プロローグ ねじの回転
1993年3月。モスクワの春はまだ遠く、街路樹の枝は霜で白く縁どられていた。
アンドレイ・ニコラエヴィチ・リヴォフは、大学の同僚に渡された一枚の紙を手にしていた。そこには、ベンジャミン・ブリテンのオペラ《ねじの回転》少年役オーディションの案内が印刷されていた。
「教授のご子息なら、ぜひ」
軽い調子の紙切れを受け取り、彼は無意識に角をそろえた。
最初は出来心だった。
――うちの息子も歌える。応募させてもいいのかもしれない。
だが指先が止まる。
息子は、あの事件以来、笑わなくなった。心の奥で凍りついたまま、机と本に閉じこもっている。
もし再び舞台に立ち、自分を解き放つことができれば――。
舞台でなら、言えないことが言える――七歳年上の姉エレーナに教わったことを彼は思い出す。その言葉に間違いはなかった。役を演じることで別の自分になれた。
アンドレイは上着のポケットから万年筆を取り出し、ためらいもなく応募用紙に書く。
――ミロスラフ・アンドレイヴィチ・リヴォフーー
「これが光か。あるいは、別の影か……」
窓の外では、小雪が雨に交じって静かに舞っていた。