危険な現場
散々な目にあった初出勤の日から二日後。掃守は二度目の仕事を控えて、鬱屈とした気分になっていた。その日の大学の講義はまったく頭に入らず、バイトのことばかりに脳内を支配される。出勤時間が近づくにつれ、このままバックレてしまおうかとも考えた。高時給は確かに魅力的だが、命には変えられない。この前だって花岡が対処してくれたから良かったものの、殺人犯に命を狙われたことは事実だ。一歩間違えれば、今頃体をズタズタにされて、原型を留めていない状態で棺桶の中に入れられていたかもしれない。せめて死ぬなら綺麗な状態で死にたい。
15時、15時30分、16時。時計の針が進み、刻一刻と出勤時間が迫ってくる。講義終了のチャイムが鳴り、一斉に教室を出ていく学生たちの背中を座ったまま見送る。なかなか立ち上がろうという気にもなれない。
「はああ…、どうしよ」
「テンション低いですね。もしかしてこれからバイトとかですか?」
長い溜息を吐く掃守の後ろから、学生の群れから外れた福田が声をかけてきた。
「まさにそうだよ。ああ、行きたくない!」
「なにが嫌なのかさっぱりですね。給料も高いし、仕事だってそんな辛いものじゃないでしょ?」
「本気で言ってんの?生きて帰ってこられるかどうかも怪しいんだよ」
「大丈夫ですって」と、他人事のように福田がへらへらと言う。実際他人事ではあるのだが、この男の態度はいちいち鼻につく。
「これまでバイトが死んだって話は聞いたことがありませんから。皆さん在学中にいっぱい働いて稼いで、無事大金もって卒業されてますよ。ま、そのあと普通の会社に就職する人は少ないらしいですけどね。みんな裏社会系の仕事に慣れちゃって、そっち系ばっかりに行っちゃうって聞きました」
おひさまクリーニングサービスを辞めるべき理由がまた増えた。このまま仕事を続ければ、裏社会でしか働けない体になってしまいかねない。普通に就職して普通に家庭をもって、普通に死ぬ。それが掃守の思い描く人生設計だ。人生に刺激はある程度必要だが、身を危険に晒してまで得たい刺激じゃない。
やっぱり今日、退職を願い出よう。せっかく高い時給に設定してもらって申し訳ないが、辞めるなら早いほうがいい。
辞めると決めたとたんに心が軽くなり、先ほどまでの鬱屈とした気分が吹き飛んだ。掃守は軽い足取りでおひさまクリーニングサービスへと向かった。
「おはようございます!お世話になりました!」
用意してきた退職願を、出勤と同時に高村に差し出した。
高村は肉付きのいい頬に埋もれた目をぱちくりとさせ、掃守から受け取った封筒を眇めた。
「ああ、なんだ冗談ね。いやあ、びっくりしたよ。いきなり辞めるなんて言い出すから、何事かと思った。掃守さんって意外と茶目っ気あるタイプなんだ」
高村は封筒の中身も見ずに脇へ除けてしまった。
「いや冗談じゃなくて、それ退職願です」
「今日の現場は少し遠いところなんだけど、また花岡さんと組んで行ってもらうから、運転は彼女に任せていいよ。この前ので分かったと思うけど、あの子結構運転荒いでしょ。よくあれで教習所卒業できたもんだよ。教官に色目使ったとかかな?」
高村は「ははは」と一人で笑っている。掃守は退職を申し出たはずなのだが、どういうわけかまったく取り合ってもらえる気配がない。それどころか高村は、退職という言葉がまるで聞こえないかのように振舞っている。
「まだ業務開始まで時間あるし、たばこでも吸ってきなよ。花岡さんももうちょっとしたら来ると思うから」
これ以上話すことはないと暗に言われているようだ。高村は見た目や物腰こそ柔らかく、いい人オーラを醸し出しているが、彼も裏社会の人間。平気な顔をして人を殺すような狂人に違いない。ここで食い下がって機嫌を損ねると、何をされるか分かったものではない。
もしや初日に凄惨な現場を見せつけたのも、わざとではないか。掃守に絶対的な恐怖を与え、逆らうと命の保証はないと思い込ませることで、退職する意思を削ぐつもりかもしれない。だとすれば非常に悪質だ。やり口が悪徳企業のそれではないか。
掃守はたばこの煙を吐き出しながら、まんまと嵌められたことを悟った。高村に対する潜在的な恐怖から退職を言い出しにくくなったことで、自分の置かれた状況をゆっくりと理解していく。バイトの辞め方を以前にスマホで検索して、労働基準法がなんだと付け焼刃の知識だけは身に着けていたが、どうやら役に立ちそうもない。殺し屋みたいな企業を退職する方法など、広大なネットの海のどこを探しても見つからないだろう。試しに検索してみたが、めぼしい結果は1件もヒットしなかった。
しばらくして出勤してきた花岡と一緒に、先日と同じ軽トラに乗り込む。
「この前も思ってたんですけど、臭いです」
運転席に座ると同時に、花岡が顔をしかめた。
「す、すいません、体臭には気を付けてるつもりなんですけど」
「そうじゃなくて、たばこ。さっき吸ってきましたよね。本人は気づかないかもしれないですけど、吸わない人からしたら相当臭いですから。高村さんなんか酷いですよ。コーヒーとたばこの悪臭のダブルパンチ。あれはもうテロ。公害です。なんらかの罪で裁かれるべきです」
臭いなんてデリケートな問題だ。他人の臭いを面と向かって指摘するには、普通はかなりの気を遣うはずなのだが、花岡に一般常識は通用しない。仮にも所属する組織のトップにあたる人間を、公害と呼ぶとは。
「掃守さんも服に結構臭い染み付いてますよ。トラックの座席に移っちゃうんで、ちゃんとケアしてほしいです」
「すいませんでした…」
本当にこの人、嫌いだ。会ったばかりのときのオドオドした演技は、今思い返すと、とんでもなく白々しく感じる。表の世界で花岡がどのように立ちまわっているのか、あの演技だけで手に取るように分かる。さぞかし男受けを狙った言動ばかりしているのだろう。
鼻を腕に近づけて作業服の臭いを嗅いでみたが、特に何もにおわない。自分の鼻がおかしくなっているのか、それとも花岡がデリケートすぎるのか。次からは出勤前にたばこを吸うのは辞めておこう。
本当は今日で最後になるはずだったのに、高村が退職を聞き入れてくれないせいで、次も、その次もまた出勤。おひさまクリーニングサービスに囚われることになるのだ。
「着きましたよ、降りてください」
そんなにスピードを出していたわけでもないのに、急ブレーキで停車する。相変わらず運転が雑だ。
「先に聞いておきたいんですけど、今日の現場は危険な感じですか」
「安心してください。前回みたいに私たちだけしかいないわけじゃなくて、ここでお仕事してる人たちもいるので、また襲われるような心配はないですよ。ここの人たちって強い方ばかりですから」
「強い人って、ボディガードとか、格闘家とか?」
「ま、そんなところです」
現場の建物は石造りの洒落た外観をしていた。
入ってみて、すぐに悟った。花岡の言っていることが、でたらめだったと。
掃守を出迎えたのは、十数人の強面の男たちだった。入室と同時に、彼らの目がぎょろりとこちらへ向けられる。
「どうもどうも、お世話になっております。おひさまクリーニングサービスです!」
花岡は一切臆することなく、ずけずけと部屋に入っていく。
「掃守さんにも紹介しますね。こちら指定暴力団、原口組の皆さんです」




