夕茜
夕方の図書館は静寂に支配されていた。蛍光灯の白い光の下で、僕は一人、机に向かっている。しかし、文字は一向に紙に定着してくれない。
「お疲れさまです」
振り返ると、あかりさんが立っていた。司書の彼女は、いつものように本を抱えている。
「まだいらしたんですね」
彼女の声には責める響きなど微塵もない。ただ、夜長の季節に遅くまで残る学生への、静かな気遣いがあった。
「はい...でも、全然進まなくて」
僕の言葉に、あかりさんは微笑んだ。
「少し休憩されませんか?」
そう言うと、彼女は僕の隣に腰を下ろした。窓辺では、秋の虫の声が小さく響いている。
「無理をしても、良い文章は生まれませんから」
あかりさんの言葉は、まるで秋の夜露のように心に染み込んだ。彼女の存在そのものが慰藉であり、その優しさは乾いた空気を通して肌に伝わってくる。
「あかりさんは、なんでいつもそんなに優しいんですか?」
僕の問いに、彼女は首をかしげた。外では、風に揺れる木々がかすかに葉音を立てている。
「優しい、でしょうか?」
「ええ。まるで...」
僕は言葉を探した。月のよう、雲のよう、様々な比喩が頭をよぎったが、どれも彼女の本質を捉えきれない。
「まるで、存在そのものが祈りみたいな」
あかりさんは静かに微笑んだ。その笑顔の中に、深い悲しみの影を僕は見た気がした。きっと彼女も、人生の重荷を背負って生きているのだろう。しかし、その重さを他人に感じさせることなく、むしろ自分の痛みを他者への慈愛に変換している。
「私は、ただ...」
彼女は窓の外を見つめた。夜空には細い月が薄く浮かび、散りゆく葉影を静かに照らしている。
「人が一人で抱えきれない重さというものを、知っているだけかもしれないですね」
その瞬間、僕は理解した。あかりさんの優しさは、生まれもっての性質などではない。それは、自らの苦しみと向き合い、それを昇華させた結果として生まれた、人間としての最も美しい境地なのだと。
「きっと、素晴らしいレポートが書けますよ」
彼女は立ち上がりながら言った。
あかりさんが去った後、机の上に小さなメモが置かれていることに気づいた。
『疲れたら、いつでも声をかけてください。一人で頑張る必要はありませんから』
その文字は、彼女の人柄そのもののように、丁寧で温かだった。
窓の外で、夕闇が深まりつつあった。最後の茜色が空の端に残り、街灯がひとつ、またひとつと灯り始めていた。