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第1章 オーディションの一日(1993年5月)

 朝の団地の廊下には、まだ夜の冷気が残っていた。

 ミレックは靴紐を結びながら、父の言葉を反芻していた。先月のことだ。

「来月、オーディションがあるんだ。君なら対応できるはずだ――どうだ、受けてみるか」

 あまりに唐突で、最初は冗談だと思った。だが父の目は冗談ではなかった。すでに応募は済んでいるという。


「ねじの回転」というオペラの少年役――マイルズ。


「君の声質には合っている。舞台に立てば感覚も戻るだろう。とは言え……無理はしなくていい」

 それが本心なのか、あるいは教授としての誇りを満たすためなのか。ミレックには判別できなかった。

 ――僕にまた歌える日が来るのだろうか……

 12歳のミレックは、同年代の少年たちより一回り小さかった。148センチの華奢な体型は、まだ子供と大人の境界線をはるか手前に留まっている。その小ささゆえに、彼の声はボーイソプラノとしての最良の時期を迎えていた。

 変声期はまだ数年先――だが事件の後、彼は歌うことをやめていた。正確には、歌えなくなっていた。

 かつて子ども音楽祭で《エリヤ》を歌った時のように――メンデルスゾーンの旋律に乗せて「聞け、イスラエル」の祈りを天上から降り注ぐ光のように響かせることは、もはや遠い記憶だった。

 とはいえ、オーディションを断る理由はなかった。父の熱意に負けたわけではない。オペラという非日常の空間に身を置いてみることに、ためらいがなかっただけのことである。もし合格すれば、現実から離れて自分を見つめるいいチャンスとなるはずである。

 それに、ミレックはブリテンの音楽が好きだった。

「オーディションでは、何を歌えばいいの?」

「先方から楽譜が届いた。童謡が一枚、初見でいけると思う。疲れているなら、明日に回して構わない」

 “Lavender’s Blue”――イギリスの有名な童謡。初見で歌える簡単な曲だ。

「あと一曲はコンコーネだ。無理のないテンポでいい」

「わかった、お父さん。ぼく、やってみる」

 息子の言葉は父をほっとさせた。

「楽しむくらいでいい。結論はあとで考えよう」

「お父さんも一緒に行くの?」

「車を出そう。朝は冷えるからな」

 こうして父は久々に息子をプジョーに乗せ、広場の方向へ車を走らせた。


 ***


 会場はモスクワ中心部の文化会館だった。曇り空の下、入り口には次々と親子がやってくる。黒いコートの少年、リボンを結んだ少女、緊張した母親の姿。その列の中に、ミレックは父に連れられて立っていた。

「背筋を伸ばせ」

 父の声に従い、冷たい空気を胸いっぱいに吸う。吐く息がかすかに白む。

 受付で名前を告げると、係員が名簿に赤鉛筆で印をつけた。

「控室はこちらです」

 薄暗い廊下を進み、ミレックは周囲の視線を意識した。誰もがライバルで、誰もが緊張している。

 控室の椅子には、すでに少年少女たちが座っていた。ある少年と目が合った。黒い髪に白いシャツ。彼は視線をそらさず、短く「がんばれ」と囁いた。その響きは挑戦のようでもあり、励ましのようでもあった。ミレックは曖昧に頷き、次の順番を待った。

 やがて番号が呼ばれる。

「次、ミレック・リヴォフ君」

 舞台袖に立つと、ライトの熱がじんわりと肌に届いた。目の前は広いホール。暗がりの中で審査員たちの影が並んでいる。

「準備はできていますか」

 伴奏者の女性が微笑む。

 ミレックは頷いた。胸の奥に冷たい石のようなものが沈んでいる。だが同時に、不思議な高揚感が血を巡った。

 ピアノが和音を奏でる。

 ひと呼吸つく。

 声が立ち上がった。十二歳になった今も、彼の声は少年期特有の透明感を保っていた。小柄な体躯から生まれる声は、まだ変声期の影を知らない純粋なボーイソプラノ。しかし以前とは違っていた。かつての無邪気な輝きは影を帯び、その奥に深い陰翳が宿っている。痛みを知った声——それは失ったものを嘆く美しさであり、同時に何かを求める切実な祈りでもあった。

 審査員の顔が動く。ペンを走らせる者。顎に手を当てる者。けれどその表情を見ている余裕はなかった。

 歌に没頭するうち、冷たい石は少しずつ溶け、胸の奥が温かくなっていった。終わった瞬間、ホールには短い沈黙が落ちた。

「ありがとうございました」

 声をかけられ、ミレックは一礼した。退場する足取りは軽くもあり、震えてもいた。

 その後、審査員の一人が小声で隣に囁いた。

「本物だ」

 別の審査員が頷き、目を細めた。


 ***


 外に出ると、曇り空に細かな雨が舞い始めていた。父はコートの襟を立て、息子を横目に見た。

「よく響いていた。おつかれ」

 それだけを言って歩き出す。

 ミレックは返事をせず、ただ白い息を吐いた。心臓の鼓動がまだ収まらない。――自分は、歌えた。

 雨の粒が肩に落ちる。それを払いながら、彼は思った。

 これが始まりなのか、それとも――。

 数日後、ミレックは一通の封書を受け取った。封を開けると、オーディションの結果の通知。「合格」の文字が目に入った。

 少年役はミレックのもとに舞い込み、ステージへの道が開けた。

 父の書斎に入り、報告を兼ねて封書を机の上に置く。父の机の前――「ゼミ机」と父が呼ぶ四人掛けの勉強机に目を向ける。すると、一冊の本とメモがミレックの目に留まった。


 ――この本を読んでおいてくれ。読めた範囲でいい、君の言葉で要点を聞かせてほしい。—父より――


 書名は『ねじの回転(The Turn of the Screw)』。

 手に取り、パラパラとページをめくる。

 新品の本で手書きの注釈はない。これくらいの英語は自力で読め、ということだ。

 ミレックは本をポケットに入れ、上着を羽織る。楽譜店でブリテンの総譜がミレックを待っているはずだった。電気を消し、ドアのカギをカチャリと回した。



本作品は『金になる声』の続編です。事件から2年後。12歳になったミレック少年の成長と歌声をお楽しみください。


金になる声

https://ncode.syosetu.com/n2178le/

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