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作者: 桂螢

蘭はひたむきに走った。齢十八。世間知らずゆえ、わからぬことは山積だが、一途に懸命に走った。




今、この若者は、生真面目な家族を省みず、生活のために、性風俗店の面接へと向かっているところだ。今までは専ら援助交際で食べていけたが、今後は収入を安定させるために、「個人営業」から「会社員」にシフトすることに決めたというわけだ。




セックスワーカーの道に踏み入った理由は、上手く説明できない。家庭も学校も大きな問題はなく、おしなべて優しい人が多かった。皆礼儀正しく、蘭に期待をかけていた。だからこそ、「良い子」を演じなければならなかった。そうしていると、皆の思いやりに、何となく嫌悪を抱くようになった。そんな複雑で可愛げがない自分も憎かった。




しかも蘭は意志薄弱。皆と同じ「普通で当たり前の」レールの上に進むのが怖かった。そういう性分だから、何かに導かれるように、わざと後戻りができない裏社会の道を選んだ。生来正直な蘭は、自分に嘘をつけないから、周囲にはばからずに背き、非常識な世界へ飛び込んだ。道標が行けども行けども見当たらない、果てなく長い道を、蘭は孤立無援で、今日も無我夢中で走っている。




息切れをしつつ、面接開始時刻の十分前に到着した。時間厳守な自分が、いささか笑えた。店名は『ブルースカイ』。数十年前のハリウッドの官能映画のタイトルと同じだ。面接官は店長だった。同映画の主演俳優トミー・リー・ジョーンズにやや似た、どこか頼りなさそうな中年男性だが、蘭にとって店長の風貌などどうでもよかった。他人の見かけに惑わされるほどの、たわけではない。十八歳で誰にも頼らず、一人で生きていかなければならない。それ相応の覚悟を決めている。蘭は店長にシリアスな形相で迫った。いいから雇って欲しいと。この業界も人員不足なのか、運良く即採用となった。ようやく生活の目途が立った。




早速、翌日から出勤した。男相手のプレイなどお手の物だ。私の特技やスキルって、こんなものか。蘭の胸に、隠してきたコンプレックスがよぎった。生真面目さを演出していた過去も、セックスワークを生業にし、「仕事」と戦っている最中も、自分に嫌気が差す瞬間に、時折襲われる。後ろめたさを抱える自分が忌々しい。そもそも自分を心から好きだと断言できる人など存在するのだろうか。蘭の疑問に理路整然と答えられる聡明な人など存在するのだろうか。




職場に馴染んだ頃、稲妻のような「まさか」に打たれた。結婚することになったのだ。相手は小学校時代のクラスメイトの三谷。再会したのは、喫茶店での相席だった。現在は稼ぎに申し分ない、障害者施設の管理職を任され、外車を乗り回している。気障な彼から「ナンパ」をされ、「まぁ、恋人不在よりかはマシかな」と、安易に受け入れた。彼のセックスはなかなかのSで、AV男優と遜色ないくらいに、テクニックに長けていた。余りに上出来で惚れ惚れした。職場に「寿退社」をする運びになったと、やや遠慮がちに報告したら、皆唖然として祝福の言葉が直ちに出なかった。当たり前だ。「変わり者」が嫁ぐのだから。




裕福な彼のお陰で、一軒家も手に入れた。これで俗に言う「女の幸せ」を確かなものにした。と、危うく油断しかけた。今日まで、幾度も辛酸を舐めてきた蘭は、人間や人生を哲学者クラスに達観しているという妙な自負がある。幸せなんて未来永劫ではない。浮気されたのだ。結婚してまだ日が浅いのに。




浮気といっても、内容が大人げなく情けない。彼は職場で気に入った女性障害者の肩や腰を、人目もはばからずに撫でるように触っていたというのだ。部下の男性職員が本社だけでなく、新婚の蘭を嘲笑うかのようにベラベラ口外し、発覚した。




