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ある穏やかな日の午後、図書館の片隅で、私たちはいつものように猫の話をしていた。その時、アレン様がふと、真剣な眼差しで私を見つめた。
「リリアーナ様」
彼の声は、いつもより少しだけ、低く響いた。
「わたくしは、この国に来て以来、多くの出会いを重ねてまいりました。しかし、リリアーナ様ほど、わたくしの心を惹きつけた方はいらっしゃいません」
私の心臓が、ドクンと大きく鳴った。彼の言葉は、私の想像をはるかに超えていた。
「わたくしは、あなたと共に、猫のいる穏やかな生活を築きたいと、心から願っております。もしよろしければ、あなたのご両親に、わたくしとの縁談をお許しいただきたく、正式に申し込みをさせて頂けないでしょうか」
アレン様の言葉は、まるで澄んだ泉のように、私の心に深く染み渡った。まさか、彼の方から縁談の話を持ち出してくれるとは。驚きと喜びで、私は言葉を失った。
「アレン様……」
私がか細い声で答えると、彼は私の手を取り、優しく微笑んだ。その手のひらは、あの時、社交界の片隅で迷い猫を撫でていた時と同じ、温かさだった。
数日後、アレン様が我が家に招かれた。
彼は、書庫で猫を抱き上げた時と同じ、落ち着いた雰囲気で現れた。
父は、応接間でアレン様と対峙すると、いつになく厳しい表情で、彼の様子を観察し始めた。
「アレン殿。娘のリリアーナとの縁談を検討するにあたり、いくつか確認したいことがある」
父の言葉に、アレン様は背筋を伸ばした。彼の顔には、緊張の色が見える。私もまた、固唾を飲んで二人の様子を見守った。父の最終試験は、一体どのようなものなのだろうか。
「アレン殿」
父はゆっくりと口を開いた。その声は、いつになく厳粛だった。
「猫を愛する心が本物であることは、娘の話からも、あなたの服に付着した見慣れない黒い毛からも、よく理解できた」
アレン様の服に黒い毛が付着していることを、やはり父は気づいていたのだ。私の視線がちらりとアレン様の肩へ向かうと、そこには確かに、柔らかそうな黒い毛が数本、付着していた。
アレン様は、少し気まずそうにその毛を払おうとしたが、父がそれを制した。
「慌てる必要はない。それは、あなたが真に猫を慈しんでいる証拠だ」
父の言葉に、アレン様はほっと息をついたようだった。だが、父の表情はまだ硬い。
「だが、猫を愛することと、娘を愛し、守り抜くことは別問題だ。私は、このリリアーナを、ずっと見守ってきた。そして、彼女が幸せになることこそが、私の願いなのだ」
父の言葉は、まるでモチが私を護るかのように、低く、力強かった。アレン様は真剣な眼差しで父を見つめている。
「そこで、問う。アレン殿、あなたはもし、このリリアーナと結婚し、彼女が望むなら、我が商会の後を継ぐ覚悟はあるか? そして、その上で、この商会を今以上に発展させる具体的方策を、今ここで述べよ!」
父の言葉に、私は思わず息を呑んだ。
商会を継ぐ覚悟を問うだけでなく、その場で具体的な発展策まで述べろとは、あまりにも無理難題だ。
アレン様は王立図書館の司書であり、植物学者だ。商人としての才覚など、持ち合わせているはずがない。
彼が縁談を申し出てくれたのは、私個人への気持ちからだと思っていたのに。
アレン様の顔に、一瞬だけ動揺の色が走った。彼は俯き、深く考え込んでいるようだった。
彼の研究者としての未来と、私との結婚、そしてこの商会の継承。あまりにも重い選択だ。
長い沈黙が、応接間に降りた。アレン様は額に手を当て、深く考え込んでいるようだった。彼の研究者としての未来と、私との結婚、そしてこの商会の継承。あまりにも重い選択だ。
やがて、アレン様はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、迷いは消え失せ、強い意志の光が宿っていた。
「レジナルド殿、リリアーナ様」
アレン様は、真っ直ぐに父と私を見つめた。
「わたくしは、リリアーナ様と出会い、彼女の聡明さ、優しさ、そして猫を愛する心に強く惹かれました。彼女と共に生きることが、わたくしの最大の願いです。正直に申し上げれば、商会の経営については、これまで全く経験がございません」
彼は一度言葉を区切り、深く息を吸い込んだ。
