窓の向こうの春
日々の通勤路にある、古いアパートの二階の窓。そこに毎朝座る人がいる――ただそれだけのことが、ある朝から僕の世界を少しずつ変えていきました。静かに流れる時間の中で、届かなかった言葉と、届いていた想いの物語。
※一話完結の長編です。ゆっくり読んでください。
はじめてその窓に気づいたのは、二月の風が耳を刺す朝だった。
古い木造アパートの二階。白いレースのカーテンを片手で少し持ち上げるようにして、誰かが外を見ていた。顔ははっきり見えない。ただ、カーテンの隙間に細い指と、頬の輪郭がわずかに覗く。
信号が青に変わり、僕は足早に横断歩道を渡った。振り返ると、窓はもう、いつもそこにあったみたいな顔で黙って風に揺れていた。
翌朝も、その翌朝も、窓は開いていた。
七時四十二分。僕の通勤がほぼ同じ時刻であることを、その窓は知っているように思えた。アパートの前に立つケヤキの枝はまだ裸で、乾いた枝先が空に細い線を描いている。
僕は信号待ちのあいだ、視線を少しだけ上げる。彼女――と、いつの間にか心の中で呼ぶようになった――は、動かない。窓辺に座り、外を見ている。見ている先がどこなのか、僕にはわからない。
習慣は静かに体に沁み込んでいく。
会社のエレベーターホールで新聞の一面を斜め読みし、デスクのパソコンを立ち上げる。夜は遅く、朝は眠い。その単純な繰り返しの中、僕は毎朝、あの窓を一回だけ見上げることを覚えた。
冬は少しずつ薄まり、早朝の空に水色が滲みはじめる。ある朝、彼女の肩に薄いショールの形を見つけて、僕は自分のマフラーを少しだけきつく巻き直した。
三月の終わり、アパートの前の桜が、ふくらんだ蕾を音もなくほどきはじめた。
花の色は、咲きはじめの頃が一番白い。枝の先に灯る小さな灯りたちが、冷たい朝をやさしく塗り替えていく。
その日の彼女は、いつもより少し窓に近く座っていた。光の角度が違うのか、レースの隙間から、目元の影がほんの少しだけ見えた。僕は視線を逸らした。見つめ返された気がして、胸がきゅっとなる。
四月の最初の金曜日。
前夜の残業で寝坊しかけ、いつもより十五分遅い電車を降りた。息を切らしながら角を曲がると、窓は――開いていた。
いつも通り、と言うには、なにかが違っていた。彼女はカーテンを大きく引いて、そこに座っていた。朝の光にレース模様が彼女の頬に映って、ゆらゆらと風に揺れている。僕が立ち止まると、彼女は小さく会釈をした。
咄嗟に、僕も頭を下げた。言葉は出てこない。足元の影だけが追い越していく。
信号が変わる。歩き出した瞬間、不意に背中に声が落ちた。
「桜、きれいですね」
振り返ると、彼女が窓越しに微笑んでいた。
声は思ったよりも明るく、乾いた空気に柔らかい水を落としたみたいに、僕の胸の中で静かに広がった。
「……はい。毎年、ここがいちばんきれいだと思います」
言葉にしてはじめて気づく。僕はもう、この場所の春を知っている。
彼女は目を細めてうなずいた。
「私も、そう思ってました」
それだけだった。ほんのそれだけの会話なのに、日中の色が少しだけ違って見えた。コピー用紙の白も、道路標識の青も、いつもより鮮やかで、会社の空調の風ですら少し優しかった。
翌週の月曜日、窓は閉じられていた。
雨が降っていたからかもしれない。
火曜日、やはり閉じられていた。
水曜日、木曜日、そして金曜日。
白いレースは、窓の内側でぴたりと静まり返っていた。
何かあったのだろうか、と初めて思う。
人は、見えないと途端に過去になる。つい昨日までそこにあった温度も匂いも、驚くほど早く薄れてしまう。
週末、少しだけ遠回りして昼のアパートの前を通ってみた。窓はやはり閉じたまま。郵便受けには、いくつかのチラシがはみ出したままになっている。
僕は何もできず、そのまま家に帰った。
月曜日、アパートの管理人らしき男性が階段を上り下りしていた。
通りすがりに軽く会釈すると、向こうも会釈を返す。僕は迷ってから、声をかけた。
「あの……二階の角の部屋の方は」
「引っ越されましたよ。先週の土曜にね」
胸の中で、何かが小さく音を立てる。
「急に、ですか」
「うん。まあ、いろいろ事情があるみたいで」
管理人はそこで言葉を切り、肩をすくめた。「いい人だったけどね。朝早くからよく外を見てたよ。ここ、朝日がよく入るんだ」
僕は礼を言い、会社へ向かった。
道の途中で足を止め、振り返る。
窓は閉じたまま、何も言わない。
見上げる僕を、もう誰も見ていない。
春は、何事もなかったように過ぎていった。
年度が替わり、新人が入ってくる。忙しさは容赦なく日々を詰め、カレンダーの数字は手帳の端でめくられていく。