爆弾は他にもある。ある部下の既婚の女性職員に、勤務時間外に大した用もないのに、頻繁に電話をかけていたというのだ。夫が在宅中でもお構いなしに執拗に電話をした結果、夫の堪忍袋の尾が切れて、会社まで怒鳴り込みに来て、妻を強制的に退職させた。




思いを寄せていた女と会えなくなり、ショックが大きい三谷は、急に自身の物だという障害者手帳を上司に提示し、実は自分は障害を抱えていると突如自白した。「だからもう辞めます」と、丸投げな言葉も添えて。会社も会社だ。障害者では管理職は務まらないと即決し、三谷の望みどおりにあっさり退職を許可した。冷たい組織だ。




蘭は自分の心境を、いつかの新聞記事に掲載された原爆投下後の焼け野原に投影した。何だ、このザマは。最も信用していた人から、裏切りと屈辱を身をもって教えられた。猛烈な怒りに震え、満身創痍な三谷を勘当した。彼との思い出と青写真は、一カ月で台無しになった。




離婚後、激しい煩悶に襲われた。認知している全てに一直線に幻滅し、どん底へ突き落とされた挙句、死者の国に思いを馳せるようになった。死のことで頭がいっぱいになった蘭は、適当に見繕った高層ビルに吸い込まれるように駆け込み、息切れをしながら階段を上がった。どす黒い気持ちとは対照的に、心臓は律儀に動いている。高所から望む風景をぼんやりと睨んだ。




混沌かつ殺伐とした世を眺めていると、優しい誰かに声をかけられたような、おかしな錯覚が生じた。脳裏に何年も忘れていた、引き出しの奥に埃まみれになってしまわれていた、とある深奥な記憶が蘇った。遠い高校一年生の夏。中退したいさせないで、学校の職員室で、担任と副担任の教師と両親の四名の大の大人と、孤軍奮闘の大喧嘩を繰り広げていた。生真面目さを絵に描いたような大人複数人に、制服姿だがすでに援助交際を始めていた蘭は、「話が一切通じない」と激昂し、支離滅裂に怒鳴り散らしていた。その修羅場に、蘭が高校で唯一まともだと認めた国語教師の土屋先生が、通りすがりに現れて、横切った。




その少し前の五月に、蘭は土屋先生に、こっそり悩みを打ち明けていた。


「クラスになかなか馴染めない」


歌人の俵万智さんを彷彿とさせる、エリート教師の典型的な風貌の土屋先生の顔が、一瞬で明るく優しい顔になった。


「人見知りなあなたが、言いにくい話をしてくれて嬉しいわ」


今となっては、目を背けたい思い出だ。せっかく寄り添ってくれた土屋先生を、自分の好き勝手に赴くがまま、裏切ったのだ。会いたくなかった。会ったら、激しい自己嫌悪に陥るからだ。




土屋先生は、職員室で暴言を吐く蘭の隣を横切る際、蘭の眼をそらさずに見ていた。心配そうに憐れんだ目を、やや細め、唇を真一文字にし、何も言わなかった。




遥か忘却の彼方から久方ぶりに想起した恩人のまなざしが、潤んだ瞳に浮かんだ。臆病な蘭は、自死をやり遂げる気概を持ち合わせていなかった。


「私は腰抜けだ」




自分はやはり意気地がないと再確認した帰り道、悶々としながらも、蘭は性風俗という以前邁進した「仕事」を思い起こした。蘭にとってセックスワークは「プロフェッショナル」だ。お金をもらう価値があるのだ。仕事に打ち込んだ日々が胸に去来すると、誰かから慰められた瞬間のように、希望が静かに湧き出てきた。記憶喪失になったわけではないので、前夫との思い出にさいなまれる日々は、この先も続くのは重々承知しているが、仕事のことを考えていると、不思議にいつの間にか死神がもたらした幽鬱の大半は消え去っていた。そして再び職を掴むために、生きるためにまた走り出した。一人で生きていくと決心したこの身体は、唯一の戦友だ。この日陰な仕事と決別し、堅気な仕事を選ぶ日はやって来るのだろうか。自分も他人も好きになれる日もやって来るのだろうか。今日も霧がかかった道を、蘭は一人でまっすぐに走る。

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