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犯人は現場に戻る

 

 ちょうどいい具合に、机の上にA四サイズの紙とペンがある。即席の退職願をここで書くとしよう。ボールペンをノックして、用紙の右端に退職願と書こうとするが、インクが出ない。ペン先が走った跡が残るだけで、紙は真っ白のままだ。

 

 「え、どうしましたか?」

 

 掃守が死体処理の際に汚した箇所をあっという間に綺麗にし終えた花岡が、肩越しに覗き込んできた。はたから見れば、ただ紙にペンを突き立てているだけに見えただろう。花岡が不思議そうな顔をするのも無理はない。

 

 掃守は防護マスクをようやく自分も外して、悪臭から解放された爽快感の勢いに任せて言った。

 

 「私にはこの仕事、無理です!」

 

 花岡の反応を何パターンか予想していた。今日出来た後輩が今日いなくなる事にショックな顔をするのが一つ。オロオロしたまま、別に決定権もないのに退職願を受け入れるのがもう一つ。一応引き止められるパターンも想定したが、適当な言い訳をして辞めればいいだろう。なんせ金田本舗の時代に、バイトの辞め方についてはネットで散々リサーチ済みだ。結局蓄えた知識を使うこともなく金田本舗は消えたので使うことは無かったが、今ここで活用させてもらおう。

 

 花岡の反応は、掃守が予想したうちのどれでも無かった。

 

 「伏せてください!」

 

 いきなり頭を押さえつけられた。まさかの暴力による退職拒否かと恐れ慄く。

 

 その直後、掃守の頭上でガラスが砕ける音がした。応接室と周りのスペースを区切る壁にはめ込まれたガラスが割られ、小さな破片が降り注いだ。花岡に押さえつけられたおかげで顔を伏せた状態になっており、ガラス片によるダメージは軽度に抑えられた。せいぜい首筋や耳が少し切れて血が出たくらいだ。

 

 「な、な、何が起きたの⁉」

 

 まだ顔を上げていいか分からないので、そのままの姿勢をキープする。

 

 花岡は手の甲に落ちたガラス片を払いのけて、部屋の入口のほうへ視線を向けた。

 

 「ごめんなさい、掃守さん。今日のお仕事、楽なんて言っちゃって、あれ嘘かもです」

 

 「なんかやばいことが起きてるのはもう理解してます。してますが、結局なにがどうなってるんですか!」

 

 花岡が、しゃがみこんだままの掃守の肩を優しく叩いて、もう立ち上がっても大丈夫というサインを出す。

 

 立ってみて損した。

 

 部屋の入口では、ナイフを構えたチンピラ風の男が、血走った目でこちらを睨んでいた。さっきガラスを割ったものは、と応接室を覗き込むと、床に手斧が落ちているのが目に入った。あれを投擲したのだろう。花岡がとっさに守ってくれなければ、今頃斧が刺さって死んでいたかもしれない。

 

 何も見なかったふりをして、もう一度屈みこんで気配を消そうとしたが、掃守の脇を支える花岡の力は意外に強い。華奢な体からは想像できない筋力で、座り込もうとするか掃守を無理やり立たせていた。

 

 「この状況、なんていうんでしょうか。あっ、そう、犯人が現場に戻ってきたというやつです。よくミステリー小説とかで言うロジックですよね」

 

 花岡は受け狙いのジョークを飛ばしたかのように、自分でへへっと軽く笑っている。何も笑いどころがない。少なくとも掃守には理解できなかった。

 

 犯人。花岡はそう言った。

 

 この状況において犯人という言葉が指すのは、今まさに掃守たちに襲い掛からんと息を荒げている男のことだ。ナイフを握る手に力が入っているのが分かる。持っているのはナイフというか、よく見ると出刃包丁だ。魚の骨やかぼちゃなど、固いものを切るのに使える包丁で、その分重みも切れ味も普通のものより上だ。先ほどの死体は、腹や顔の肉が裂かれていたが、凶器はあの出刃包丁の可能性が高い。

 

 要するに危険人物だ。と、すると取るべき行動は一つ。

 

 「逃げましょう!早く!」

 

 掃守は花岡の手をつかみ返して、力いっぱい引っ張った。びくともしない。なんだこの怪力女は。ゆるふわ系の見た目で出していい力じゃない。

 

 男が出刃包丁の切っ先を掃守に向けた。入口から応接室までは少し距離があるので、男がいくら手を伸ばそうと掃守にすぐ攻撃が及ぶわけではないが、それでも怖い。さっきみたいに投げてこられたら、それこそ一巻の終わりだ。

 

 「逃げられると思ってんのか、このガキ!どうせ警察に通報するつもりだろ。だったらここで仕留めてやるよ」

 

 なんならもっと早くに通報しておくべきだった。なぜ花岡に言われるがままに、もくもくと解体作業をこなしていたのだろう。掃守は先ほどまでの自分の行動を呪った。

 

 しかし今から通報する素振りを見せたら、犯人を刺激してしまうことは明白だ。向けられた出刃包丁は、まず掃守の胸に突き立てられるだろう。死体処理を終えた人間が後追いのように死体になるなど、笑い話にもならない。

 

 「は、花岡さぁん…」

 

 こういう時は先輩に頼るに限る。普段なら彼女のようなタイプの同性には弱みを見せたくないが、四の五の言っていられない。花岡の後ろに隠れて、先輩を盾にした。背中に引っ付くと、また甘い香りが漂ってくる。血の匂いが充満する部屋の中でも存在感を放つその香りに、妙な安心感を覚えた。一体どこの香水なのだろうか。

 

 


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