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バイト先の消失

 手に染み付いた雑巾の匂いは、洗ってもなかなか取れない。もうハンドソープを何回プッシュしただろうか。指の間まで擦り、入念に汚れを落としたあとにもう一度手を鼻に近づけた。

 

 やっぱり臭い。

 

 掃守綾は、しつこい悪臭がしみ込んだ両手をポケットに突っ込んでトイレを出た。帰って晩御飯の支度をしないといけないので、それまでに無臭になってくれると助かる。

 

 入れ替わりでトイレに入っていくパートの主婦に挨拶を交わし、バイト先の事務所を後にした。

 

 

 掃守が清掃のアルバイトを始めたのは、今年の春からだ。大学生になり、一人暮らしを始めると決めたとき、てっきり親からの仕送りがあるものだと思っていたが、現実は甘くなかった。幼いころから放任主義だった掃守の両親は、娘の独り立ちを応援こそすれ、経済的な支援をするつもりは毛頭なかったらしい。

 

 十八年暮らした実家を出る際に、それとなく仕送りを期待するようなことを言ってはみたが、芳しい反応は得られなかった。それでもかわいい一人娘のために、月五万、いや三万でもいいから出してくれるものと思い込んでいた。

 

 いざ一人暮らしを始めてみて、家具もまだ揃っていない部屋で銀行の通帳アプリを開く毎日。仕送りは来ていない。その事実を確認しては、がっかりしてアプリを閉じる。そんな日々が2か月続いたところで、さすがにもう現実を直視する覚悟ができた。

 

 このままでは食費もいずれ底を尽きてしまう。実家から持ってきた金なんて、せいぜいこれまでのお年玉と小遣いの寄せ集めだ。金額にして五十万もない。サークルにも入らず、家と大学の往復の生活をしていたので、飲み会に誘われることも少なく、出費は抑えられていた。だがそれでも、全財産がこれでは、もってあと数か月といったところ。

 

 働かざるもの食うべからず。日本にはこういう慣用句がある。意味を考察するまでもない。そのままの意味だ。

 

 バイトをしなくては、大学生活を満喫するどころではなくなる。家賃五万弱の老朽化した学生マンションの一室で、栄養失調により干からびた遺体が発見されるのも時間の問題だ。同じ講義を受けている友達が近くにマンションを借りているのは知っているが、そこに転がり込むだけの積極性と大胆さを、掃守は持ち合わせていない。学生の身分で同級生の家に居候するなど、将来ろくな大人にならないことは確実だ。

 

 アルバイト。その五文字が、講義中もずっと頭の中で鳴り響く。

 

 求人サイトで近くのバイトの募集内容を探すと、表示されたもののほとんどは飲食店やコンビニだった。飲食店で働いているという同級生は確かに圧倒的に多い。

 

 掃守はスマホを閉じた。

 

 自分には絶対無理だ。居酒屋で威勢のいい掛け声を出して、すでに出来上がった赤ら顔の客に、ビールジョッキを運ぶ自分を想像する。ほろ酔いのサラリーマンは、若い女性店員に対してセクハラまがいの行動をしてくるかもしれない。名前や連絡先を聞かれるのはまだいい。適当に受け流せばいいし、ほかのスタッフに対応してもらえば済む話だ。

 

 一番嫌なのは、自分と同じ大学生。いわゆる飲みサー集団と遭遇することだ。あのノリはどうしても受け入れられない。毎晩のように酒を飲み歩いて、一体なにが楽しいというのだろうか。大半は出会い目的だろうが、男女の出会いの場はもっと健全な場であるべきで、酒の勢いで付き合うなどふしだらだと、掃守は常日頃から考えていた。

 

 だから居酒屋はなしだ。スマホの画面をスクロールする。

 

 洒落たカフェのバイトも人気らしく、応募者急増中というマークが求人の下に出ている。

 

 いや、これもなしだ。

 

 長ったらしいメニューの名前なんて覚えられないし、そもそもああいうカフェの店員は顔採用だと聞いたことがある。悲しいかな、掃守は大学に入ってから一度も浮いた話などなかった。周りの男子が声をかけるのは、美人系や愛くるしい小動物系のかわいい女子ばかり。掃守はそのどちらにも属していないと自覚している。

 

