先輩らしからぬ先輩
福田に紹介された清掃会社は『おひさまクリーニングサービス』という業者だった。公式ホームページも一応は存在したが、更新は四年前で止まっている。サイトのトップに表示された画像には、いかにもフリー素材といった作業服姿の男女と、アットホームな職場です、というお決まりの文言が、センスのない色使いとフォントで書かれていた。
本当にこんな会社が、半年しか清掃の経験のないアルバイトに時給一八〇〇円も出してくれるのだろうか、と不安になる。
面接は本社兼事業所のビルで行われるとのことで、スマホの地図を見ながら現場へ向かう。大学から少し離れているが、歩いて行けない距離ではない。住宅街を抜け、小さな町工場が並ぶエリアの中に、目的のビルはあった。
ホームページに本社の画像が載っていなかった理由が分かった気がする。かなりボロボロだ。大きめの地震が来れば、真っ先に倒壊しそうなほどに老朽化している。地震ではなく、強めの台風でも吹き飛びかねない。
「ここ…で、合ってるよね。福田君め、とんでもない会社を紹介してくれたな。これって私騙されてないかな。いわゆる闇バイトとか、そういう危険なやつなんじゃ」
建物に近づくにつれて不安も大きくなっていく。ビルの前に停められた軽トラの窓が半分開いている。中を覗き込むと、読みかけの雑誌が運転席に置かれていた。シートに染み付いているのか、吸い殻は見当たらないのに、強烈なたばこの匂いが漂ってくる。
面接の時間まであと五分だ。そろそろ入っても先方に失礼はないだろう。
入口の扉は自動ドアですらなく、木のドアノブは少しささくれ立っていた。清掃会社のはずだが、今のところ清潔な部分が見当たらない。
指定されたのは二階。エレベーターのボタンを押して待ってみても、なかなか降りてくる気配がない。表示はずっと三階から動かないでいる。このまま約束の時間を過ぎてしまっては困るので、横にあった階段で上がることにした。
踊り場に差し掛かったところで、掃守のつま先が何かを踏んづけた。固く、小さな物体。足をどかせた勢いでどこかに転がって行ってしまったが、まあ床に落ちているくらいだし、大したものではないだろう。
事務所の前に到着した。おひさまクリーニングサービス、と書かれた横長の看板が壁に打ち付けられており、その横にはインターホンがある。久々に見る、古いタイプのインターホンだ。
ボタンに指を伸ばしかけた時、事務所の扉が開かれた。
「面接の子?あ、もうそんな時間か。いいよ入って。奥にソファあるから、適当に座っておいて。今お茶持ってくるから」
応対してくれた女性は、掃守が人生で聞いた中で最もしわがれた声の持ち主だった。酒灼けした父親がこんな声になっていたこともあったが、それ以上だ。神経を集中させて、やっと何を言っているのか聞き取れるレベルである。
老婆。というか山姥。そんなイメージをつい抱いてしまう。だが汚い声から想像される姿に反して、女性の見た目は意外と若いように見える。おそらく三十代後半くらいだろう。無地の白シャツにショートパンツというラフな恰好が様になるくらいにはスタイルがいい。お茶を入れに引っ込んでしまう前に少し見ただけだが、顔も整っているほうだ。あの悪魔のような声が、あの人から発せられたものと思いたくない。
案内されたソファに座り、面接が始まるのを待つ。
事務所の中は、ビルの外観ほどは汚くなかった。とても整然としているとは言えないが、まあ許容範囲だろう。壁に貼られたポスターは若干色がくすんでおり、日めくりカレンダーも今日の日付と全然違うので、あまり手入れがされている印象ではないが。
待つこと約三分。先ほどの女性が、お盆に乗せたお茶を運んできてくれた。「はいどうぞ」という声も、やはりガラガラだ。
そのあとに続いて、恰幅のいい男性が入ってきた。作業服らしい紺色のつなぎを着ている。ホームページで見た作業服とは色もデザインもまったく異なっていた。やはりあれはフリー素材だったのだろう。
「どうもどうも、高村と申します。おひさまクリーニングサービスの、まあ一応代表なんて肩書でやらせてもらってますけど、大したもんでもないですよ。今日はわざわざご足労いただいて、ありがとうね。こんな若い子が来てくれるなんて久しぶりで、嬉しくなっちゃうな」
高村と名乗った男性は、人懐っこい笑みを浮かべて対面のソファに腰を下ろした。贅肉のたっぷりと付いた彼の体重に、皮張りのソファに一気にしわが寄る。これまで幾度となく高村に使われてきたようで、すでに同じ場所に深いしわの跡が刻まれていた。
「掃守綾、大学一年生です。こちらこそ、本日はよろしくお願いします」
立ち上がって挨拶をする掃守に、「そう固くならないで」と高村は着席を促す。
「面接といっても堅苦しいのは一切抜き。福田君の紹介だし、条件さえ合えば即採用ってことでいいかな?」
時給一八〇〇円の好条件の求人だ。逃すわけにはいかない。
「土日祝も入れます。お盆とゴールデンウィークも実家に帰る予定はないので、シフトには柔軟に対応できると思います」
「いやあ、ありたがいね。ちょうど人手不足で悩んでたんだよ。それじゃ採用ということで。掃守さん、よろしくお願いね」
