が上から来ている」
「具体的に何が問題でしょうか」
「具体的な話というより……全体的に、信頼性に疑問が呈されているということだ」
信頼性。
その言葉が、じわじわと喉の奥に刺さった。
さらに二週間後。廊下でエドヴィン王子と鉢合わせた。王子は私を見て、わずかに表情を曇らせた。
「クレーヴェン伯爵令嬢。……ソフィアに苦労をかけているようだな」
「殿下、私は——」
「今後は慎重に行動してくれ」
それだけ言って、王子は行ってしまった。
私はしばらく廊下に立ち尽くした。
誰も、最後まで私の言葉を聞いてくれなかった。
◇
どん底は、静かに来た。
北方三州への援助物資配分計画。国家として重要な案件で、担当はソフィア、補佐は私だった。私にとっては挽回のチャンスだと思っていた。
六週間、私は全力で動いた。
輸送業者との調整、書類の整理、進捗管理。ソフィアの指示を細かく確認して、記録して、実行した。うまくいくはずだった。
でも医薬品が誤った経路で輸送されて、腐敗した状態で届いた。損失は金貨三千枚。
翌日、緊急審問が召集された。
会議室に入った瞬間、私はソフィアの顔を見た。
悲しそうな、追い詰められたような顔。でもその目の奥には、いつもの自信が見え隠れしていた。
「殿下、誠に申し上げ難いのですが」ソフィアの声は震えていた。「今回の誤配送は、担当補佐のアデライド様の管理不備によるものです。輸送ルートの最終確認を任せていたのですが、彼女が見落としたとしか考えられません」
「違います。輸送ルートはソフィア様が決定されました。私はその指示に従って——」
「決定を補佐するのが補佐の役割でしょう。あなたが問題に気づいて報告してくれれば、こんなことにはならなかった」
「報告しました。三週間前の会議で、西回りルートの季節的なリスクについて——」
「そんな発言、記録にないわよ」
会議の議事録は、私が作っていた。でも最終提出前にソフィアが「少し修正する」と言って持っていったことを、思い出した。
返ってきた議事録を、私は確認しなかった。
まだソフィアを信頼していたから。
「クレーヴェン」王子が重い声で言った。「この件の責任者として、相応の処分を検討しなければならない」
「殿下——」
ソフィアの方を見ると、その目に浮かんでいたのは、勝利の色だった。隠す気もない、あからさまな。
「ごめんなさい、アデライド様」ソフィアは言った。「あなたにはもっとしっかりしていてほしかったわ」
私の中のずっと押さえていた何かが、静かに、音もなく、限界を超えた。
◇
頭が、妙に冷えていた。
怒りでも悲しみでもなく、もっと透明な何かだ。
(……ああ、そうか)
私は会議室の床を見た。
戦う場所が間違っていた。感情で訴えても、言葉で反論しても、何も変わらない。
でも。
証拠があれば。
ゆっくり顔を上げた。
頭の中で、この六週間の記録が走馬灯のように流れた。ソフィアが出した指示書。自分が書き留めた発言記録。承認印のある書類。ソフィアが「少し修正する」と言って持っていった議事録——返ってきたときの、わずかな違和感。
全部、ある。
私はゆっくりと書類鞄に手をかけた。
「……確認してもいいですか」
声が出た。自分でも驚くくらい、冷たい声だった。
「なんでしょうか、クレーヴェン」
「今回の件の、記録を確認させてください。全員の前で」
王子が眉をひそめた。ソフィアの目が、わずかに細くなった。
「今さら何を——」
「五分で終わります」
私は立ち上がった。
「全部、証明します」
◇
「まず、輸送ルートの策定について」
書類を一枚取り出した。
「これは計画開始時の第一回会議の指示書です。輸送ルートの策定権限は担当者であるソフィア様に帰属する、と明記されています。文官三名の署名があります」
ソフィアが口を開いた。
「そんなの、補佐が確認するのは当然——」
「二つ目」
ソフィアを無視して続けた。
「三週間前、ソフィア様が西回りルートの採用を口頭で指示された際、私はその場で書面化して署名をいただいています。日付、内容、署名、全部あります」
「私はそんな指示を——」
「三つ目」
もう一枚。
「議事録の原本です。ソフィア様が修正する前の、私が文書管理室に提出した原本です。受領印と日付があります。三週間前の会議で私が西回りルートの季節的リスクを指摘した発言が、そのまま残っています」
会議室が、静かになった。
ソフィアの顔から、血の気が引いていくのが見えた。
「……それは」
「修正後の議事録と見比べれば、どこが変わったかすぐわかります」
三枚の書類を机の上に並べた。
「命令系統。承認記録。発言記録。全部揃っています」
誰も、何も言わなかった。
◇
ソフィアが最初に動いた。
「捏造よ」
声は震えていた。それでも、まだ勝てると思っている目だった。
「こんな書類、あなたが後から——」
「文書管理室の受領印と登録番号があります。今すぐ照合できます」
「署名は筆跡鑑定が可能です。改ざんかどうかは、すぐに判別できます」
ソフィアの言葉が止まった。
視線が揺れる。逃げ場を探すように、王子へ向いた。
「……エドヴィン様」
縋るような声だった。
だが王子は、何も言わなかった。
机の上の書類を見ている。その視線は、ソフィアではなく、そこに並んだ“事実”に固定されていた。
「殿下……?」
「——黙れ」
低い声だった。
ソフィアの顔が、固まる。
「……今は、何も言うな」
王子はゆっくりと顔を上げた。その表情には、迷いではなく、理解があった。
そして同時に、明確な拒絶も。
ソフィアの唇が震えた。
「……違うの、私は……みんなのために——」
誰も、反応しなかった。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
ソフィアの膝が、崩れた。
床に落ちる音が、やけに大きく響いた。
