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狙われたのは…

 

 花岡の背中は、そう頼りがいのあるものではないと気づくのに時間はかからなかった。先輩とはいっても年は同じ。バイト歴も半年しか変わらない。普通の仕事であっても先輩風を吹かせるにはまだ早いくらいだ。ましてや状況は、今しがた殺人を犯したばかりの犯人と対峙しているという危機的なものだ。先輩として掃守をかばう義理など、花岡にあるはずもない。

 

 それでも一縷の望みをかけて、自分よりも身長の小さい花岡の後ろに隠れてみたが、すぐに彼女は顔を振り向けて「ちょっ、なんで盾にするんですか!」と狼狽した。

 

 ごもっともだ。掃守も自分の行動が正気だとは思えないし、知り合ったばかりの人間を盾にするのは人道的にも色々と問題がある。

 

 しかしその直後に花岡が取った行動は、酷さでいえば掃守を上回るものだった。自分と掃守の立ち位置を入れ替えようと、背中に手をまわしてきたのだ。先輩を盾として使うのも褒められたことではないが、後輩を盾にするほうがより酷く、そのうえ情けない行為ではないだろうか。

 

 しばらく二人はお互いの位置を入れ替えあった。同じ場所でくるくると、二人の女子大生が動き回っている様子は、殺人現場の緊張感とあまりにも乖離している。そんな茶番を、殺気立っている犯人が静観しているはずもなく…。

 

 「なにふざけてんだ、てめえら!あー、もういい。どうせどっちも殺すんだ。まずはそっちの地味なほうから刺してやるよ!」

 

 花岡と視線があった。その瞳に安堵の色が浮かんだのを、掃守は見逃さなかった。

 

 地味なほうという言葉が指すのが自分ではないと、100%信じ切っている顔だ。客観的に見てもそれは事実なのだろうが、どうにも納得いかない。花岡は案外腹の内が黒く、自身の容姿が悪くないことを自覚しているのかもしれない。いや、確実にそうだ。

 

 狙われた地味なほう、こと掃守は、デスクの上に視線を走らせた。なにか防御に使えそうなものはないかと、目をぎょろぎょろと動かして探す。

 

 プラスチックのファイル。これはダメだ。カッターナイフ程度ならまだしも、出刃包丁の刃なら簡単に通ってしまう。整頓されたというか、物がそもそも少ないデスクには、ほかにはろくなものがない。武器になりそうな道具も見当たらないので、とにかく犯人からの攻撃を避けることに意識を集中させた。運動は得意なほうではないが、これでも中学時代はテニス部に所属していた。瞬発力には自信がないわけでもない。

 

 そう思ったが、いざ迫りくる凶器を目の前にすると、恐怖で体が竦んで動かない。地面を蹴って横に飛びのくイメージだったのに、実際は足が地面に接着されたかのように微動だにしなかった。

 

 包丁の刃が、まっすぐ向かってくる。心臓を一突きして殺すという考えはないらしく、的の大きな腹部を狙ってくる。

 

 ここで死ぬのか。清掃バイトなんてするんじゃなかった。

 

 これなら接客への苦手意識を押し殺してでも、居酒屋やオシャレカフェで働いていたほうが長生きできたではないか。少なくとも、見ず知らずの男に包丁で刺される事はなかったはずだ。

 

 おひさまクリーニングサービスの仕事を紹介してきた福田の顔が浮かんだ。死の間際に思い浮かべるのが、あの清潔感の欠如した眼鏡男なのは癪に触る。けれどほかに誰の顔も思い出せない。親も友達も、あれだけ顔を見てきたというのに、いざ思い出そうとすると輪郭がぼやけてしまう。人の記憶とは頼りないものだ。

 

 せめて最後に瞳が映すのは、青筋を立てた男の醜悪な顔面ではなく、かわいい女の子の顔にしようと、花岡のほうを向いた。

 

 いない。花岡が消えている。

 

 「ぐっ⁉」

 

 男が頭から床に倒れた。持っていた出刃包丁が放り出され、デスクの下の隙間に入り込んだ。

 

 「地味なほうを狙ってくれて助かりましたよ。おかげで後ろががら空きです、犯人さん」

 

 倒れた男の向こう側に、花岡が立っていた。手に握られてるのは、ハンマーだ。べっとりと付着しているのは、見紛うことなき血だ。ぬらぬらと光っているそれは新鮮で、今まさに人体から流れ出たばかり。

 

 血の出所である男は、後頭部を殴打されて地面に突っ伏したままだ。

 

 「うっ、ううぅ…」

 

 呻いているところを見ると、まだ意識はあるらしい。

 

 花岡が男の背中に馬乗りになった。

 

 「離れててください。汚れちゃいますから」

 

 「えっ…」 

 

 離れろと指示してから、花岡が再びハンマーを振り下ろすまでの時間は、わずか三秒。掃守にその場を離れる余裕など与えてくれなかった。

 

 バコンという音とともに、男の頭が割れた。男の血で、掃守の顔が染まった。

 

 呆けたように開けていた口に、鉄の味が広がる。

 

 「ひっ…」

 

 掃守の腰は砕けた。応接室の壁に後ろ手をつきながら、ずるずると腰を落としていく。もう自力で立ち上がることはできない。

 

 「いやあぁぁぁぁぁ!」

 

 悲鳴を上げたはずみに、口内に入ってきていた血液を飲み込んでしまい、掃守は本日二度目の吐き戻しをすることになった。



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