金田本舗の消滅から数日で、難なく次の職場を決めることができた。清掃のノウハウは半年間である程度身についているので、即戦力として働けるだろう。高村もいい人そうだし、ホームページにあった『アットホームな職場』という言葉は、単なる定型文ではなく本当に温かみのある職場なのかもしれない。
いいバイト先を見つけたな、と掃守は胸をなでおろした。
しかしその安堵は、すぐさま恐怖に変わることになる。
初出勤の日、出勤時間の十五分前に現場に到着してタイムカードを切る。新人は最低でも十分前には来るべきというのは、金田本舗の教育担当に言われたことだ。別に早く来たからといって何かすることもないのだが、先輩よりも遅く出勤すると、それだけで文句を言われたものだ。
制服に着替えてロッカールームを出ると、ちょうど高村が隣の男性更衣室から出てきたところだった。
「おっ、早いねえ掃守さん。そんな気合入れなくてもいいのに。でもいい心がけだよ。最近の若い子ってギリギリに出勤してくるでしょ。僕としては別に間に合ってさえくれればいいんだけど、早めに来たほうが気持ち的にも余裕ができるしね。僕は始業時間までたばこ吸うけど、掃守さんたばこは?」
作業着のポケットから高村が取り出したのは、パーラメントだった。あまり肉体労働者が吸うイメージのない銘柄だ。
「あっ、一応吸いますけど。始業前に吸っていいんですか?」
「いいよいいよ。なんなら仕事中でもみんなスパスパやってるしね」
清掃業なのに、それは許されるのだろうか。
高村に案内されて、建物の裏にある喫煙スペースへと向かう。掃守が愛飲している銘柄は、ピースだ。おじいちゃんが吸ってそう、などと周りから言われることが多いが、ピースの香りと煙の重さに慣れてしまうと、普通のたばこでは物足りなくなってしまった。メビウスのメンソールなど、あんなものたばことすら呼べない。
「渋いねキミ。女子大生が選ぶ銘柄には思えない」
高村と二人で煙を燻らせながら、始業時間を待った。
まもなく業務開始というタイミングで、高村がたばこの火をもみ消す。
「よーし、行くか!記念すべき初日、頑張ろうね」
掃守は少しだけ残っていたピースを急いで吸い込み、一気に燃焼させた。短くなったたばこを灰皿に投げ捨て、高村に続いて事務所へと戻っていく。
事務所には、掃守と同じ大学生と思しき女性が一人、スマホをいじりながら待機していた。
「おはよう、花岡さん!今日もよろしくね」
高村が突き出た腹の肉を振るわせて、女性に近づいた。
「はっ、はい!おはようございます、社長さん!」
花岡と呼ばれた女性がはじかれた様に椅子から立ち上がった。スマホをポケットに仕舞い、ぺこぺこと高村にお辞儀をする。
「相変わらず堅苦しいなあ」と高村は苦笑いした。
「紹介するね。こちら花岡さん。今年の春からウチで働いてくれてるアルバイトの女の子だよ。彼女、見ての通りすごく真面目でね。しかも仕事もよく出来るんだ。そして花岡さん、こちらが今日から入った掃守さん」
「掃守です、よろしくお願いします」
掃守が一歩前に進み出て、自己紹介をする。
「あ、あのこちらこそ。よろしくお願いします…」
声が先細りになっている。花岡はずいぶんと引っ込み思案のようで、先輩風を吹かせる気配もなければ、それどころか頼りなげな印象さえ受けてしまう。あまりに相手がずっとオドオドとしているので、自分が新人だということを忘れてしまいそうだ。
花岡の目線は定まらず、一瞬だけ掃守を見たかと思うと、すぐに逸らしてしまう。彼女の視線は高村に、そして壁の時計に、とすごいスピードで移り変わっていく。まるで暗殺者に命を狙われていて、いつどこから攻撃が来るかと警戒しているみたいに見える。
「今日の現場には花岡さんと二人で行ってもらおうかな」
「ええっ、二人で、ですか⁉」
花岡が信じられないというふうに慌てだした。
「しっかり仕事を教えてあげてね。掃守さんは彼女の指示を聞いてれば間違いないから安心していいよ。ほんとに仕事のできる子だからさ!」
花岡は高村からかなりの信頼を得ているようだ。肉食獣に狙われた小動物のようにビクビクとしてばかりの花岡と、仕事をしているイメージが結びつかない。まあ清掃業は内向的な人間ほど向いているし、これが天職という人は得てして根暗が多いのかもしれない。
「えっと、じゃあ行きましょうか、掃守さん。現場、ここから少し遠いので、社用車で向かいますね」
花岡が事務所のテーブルから車のキーを取り出した。そういえば自動車教習所に入ったはいいものの、自分の運転センスに絶望して、すっかり足が遠のいていたことを思い出した。早く卒業しないと、三十万円が無駄になってしまう。
軽トラの座席に座ると、思ったより花岡との距離が近くなった。清掃業の人間には似合わない、甘くていい香りがする。ずっとうつむき加減だったので分からなかったが、さすがに運転の時は正面を見るために顔を上げた花岡は、なかなか可愛らしい顔だちをしていた。
花岡の言動や雰囲気から、これでもかというくらいに安全運転をしそうだと勝手に思っていた。しかし実際の彼女の運転は結構荒く、赤信号で停止するときもギリギリまで減速しないものだから、止まるたびに体が前後に揺さぶられる。
単純に掃守同様に運転が下手くそなのか、それとも意外と雑な性格なのかもしれない。