「しかし、この商会が、多くの猫たちとその飼い主を幸せにする素晴らしい事業であることは、リリアーナ様との会話や、御社の製品を拝見し、痛感いたしました。ゆえに、もしリリアーナ様がこの商会を大切に思っておられるのなら、わたくしは喜んでその覚悟を決める所存でございます。
発展策については、現時点では明確な案を申し上げることはできません。ですが、わたくしが持つ知識と誠意を尽くし、必ずやこの商会を、さらなる高みへと導くことをお誓いいたします」
アレン様の言葉は、飾り気がなく、真っ直ぐに私の心に響いた。私のために、自身の人生を変える覚悟をしてくれる。その覚悟に、私の胸は熱くなった。
しかし、父の表情は、まだ満足げではなかった。彼の鼻がピクピクと動き、まるでアレン様の言葉の裏を探るかのように。
「口先だけでは、どうとでも言える。具体的な方策が述べられないというのは、覚悟が足りない証拠だ。娘の幸せを託すには、あまりにも頼りない」
父は冷たく言い放ち、明らかにアレン様を却下しようとしている。
「お父様!」
私はたまらず声を上げた。
「アレン様は、私のために、ご自身の人生を変える覚悟をしてくださったのですよ! それ以上の覚悟がどこにあるというのですか!」
私の抗議にも、父は耳を貸そうとしない。彼は腕を組み、不機嫌そうにそっぽを向いた。
「娘を託すというのは、そういうことではない。この私が、どれだけお前の幸せを願ってきたと思っているのだ」
父の頑なな態度に、私の心は絶望に沈みそうになった。その時だった。
「あらあら、レジナルド。またそんな我儘を言っているの?」
優しい、しかし有無を言わせぬ声が、応接間のドアから響いた。
振り向けば、そこに立っていたのは、私の母、イザベラだった。彼女は、優雅なドレスを身につけ、柔らかな微笑みを浮かべている。
母は、父がモチだったことなど知らないはずだが、長年連れ添ってきた夫婦の勘か、父の扱いにかけては天下一品だった。
母はゆっくりと歩み寄り、父の隣にそっと座ると、彼の腕を優しく撫でた。
「全く、私のかわいい我儘猫ちゃんは、少しばかり厳しすぎやしませんか? アレン様は、貴方様の娘への愛情を深く理解していらっしゃるのでしょう?」
母の言葉に、父は一瞬ピクリと反応したが、その口元はすでに緩み始めている。母は、父の顎の下を撫でるように優しく指を滑らせた。それは、モチが一番喜んだ撫で方だ。
「この人は、言葉には出さないけれど、誰よりもリリアーナの幸せを願っているのよ。だからこそ、ちょっと厳しくなっちゃうのよね? ねぇ、レジナルド?」
母は、まるで小さな猫をあやすように、父に語りかける。父は、もはや反論する気力もないのか、ゴロゴロと喉を鳴らすような微かな震えを帯びながら、不満げに鼻を鳴らした。
「ム、ム……」
母は、そんな父を手のひらで転がしながら、アレン様に視線を向けた。
「アレン様、この人は普段はもっと穏やかなのですよ。ただ、娘のこととなると、どうしても過保護になってしまって。でも、貴方様のお気持ちは、この人にも、私にも、ちゃんと伝わっておりますわ」
母は、アレン様に向かって優しく微笑んだ。
「商会の発展について、具体的な方策は、これからいくらでも学んでいけるはずです。むしろ、アレン様のような真摯なお人柄と、リリアーナへの揺るぎない愛情こそが、この商会を、そして私たちの家庭を、最も豊かにするのではないでしょうか?」
母の言葉は、父の心の奥底にまで染み渡ったようだった。父は、一度大きく息をつくと、先ほどまでの厳しい表情を消し、穏やかな眼差しでアレン様を見つめた。
「……イザベラが言うなら、仕方ないな。お前も、良い妻を得たものだ、アレン殿」
父は、そう言って、アレン様の肩を軽く叩いた。その顔には、満面の笑みが浮かんでいる。その笑みは、まるで、美味しい魚料理を平らげた後のモチのように、心底から満足している表情だった。
「ありがとうございます、レジナルド殿。リリアーナ様を、生涯かけてお守りいたします。そして、商会の発展のため、誠心誠意尽力することをお誓いいたします」
アレン様もまた、緊張の糸が切れたように、深く息をついていた。
彼は、私の手を優しく取り、私の指先にそっと口付けた。その指先の温かさは、私を深く安心させた。
前世からの絆で結ばれた父の祝福を受け、そして母の絶妙な介入によって、私の婚活は、ついに最良の形で幕を閉じようとしていた。
父の「猫センサー」が選んだのは、偽りの言葉を弄する者でも、見せかけの猫好きでもない。猫を愛する純粋な心を持ち、そして、私を心から愛し、私の大切なものを守り抜く覚悟を持った、真の男性だったのだ。