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これが吐かずにいられるか

 

 現場につく頃には、掃守は軽い脳震盪を起こしかけていた。花岡の運転があまりに乱暴だったせいで、誰かの汗が染み付いたヘッドレストに、何度も後頭部をぶつける羽目になったからだ。軽トラのシートなので座り心地が良いものでもなく、早く到着してくれと願うこと約十分。

 

 「あの、着きました」

 

 花岡がエンジンをオフにした。少し休みたかったが、仕事はこれから始まるのだ。先輩の手前、あなたの運転のせいで気分がすぐれないと言うのも憚られたので、掃守はおとなしく軽トラから降りることにした。

 

 荷台に固定されていたボックスから、花岡が掃除用具を取り出す。金田本舗の時に使っていたのと大体は同じだ。どれもホームセンターで買えるような道具ばかり。ただその中に、見慣れないものも混じっていた。

 

 「これ防護マスクですか?」

 

 金田本舗の時も、感染や埃の吸入を防ぐためにマスクをつけていたが、それは不織布のものだった。ドラッグストアやコンビニで購入できる、五十枚入りで五百円程度の安物。本当に細かい粒子はマスクの布など貫通してくるので、気休め程度でしかないのだが。

 

 「はい、これ付けないと危険ですので」

 

 花岡はマスクを渡しながら、自分の分を装着している。かわいい顔が、無機質な防護マスクに覆われて見えなくなった。

 

 清掃現場となるビルは、おひさまクリーニングサービスの本社と同じくらい、年季の入った建物だ。何かの会社が所有しているのかと思って表札を見てみたが、特に何の社名も書いていなかった。

 

 「これと、これと、あっ、あとこの丸鋸も持ってもらえますか?」

 

 防護マスクのせいでよく聞こえないが、花岡は今、丸鋸と言っただろうか。いや、そんなはずはない。清掃にノコギリを使うなど普通では考えられないし、ましてや丸鋸なんて、日曜大工くらいでしか素人が使うことはないはずだ。

 

 しかし花岡から渡されたのは、正真正銘の丸鋸だった。

 

 何に使うのか、と聞く前に、花岡が入口の扉を開けて中に入っていってしまったので、慌てて後を追う。

 

 

 暗い廊下を二人で進む。花岡は仕事以外のことは口にせず、世間話を振ってくる気配もない。分かってはいたが、人と話すのは苦手なタイプなのだろう。掃守もどちらかといえば同じ部類であり、必要以上の会話をしなくていいという理由で清掃バイトを選んだのだから、決して居心地が悪いわけではなかった。

 

 「今日お掃除するのはここのお部屋です。あの、扉を開けるときは気を付けてくださいね。たまにあるんです。開けた瞬間に、どかんみたいなことが」

 

 「えっ、それはどういう…」

 

 どかん、という擬音から考えられるのは爆発だ。清掃に来た先で爆発に巻き込まれることがあるのだろうか。

 

 表情はよく見えないが、花岡が冗談を言っているようには思えないし、そもそも冗談など言えるタイプの人間にも思えない。

 

 わかりました、と返す掃守の声も防護マスクでくぐもっており、相手に届いているのか曖昧だ。

 

 「お邪魔しまーす…」 

 

 花岡が先輩らしく先陣を切り、ドアを開けた。その開け方がなんとも奇妙だった。

 

 片膝を床について、体を横に向けて扉をそっと開けている。本人が忠告した通り、いきなり爆発が起きた場合に巻き込まれないようにするためだろうか。とすれば、掃守の位置は非常に危険だ。気を付けてとは言われたものの、爆発に対してどのように注意すればいかも分からなかったので、扉の前に突っ立っていたのだ。もしここで本当に爆発が起きれば、爆風とともに掃守の体が吹き飛ばされてしまうだろう。花岡のコミュニケーション能力が低いのはいいとして、伝えるべきことはしっかり伝えてほしい。

 

 結果的には杞憂に終わったようで、扉の先に広がっていたのは普通の光景だった。おひさまクリーニングサービスよりも中は広いが、家具やオフィス用品の類は少ない。

 

 花岡の後ろをついて、入室する。

 

 部屋の奥には壁で区切られたスペースがあり、ここからでは様子が伺えない造りになっていた。応接室のようなものだろう。

 