 コミュニケーション能力も、華やかな顔面も持ち合わせていない自分にできる仕事はないかと、さらにスマホ画面に指を這わせた。

 

 求人は人気順に表示されているらしく、下に行けば行くほど、パッとしない仕事が掲載されている。倉庫内での軽作業や、交通整理など。女子大生が飛びつくような内容ではないし、時給も居酒屋ほど高くない。

 

 人と話す必要があまりなくて、一人でもくもくとできる作業。なおかつ暇すぎず、常に体を動かしていられるような、そんな仕事はないだろうか。希望の条件を頭の中で絞り込み、人気のない求人が集められた吹き溜まりのようなコーナーへ突入する。

 

 「ビルの清掃、か。これいいかも」

 

 表示される最後のページまで行きつきそうになっていた直前に、一つの仕事が目に留まった。

 

 時給は一二〇〇円。特別高くはないが、文句を言うレベルでもない。未経験OK、フリーター歓迎など、求人掲載側の出した条件が書かれている。タップして詳細画面を見ると、灰色のつなぎを着た三十代くらいの男性と、化粧の濃い五十代くらいの女性が笑顔で映っていた。一人でモクモクとできる仕事だと、まさに掃守の希望する条件そのままの言葉まで書いてある。これはもう応募するしかない。

 

 応募フォームから必要事項を入力し、送信ボタンを押した。

 

 すぐに応募完了を知らせるメールが送られてきて、その直後に企業から面接日程の相談があった。直近で空いていた日付を提案し、無事に面接を取り付ける。

 

 後日に行われた面接は形式だけのもので、応募した時点で採用が決まっているようなものだった。面接を担当してくれた男性は終始にこやかで、掃守は自分のバイト先となる企業に好印象を抱いた。これで極貧生活を強いられることもない。安定した収入を得られる安心感で、面接からの帰り道は浮足立ってしまい、普段食べないコンビニスイーツを買い食いしてしまった。

 

 

 バイトが楽しかったのは最初の二日だけだった。あとはもう最悪だ。

 

 作業自体は簡単で、教育担当の女性も優しく丁寧に教えてくれた。

 

 だが仕事が簡単だということは、誰でも即戦力として期待されるということだ。三日目からは、掃守が少しミスをしただけで叱責が飛び、拭き残しや髪の毛一本落ちているだけでもやり直しを命じられた。優しかった教育担当の女性も、化けの皮がはがれたようで、皮の下にいたのは鬼だった。

 

 何度も辞めようと思った。『バイト 辞め方』で検索して、明日こそは伝えようとするのだが、現場責任者も怖くて言い出せない。仮に来月で辞めます、と伝えて承認されたとしても、残り一ケ月は働くと思うと気が滅入る。そうして季節は春から秋に、そして冬になった。

 

 冬場の拭き掃除はつらい。雑巾を冷水に浸す作業で、指先の感覚が消えてしまう。ポリ手袋をしていても、冷たさはほぼダイレクトに伝わってくる。日本の冬はこんなに寒かっただろうか。

 

 清掃するビルは何か所かあり、中でも掃守が嫌いだったのは、昭和から時が止まったかのような古びた雑居ビルだ。とにかく汚い。これだけの頻度で清掃が入っているのに、どうしてここまで汚せるのかと思うほどだ。入っているのは建築会社や税理士事務所らしいが、マナーが悪い人間ばかりが入居しているのだろう。喫煙所が屋上にあるのに廊下に吸い殻が落ちているし、コンビニ弁当の容器が散乱しているのも、もう見慣れた。ゴキブリにとっては最高の環境だそうで、掃除中に何度も黒くてでっかいものと遭遇する羽目になった。ここでかわいい悲鳴をあげて男性に抱きつけるような積極性があれば、少しは大学の男子から相手にされるのだろうか。いつも周りに男子をはべらせている同級生などは、すべて計算づくでそういう行動を取っているのだろう。

 

 

 バイト先が潰れた、という知らせは唐突にやってきた。倒産ではない。潰されたのだ。

 

 掃守がそれを知ったのは、学食のテレビでニュースを見ていた時だった。

 

 画面の中の男性アナウンサーが言う。

 

