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第3章 稽古の日々

 6月。その年、ミレックは夏休みを歌の稽古に費やした。ダーチャの滞在はたった十日間。そこでも、歌の練習は欠かさなかった。

 7月になると、週に一度、共演者と顔を合わせる稽古が始まった。文化会館の稽古室には、毎回のように同じ顔が集まる。譜面台の下には水のボトルやショールが並び、壁際には誰かの古びた鞄。

 その中で、ミレックは黙々と自分の役を覚えた。楽譜の行間を指でなぞりながら、耳で歌声を吸い取る。

 同じ子どもの役を務めるフローラ役の少女――アーニャは、彼より背が高かった。すらりとした体つきに、子どもらしさと女性らしさが同居している。彼女は音楽教師の母に連れられて通い、休憩時間にはいつも楽しそうに笑い声を響かせた。アーニャは合唱アカデミーに通っていて、将来の夢はオペラ歌手。この公演は学校の延長のように感じられ、プレッシャーもなく、舞台に立つことを心から楽しんでいる。

 稽古の合間、彼女はキャンディを取り出してはミレックに差し出した。

「食べる?」

「ありがとう」

 ミレックは礼儀正しく受け取るが、微笑みは小さい。笑えば顔が幼く見える――そのことを、彼自身よく分かっていた。

「昨日のシーン、すごく上手だったよ」

 アーニャは屈託なく褒める。称賛は彼女にとって自然な感情表現だった。

「君も上手だった」

 ミレックの返事は丁寧だが、どこか距離を置いている。

「でも、なんか寂しそうに歌うのね。私、フローラだからマイルズのことを心配しちゃう」

 彼女は首を傾げた。子どもらしい率直さで、思ったことをそのまま口にする。

 アーニャは時折、彼の肩を軽く叩いたり、冗談を言って笑わせようとした。けれど、ミレックの反応は控えめで、まるで年齢の釣り合いが逆転しているようだった。

 十二歳の少女が明るくはしゃぐ横で、十二歳の少年は落ち着きすぎている――。

 アーニャは不思議に思った。ミレックが一人で譜面を読んでいる姿をよく見かける。隣の稽古場で子どもたちが騒いでいても、彼だけは静かに座っている。同い年なのに、なぜこんなに違うのだろう。何度「一緒にお菓子食べない?」と誘っても、彼の笑顔は表面的で、心の奥まで届かない気がする。

 やがて演出家の視線は、彼に長く留まるようになった。

「ミレック、もっと感情を抑えて。君の声は強い、それだけで伝わる」

「はい」

 落ち着いた返事。だが、十二歳の少年にしては不思議な冷静さだった。四つ吸って、四つ吐く。胸の奥の石が、わずかに位置を変える。

 共演者たちは、稽古の合間に彼を褒め合った。

「まるで小さな紳士ね」

「でも、子どもらしさが薄いわ」

 囁き合う声が背中に届く。彼らにとって、ミレックは「可愛い子役」ではなく、ときに大人を映す鏡のように見えていた。

 その横でアーニャは屈託なく笑い、まさに子どもらしい「フローラ」として舞台に存在していた。


 ***


 父アンドレイは、稽古を見守るたびに複雑な心境に揺れた。

 ――やはり応募してよかった。舞台で光を浴びる息子は、教授としての自分に誇りをもたらす。

 だが同時に、心の奥で小さな痛みが膨らむ。

 笑わない。はしゃがない。舞台で拍手を受けても、ほんのわずかに口元を動かすだけ。

 あの事件以来、ミレックが心から笑ったことがないことを、アンドレイは気づいていた。

 それでも――人前で歌うことで、再び光が差すのではないか。そう信じるしかなかった。


 ***


 稽古は日を追うごとに厳しくなっていった。ピーター・クィント役のテノールが迫力ある声を放つと、稽古室全体が緊張に包まれる。

 その直後に歌うミレックの透明な声は、冷たい水のように空気を切り替えた。

「……不思議な子だ」ソプラノ歌手がつぶやく。「恐怖も、純真さも、そのまま響かせてしまう」

 アーニャは舞台袖から彼を見つめていた。

「ミレックって、何か悲しいことがあったのかな」

 彼女は小さく呟いた。なぜそう思うのか説明できないが、彼の歌声には何か痛みが混じっている気がする。

「同い年なのに、ミレックは……大人みたい」

 ミレックは譜面を閉じ、椅子に腰を下ろす。目は静かに伏せられている。

 ――アーニャは知らない。だからこそ、彼女の無邪気な善意は時として救いでもあり、越えられない壁でもあった。

 ――誰も知らない。その心の奥で、笑いと涙を封じ込めたまま、歌だけが出口になっていることを。


 ***


 稽古から帰ると、伯母エレーナがキッチンでボルシチを作っていた。

「どうだった? 今日の稽古は」

 湯気の向こうから優しい声がかかる。父とは違い、彼女はミレックの様子を注意深く観察していた。

「大丈夫。アーニャっていう女の子といつも一緒に歌っている。親しくなったよ」

「それは良かったわね。友達ができるのは大切よ」

 エレーナは木べらを置き、甥の顔を見つめた。この子は同世代の子どもたちとの距離を取りがちだった。舞台が、そんな彼に新しいつながりを与えてくれることを願っていた。

「これ、おいしいね」

 ミレックは小さなスポンジケーキにフォークをさし、チョコレートソースで白い皿に小さな円を描いた。


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