 花岡が応接室に近づき、顔を突き出して中の様子を覗き込んだ。その姿勢のまま数秒間停止したあと、こちらを振り返る。

 

 「今日のお仕事は楽そうで良かったです。そんなに汚れてません」

 

 防護マスク越しに見える花岡の目が細められた。おそらく笑っているのだろう。

 

 「初日から大変な仕事じゃなくて助かりました。清掃バイトの経験があるって言っても半年くらいですし、まずはここのやり方をしっかり学んで…」

 

 仕事に対する意欲を表明しながら、掃守はそんなに汚れていないという応接室を覗き込んだ。

 

 そして、吐いた。防護マスクの中が吐しゃ物にまみれ、昨日の晩御飯と今日の学食のメニューが混じった胃液で溺れそうになる。鼻の穴に入ってきたのは、シチューの具材か、それとも昼に食べたアジフライの破片か。

 

 「だ、大丈夫ですかあ⁉」

 

 膝からくず折れて、慌ててマスクを外した掃守の背中を花岡が撫でた。顔面が吐しゃ物まみれだ。臭いし汚いし最悪。清掃をしに来たのに、汚してどうするのだ。

 

 「ご、ごめ、ごめんなさい…」

 

 謝罪の言葉もうまく出ない。勢い良く内容物が逆流したせいで喉が痛い。

 

 初対面の人間のゲロなど処理したくもないだろうに、花岡は持ってきたモップを使って、床にぶちまけられたドロドロの液体を拭き始めた。作業着のポケットからハンカチを取り出して、口を拭ってくれる。花岡の私物のハンカチからは、フローラルな香りが漂っていた。それで打ち消せるほど掃守の吐しゃ物の悪臭は弱くないのだが。

 

 掃守がいきなり吐いた理由は、応接室の中に広がる光景にある。

 

 ソファに深く体を沈めた男。建物の外観に似合わない、高そうな仕立てのいいスーツを着ている。ストライプ柄のオシャレなデザインで、その辺のサラリーマンでは着こなせない代物だ。

 

 しかし男がこのスーツを着るに値するような人間だったかは、今となっては分からない。なにせ、男の顔面は原型を留めていなかったからだ。口は横方向にざっくりと裂けており、ピエロのメイクと言われれば納得するような、赤い亀裂が走っている。裂け目の奥には肉が覗いていることから、それがメイクでないことは一目瞭然である。

 

 力なく垂れた舌は、先端が失われている。自分で嚙み切った可能性もあるが、そんな自白を迫られて自害するスパイのような真似をする人間が、この平和な町にいるとは思えない。

 

 目は片方がくりぬかれていた。どこかに眼球が落ちているのではないかと思うと、あまり床に視線を合わせたくない。

 

 極めつけは、男の腹だ。凶器はおそらく鋭利な刃物。男の腹部は裂かれており、臓物があちこちに散らばっている。どれか小腸でどれか大腸か、人体の構造に詳しくない掃守では判別が付かなかった。

 

 この惨状を総合すると、いや総合するまでもなく、事実は一つ。殺人だ。ここで殺人が起きている。

 

 映画ではグロテスクなシーンが流れてもわりと平気なほうだったが、あれは所詮作り物。どれだけリアルさを追及していても、カットの一声がかかれば死体は生き返る。腸をぶらさげたまま、共演者や監督と談笑している死体の姿も見たことがあった。

 

 目の前の死体は現実だ。カットといくら叫んでも動かない。カットされているのは男の肉体だ。

 

 「大丈夫ですか?」

 

 花岡からこう聞かれるのは二度目だ。

 

 見ると花岡は平気そうな顔をしている。防護マスクの奥の瞳には、一切の恐怖も不快感も宿していない。

 

 「平気じゃないですけど、なんとか。もう出すもの全部出したので」

 

 「しんどかったら向こうで休んでてくださいね。うーん、やっぱり初日だと、ちょっとショッキングでしたかね。配慮が足りなくて申し訳ありません」

 

 ちょっとどころの騒ぎではない。

 

 というか花岡は騒ぐべきだ。目の前に殺害現場があるのだから、警察に通報するなりなんなり、行動しなければいけないはずなのだが、彼女がしたのは掃除道具を広げることだった。

 

 「それじゃ、お掃除始めます」

 

 

 


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