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第2章 トラムの読書

 午後のトラムは空いていた。昼過ぎの眠気を引きずった人々で静かに満ちていた。窓は曇りガラスのように白く曇り、外の街路樹が灰色の風景として流れていく。

 ミレックは窓際の座席に腰を下ろし、膝の上に小さな本を広げた。

 ――『ねじの回転』。

 ヘンリー・ジェイムズの小説。この小説をもとに、ブリテンがオペラを書いた。

 表紙の文字を指でなぞると、指先がかすかに冷たく感じられた。

 ページを繰る。

 イギリスの古い屋敷。孤児マイルズと妹フローラ。新しく雇われた家庭教師は、二人に取り憑く亡霊ピーター・クィントと女家庭教師ジェスルの存在に気づく。

 彼らは子どもを操ろうとしているのか、それとも大人の妄想なのか。

 少年マイルズは天使のように無垢に見えるが、どこか影を抱えている。

 やがてクィントとの奇妙な関係がほのめかされ、最後にマイルズは「悪魔め!」と叫び、家庭教師の腕の中で息絶える。

 わずか数行を追うだけで、胸の奥がざわめいた。


 マイルズ――完璧で、愛らしく、でも秘密を抱えた少年。

 クィント――大人でありながら、子どもに寄り添い、支配しようとする存在。


 ある人物の名が、ミレックの心に浮かぶ。――ニキータ。


 その瞬間、景色が一変した。

 夏のあの日――アスファルトの上のチョークの地図。

 ミレックの新品のハイソックスを乱暴に引き下ろすいじめっこたち。

 そこに現れて「立てるか」と声をかけてくれた青年ニキータ。

 セメントの粉をまとい、銀紙に包んだガムを差し出した手。

 ――「ぼくの声は金の鈴だ」――

 そう言ったとき、彼は微笑んだ。

 あのときの胸の温かさを、いまも忘れられない。


 ――ぼくたちは何だったのだろう。


 友達? それとも……。

 ページの活字と、過去の記憶が溶け合っていく。

 マイルズとクィント。

 ミレックとニキータ。

 答えはまだ出せない。けれど、このオペラを歌うことで、いつか見つかるかもしれない。


 トラムが停まり、乗客が一斉に降りていく。

 ミレックは本を閉じ、胸に抱きしめるようにして立ち上がった。

 本から音楽は聞こえてこない。メロディアに問い合わせたが、ブリテンのLPは入手困難。でも、総譜があれば充分だ。表紙を開けば音楽が立ち上り、一気にその世界へミレックを引っ張り込んでくれるはずである。店の回転扉を押すミレックの足取りは軽かった。

 ――物語は、すでに始まっている。


本作品は『金になる声』の続編です。事件から2年後。12歳になったミレック少年の成長と歌声をお楽しみください。


金になる声

https://ncode.syosetu.com/n2178le/

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