「……どうして……」
掠れた声だった。
「どうして、私が……」
その問いに、答える者はいない。
ただ一つ。
机の上の書類だけが、変わらずそこにあった。
◇
「——なるほど」
声がした。
会議室の端、壁際に一人で立っていた男が口を開いた。
私は彼がいることに気づいていたが、誰なのかは知らなかった。三十代半ば、黒に近い深緑の瞳、感情をほとんど映さない顔。宰相府の紋章が、上着の胸元に小さく入っていた。
「失礼、少し確認させてください」
男は書類に向かって歩いてきた。机の上に並んだ三枚を、順番に手に取って見た。読み込むというより、構造を確かめるような見方だった。
「文書管理室の受領印は、第一回会議の翌日付けです」男は言った。「つまりこの指示書は、計画開始直後に正規の手続きで保管されていた」
「そうです」
「修正前の議事録は、修正後のものより三日前に提出されている。つまり改ざんは事後に行われた」
「そうです」
「あなたは最初から、これを持っていた」
「持っていました」
男はアデライドを見た。
「なぜ最初から出さなかったんですか」
私は少し考えた。
「一つの証拠では、パターンを証明できないからです。今回、三つ揃いました」
男は静かに、私を見続けた。
「最初から分かっていた、ということですか。自分が追い詰められる前から」
「追い詰められる前ではありません」アデライドは言った。「追い詰められながら、記録していました」
一瞬の沈黙。
男は、もう一度書類を見た。
「グレゴワール・ド・サヴァランです」男は言った。「宰相府から、視察に来ていました」
宰相府。
アデライドは、その言葉の重さを理解した。
「今日の騒動、最初から見ていました」グレゴワールは続けた。「全部、理解しています」
視線が、私に固定された。
「あなたは、感情で記録していた」
「怒りながら書き留めて、悲しみながら保管して、それでも論理の形にして出した」グレゴワールは言った。「感情と合理性を同時に持てる人間は、珍しい」
私は、何と返せばいいか分からなかった。
グレゴワールは視線を王子に向けた。
「殿下、この件の処分については、宰相府として意見を申し上げます」
◇
処分は、その日のうちに決まった。
ソフィアは婚約者の地位を剥奪され、国家資産損耗の責任者として拘束された。
連行される直前、彼女は一度だけ振り返った。
視線は私を捉えたが、彼女から何の言葉も出なかった。
代わりに浮かんでいたのは、理解できないものを見る目だけ。
そのまま、連れていかれた。
エドヴィン王子は、最後まで動かなかった。
ただ椅子に座ったまま、机の上を見つめていた。
自分が何を見落としていたのかを、ようやく理解した顔だった。
◇
会議室を出たのは夕方だった。
廊下は静かで、足音だけが響いた。
私はしばらく歩いて、人気のない角を曲がったところで立ち止まった。
壁に背を預ける。
ゆっくりと、息を吐いていると、後ろから声をかけられた。
「クレーヴェン令嬢」
振り返ると、グレゴワールが立っていた。
「少し時間をいただけますか」
近くの小さな応接間に通されると、グレゴワールは前置きなしに言った。
「宰相府への異動を打診したい」
「……理由を聞いてもいいですか」
「今日のあなたの言動を見たからです」
「それだけですか」
「それで十分です」
私の向かいにグレゴワールが座った。
「あなたは感情で動く人間ですか、論理で動く人間ですか」
「どちらでもないと思います」アデライドは答えた。「感情を燃料にして、論理で動きます」
グレゴワールは少し黙った。
「今日、あの場で崩れなかった。なぜですか」
「崩れたら記録できないので」
「追い詰められていたはずですが」
「追い詰められた方が、記録が精密になります」
また沈黙。今度は少し長かった。
グレゴワールは、何か考えるように窓の外を見た。それから視線を戻した。
「正直に言います。宰相府には、膨大な情報が集まります。整理する人間はいる。分析する人間もいる。でも、感情を持ったまま記録できる人間はいない」
「感情は記録の邪魔だと思っていました」
「邪魔な場合もある。でも今日のあなたは違った」グレゴワールは言った。「怒りながら、悲しみながら、それでも事実だけを並べた。あれは技術じゃない。性質です」
アデライドはしばらく、自分の手を見た。
「……私を、便利な道具として使いたいということですか」
「違います」
グレゴワールははっきり言った。
「価値があると思っているから、側に置きたい」
私は顔を上げた。
グレゴワールの目は、相変わらず感情を映さなかった。でもその言葉には、はっきりとした意志があった。値踏みでも、同情でもない。
「……それは命令ですか」
「選択肢です」
私は、少し考えた。
今日、初めて誰かに、ちゃんと見てもらえた気がした。能力じゃなくて、自分が何者かを。感情を持ちながら記録を取り続けたことを。
それがどれだけ苦しかったかも、たぶん、この人には分かっている。
「……お受けします」
「理由を聞かせてください」
「あなたは私の記録を読んで、感情の話をした最初の人だったので」
グレゴワールはしばらく私を見ていた。
それから、ゆっくりと言った。
「では、一つだけ訂正しておきます」
首を傾げた。
「あなたは“記録した”のではない」
グレゴワールの声は低かった。
「耐えながら、積み上げた」
言葉が、わずかに重く落ちる。
「そういう人間は、簡単には手放さない」
私は、一瞬だけ言葉を失った。
「……それは」
「命令ではないと言いましたが」グレゴワールは続けた。「少し訂正します」
一歩、距離を詰める。
「こちらに来い」
短く、それだけだった。
だが拒否する選択肢を、ほとんど残さない言い方だった。
私は、ほんの少しだけ息を止めた。
それから、小さく頷いた。
「……承知しました」