 「本日の早朝四時頃、金田本舗の本社ビルに何者かが不法侵入し、中にいた社長を含む社員と、その場に居合わせた従業員五名を殺害しました。館内の監視カメラに映像は残っておらず、警察は犯人の行方を捜査中です」

 

 金田本舗。掃守を半年間苦しめた、悪夢のバイト先だ。

 

 本来なら今日もシフトに入っていたのだが、出勤することはできなくなった。

 

 給料日の翌日で、少し贅沢をしようとカツ丼定食を食べていた掃守の手から力が抜け、箸が床に落ちた。

 

 次のニュースに切り替わってしまったので、スマホで「金田本舗」と入力して最新のニュースを検索する。事件の詳細は分かっておらず、アナウンサーの口から語られた以上の情報はほとんどなく、コメントもゼロ件だった。

 

 「さっきのニュースでやってたのってさ、大学の近くじゃないですか?」

 

 落ちた箸を新しいものに交換して、席に戻ってカツを口に運んでいた掃守の向かいに、挨拶もなく腰をおろしたのは福田浩紀。講義でたまに席が近くになり、親しいというほどではないが、会えば喋る程度の仲の男だ。整髪料を一切使わない頭髪はいつもぼさぼさで、しかも髪質が良くないので、どうにも清潔感に欠ける。銀縁の眼鏡のレンズの奥の瞳は小さく、着ているシャツの常に同じようなデザインだ。大学デビューに失敗したというか、デビューする気すらなかったのだろう。

 

 そして福田はなぜか同級生に対しても敬語だ。

 

 こういうタイプの男は、自分と同レベルと見なした相手にしか話しかけることはできないようで、掃守がその分類に入れられているのも気に食わない。化粧やオシャレに情熱を注げないだけで、素材は悪くないと自分では思っている。確かに男性から言い寄られたことこそないが、別に不細工だとか罵られたこともない。良くも悪くも平均的な容姿なだけだ。

 

 「実はあそこ、私のバイト先なんだよね」

 

 「えっ、掃守さんって清掃のバイトやってたんですか。あー、うん。なんか意外って言いたかったけど、意外でもないというか、確かにモップとか似合いそうですね」

 

 敬語だからといって敬意を払わないのが福田のダメなところだ。だから上位グループからは相手にされないし、掃守のような中間かそれ以下のヒエラルキーの人間からも好かれない。本人はそれを理解していないようだが。

 

 「バイト先があんな形で潰れるなんてびっくりだよ。社長も従業員も殺されたみたいだし、怖いよね。犯人はなにが目的だったんだろ」

 

 「きっと怨恨ですよ。金田本舗に強い恨みがある人間が、前々から練ってた殺人計画なんです。だって突発的な犯行だとは思えないでしょ?社長一人をサシで殺すならまだしも、五人以上も一人で殺しちゃうなんて!」

 

 殺人事件を嬉々として語る福田。小さな一重の目が見開かれて、いつもの三倍くらいのサイズになっている。

 

 こいつ、なんか人殺してそうだな、と福田の顔を見て思った。創作の世界では恐ろしく、それでいてミステリアスな存在として描かれるシリアルキラーも、現実ではこんなものだ。地味な見た目のやつほど、危険思想を持っているものである。

 

 「てかどうしよ。バイト先無くなったんだけど。職場環境は最悪だったから、辞めるって言いだす手間も省けたし、それ自体はいいんだけどさ。来月からまたお金なくなっちゃう」

 

 半年分の貯金はあるが、そう長くはもたない。早く次のバイト先を見つけないと。

 

 「清掃会社なら、俺いいところ知ってますよ。紹介しましょうか?」

 

 福田の紹介というだけで不安しかない。断ろうとしたが、提示された条件を聞いて考えを改めた。

 

 「時給一八〇〇円ですよ、一八〇〇円!シフトも自由。ちょっとした伝手があるんで、俺の紹介だって言ったら多分採用してくれますよ。どうします?」

 

 「お願いできるかな?」

 

 「了解、あとでまた連絡しますね。あれ、俺って掃守さんの連絡先知ってましたっけ?」

 

 そういえば教えていない。なんとなく生理的に受け付けなかったので、前に連絡先を聞かれたときに、適当な言い訳をして躱していた。

 

 まさかここで教えることになるとは。だが背に腹は代えられぬ。だって時給一八〇〇円なのだから。

 


 


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