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第4章 心理士の部屋

 時報が九月の到来を告げ、始業の鐘が生徒たちを学校へ呼び寄せた。

 ミレックはクラスメートとともに新しい教室に移動し、一番前の窓際の席を割り当てられた。友人のトーリャとは同じクラス。今ではミレックをからかったり、いじめたりする生徒はほとんどいない。静かな青い目にまっすぐ見据えられると、後ずさる者さえいる。

 事件からしばらくして、おせっかいなマスコミが詳細を書き立てたことで、生徒たちはその深刻さに気づいた。

 本来なら「四人目の行方不明者」になっていたはずのミレックは帰還した。彼は奇跡の人であり、いじめの対象ではない――いつしか、そんな風潮が広まった。

 六年生になり、勉強や宿題が難しくなると、ミレックとほかの生徒の学力差は大きく開いた。ミレックはしばしば教室で内職をした。難しい本を読むのではない。ノートの端に窓の鍵を模写し、先生の横顔を描く。授業は簡単すぎて、かえって集中が途切れた。

 その日、三時間目の途中でミレックは席を立った。教師は頷き、戸口を指し示した。

「さようなら、ミレック」

 生徒たちがまばらに言う。ミレックは通学鞄を持ち、教室を後にした。心理士の予約時刻が、四十五分後に迫っていた。

 トラムを下りて、アスファルトの道を行く。

 並木道の白樺から落ちた葉が地面に貼りつき、冷たい風が舞い上げては灰色の空へ散らしていく。

 街角のキオスクには新聞と熱い紅茶のサモワール。道行く人々の息は白く揺れていた。

 その通り沿いに、古い石造りの建物がある。外壁はところどころ剥がれ、入口には真鍮の小さな表札――「心理相談室」。

 ドア脇の黄色いランプがほのかに灯り、街の冷たい空気とは別の温もりを知らせていた。


 ***


 応接室には柔らかな絨毯と観葉植物。壁際の棚には絵本から哲学書までが並び、子どもも大人も来る場所であることを物語っている。

 向かいの椅子には、五十代ほどのふくよかな女性。栗色に染めた髪は肩のあたりで軽やかにカールしていた。ミレックはその髪色を一目で見抜いた。

「ヘナ」――伯母エレーナに頼まれて薬局へ買いに行ったことがある、いま流行のヘアカラー。温和で人当たりの良さそうな女性だったが、初対面の心理士を前に、ミレックの肩はわずかに強張った。以前会った眼鏡の男性心理士とは違う、穏やかな笑みを浮かべた新しい人だ。

「いらっしゃい、ミレック」

 穏やかな声に迎えられ、ミレックは一礼して椅子に腰を下ろした。心理士は「アンナ・イヴァノヴナ・リトヴィノヴァ」と自己紹介し、近況を尋ねる。

 ミレックは鞄から一冊の本を取り出した。稽古の合間に読み込んでいた『ねじの回転』。表紙の角はすでに擦れている。

「これを読んでいるんです」

 小さな声で言って、テーブルに置く。

 心理士は目を細めた。

「どうして、その本を?」

「この小説、知っていますか?」

「ええ、もちろん。学生の頃に読んだわ。映画にもなった。怖かったけれど、ただの怪談じゃないのよね」

「この話、オペラにもなってるんです。作ったのはイギリスの作曲家、ブリテン」

「ブリテン! 知っているわ。ロストロポーヴィチと親しかった作曲家でしょう。父がチェロをやっていたから、私も少しだけ詳しいの」

「そうなんだ!」

 ミレックの顔に、一瞬明るさが射した。

「ぼく、そのオペラに出るんです。マイルズっていう役で」

「なるほど。それで本を選んだのね」

「はい」

 彼は本の背を指でなぞりながら、言葉を続けた。

「この話、ただの幽霊譚じゃない。大人と子どもの関係が……変なんです」

 ページを開くと、声が少し硬くなった。

「ピーター・クィント。屋敷の執事だった大人の男と、マイルズ。とてもいい子だって言われる少年。でも、その二人の関係が……何だったのか。友達? それとも支配?」

 心理士は黙ってうなずく。

「僕は思うんです。クィントはマイルズを好きだった、でも同時に支配してた。マイルズは優等生で、何でもできる子。でも、心の奥には語らないことがあった」

 小さく息を吐く。

「それって、僕みたいだって思ったんです」

 心理士は遮らず、ただ受けとめるようにうなずき続けた。


 ***


 少年の言葉は自然に、過去へとつながっていった。

「僕にも、そういう人がいました。大人なのに、友達みたいで。楽しかったし、助けてもくれた」

 瞼がわずかに震える。

「でも……あの人は僕をだました。連れ去って、心を落とした。クィントとマイルズみたいに」

 声がかすれる。

「今でも、忘れられない。いい人だった、って思いたい。でも、それは偶像かもしれない。本当は僕を縛ってる像なのかも」

 心理士は静かに言った。

「ミレック。あなたはその像を壊したいのね」

「壊したいっていうか……自由になりたいんです。その人が『いい人』か『犯人』か、そのはざまで苦しみたくない」

 ミレックは四つ数えて吸い、四つ数えて吐く。

「会いたくはありません……怖い。でも、一つだけ質問したい、ニ……」

 ニキータ――。

 名を口にしようとした瞬間、喉に固い輪がはまり、空気が細くなる。

 事件の一年後、ようやく少しだけ話せるようになった。警察署でソコロフの前に座り、主語のないまま思い出を並べた。警察がニキータについて知りたがっていることは、分かっていた。

 けれど、その名に舌が触れそうになると、帽子の男に抱え上げられたときの浮遊感や、薬品の甘い臭いが一気に立ちのぼり、視界の端が白くなる。

 四つ吸って、四つ吐く――数は、すぐに崩れた。

 突然黙り込んだ少年を、心理士はおおらかな表情で見つめ、ゆっくりと首を傾げた。

「いいのよ、焦らないでね。ここは安全。怖いものは何もないわ」

「アンナ・イヴァノヴナ、ぼくはただ、自由になりたい。こんなふうに悩むのは嫌だ。僕は、一体どうしたらいいでしょうか」

 心理士は一呼吸おいて微笑んだ。

「舞台でマイルズを演じること。それが答えの一歩になるかもしれないわ。舞台は安全な場所よ。そこでなら、あなたは自由に叫べる。現実で言えなかったことも、歌と芝居を通して外に出せるの」

 ミレックは視線を落とした。胸の奥のざわめきが、ほんの少し形を変えた気がした。

 本を閉じ、小さな声でつぶやく。

「マイルズはクィントを悪魔って呼んだ。きっと彼も、苦しかったんだ」

 窓の外では落ち葉が風に巻き上げられていた。

 一枚がガラスに貼りつき、すぐに剥がれて回転しながら地面に落ちた。

 ミレックはそれを偶像のかけらが砕けていく光景のように感じ、胸の奥で小さく息を吸った。

 


本作品は『金になる声』の続編です。事件から2年後。12歳になったミレック少年の成長と歌声をお楽しみください。


金になる声

https://ncode.syosetu.com/n2178le/

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