桜は散り、ケヤキには若葉が生まれ、その若葉は濃くなり、雨は長く続く季節の気配を連れてきた。
六月のある土曜日、洗濯物を干し終えたあと、唐突にあの窓のことを思い出した。
理由はわからない。ただ、ベランダに立ったときの風の匂いが、あの日の朝と同じに思えたのかもしれない。僕はスニーカーを履いて、家を出た。
アパートの前は、紫陽花が咲きはじめていた。
管理人室の扉が半分開いている。軽くノックすると、中から「はーい」と声がした。
顔を出した管理人に挨拶をし、僕は言った。
「先日、お世話になってた方のこと……変なお願いかもしれませんが、もし処分に困っているものがあれば、僕が引き取れる物もあるかと。レースのカーテンだけでも」
自分でも驚くほど、言葉はまっすぐ出てきた。
管理人は少し目を丸くしてから、ふっと笑った。
「片づけはね、ほとんどご本人がやっていかれたよ。身軽な方だった。――ああ、でも郵便だけ、転送の手続きまで時間がかかるって言ってたな。もしよければ、ポストに残ってる分を預かっていただける?」
僕はうなずいた。二階へ上がる階段は少しきしむ。
彼女の部屋の前に立つ。ドアの前の空気が、少し冷たい。ポストの中に、白い封筒が一通、名前の書かれたメモと輪ゴムで留められていた。
封筒の宛名は、彼女自身のものだった。差出人は病院。検査結果在中。投函日は一か月前。
その文字列が胸の奥のどこかを掴み、静かに握る。僕は封筒をそっと管理人に渡した。
「ありがとうございます。転送先にまとめて送りますね」
「はい……あの、失礼ですが、その方のお名前を、教えていただけますか」
管理人はメモを見つめ、「沢渡さん」と読んだ。
沢渡。知らない名前だけれど、どこか音の良い名前だと思った。
僕は礼を言ってアパートを出た。紫陽花の青が雨を待つように濃くなっている。
夏が来て、秋が来た。
窓の向こうに誰かが座ることはなく、カーテンは新しいものに変わった。白さが少し強く、レースの模様は前よりも密で、外からは中の気配がわかりにくい。
それでも僕はときどき、信号待ちの間に窓を見上げる癖をやめられなかった。視線を上げるたび、胸に柔らかい痛みが走る。痛みは、忘れていない証拠だと自分に言い聞かせた。
年が明け、また春が来た。
ケヤキは裸の枝を空へ伸ばし、桜は静かに色を溜める。
ある朝、アパートの前に引っ越しトラックが停まっていた。若い夫婦と、小さな女の子。管理人が手伝い、笑い声が階段に満ちる。
僕は少し遠回りして角を曲がった。二階の窓が開いていた。新しいレースが風に揺れている。窓辺に小さなぬいぐるみが置かれ、女の子が顔を出して外を見た。
僕と目が合い、女の子はいたずらっぽく手を振った。僕は笑って手を振り返す。母親が「ごめんなさい」と会釈する。世界は続く。
そのとき、窓の外枠に、見覚えのあるものを見つけた。
白いマスキングテープ。角にだけ小さく貼られた印。
去年の春の、あの窓にも、同じ場所に小さな白があった。僕はそこに視線を止め、胸の奥で何かがきゅっと鳴るのを感じる。
きっと、偶然だ。
けれど、偶然で十分だとも思った。
もし世界のどこかで、沢渡さんが新しい窓辺に座っているなら、朝の光が彼女の頬に、またレースの模様を落としているなら――それでいい。
その週末、僕は文房具店で白い便箋と封筒を買った。
宛先は書かない。ただ、言葉を書く。
窓の向こうの春のこと。桜の白さのこと。たった一度交わした「きれいですね」の会話が、どれほど僕の一年を柔らかくしたかということ。
書き終えて封をし、引き出しにしまう。どこにも出さない手紙は、小さな祈りに似ている。
翌朝、通勤路の桜が一斉にほどけた。
花びらが風に舞い、道路の白線の上に薄い雪のように降り積もる。
僕は角を曲がる前に、立ち止まって窓を見上げた。
そこにいるのは、もう別の誰かだ。
それでも、光の角度は去年と同じで、レースは去年と同じように揺れ、そのやわらかな影が、確かに僕の胸の内側に落ちた。
春は、今年も来た。
世界は毎年同じ顔で、すこしずつ違う。
僕は歩きだす。信号が青に変わり、ケヤキの枝先で小鳥が跳ねる。
窓の向こうに届かなくても、僕の中の春だけは、確かに去年から続いている。
それで、きっと、十分だ。
最後まで読んでくれてありがとう。
「届かないまま届いているもの」を描きたくて、この物語を書きました。ほんの一度の挨拶や、視線が交わる短い時間が、その後の一年をやわらかく変えることって、たしかにあると思う。
あなたの中にも、思い出すたび胸の奥でそっと揺れる“窓の向こう”がありますように。




