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「猫は、自分が無理強いされることを嫌います。だから、撫でる際には、まず猫が自分から近づいてくるのを待つ。そして、安心したサインを見せたら、ゆっくりと、その子の体に寄り添うように手を差し伸べるのです」


彼の説明は、まるで専門家のようだった。身振り手振りを交えながら、猫が喜ぶ撫でるべき場所、撫でてはいけない場所、そして何より、猫の気分を損ねないための「心の準備」まで語る。


「猫が嫌がった時は、決して無理強いしない。それが信頼関係を築く上で最も大切です。猫は賢い生き物ですから、心を込めて接すれば、きっと応えてくれます」


彼の言葉には、机上の空論ではない、長年の経験に裏打ちされた説得力があった。そして、その表情は、愛する対象について語る時の、純粋な喜びにあふれていた。

彼が、どれほど猫を愛しているかが、その一言一言から伝わってくる。私の脳裏には、モチが私に甘えていた頃の、あの温かい記憶が蘇っていた。




「アレン様は、本当に猫を深く理解していらっしゃるのですね」


私が感嘆の声を上げると、アレン様は少し照れたように微笑んだ。


「そう言っていただけると光栄です。彼らが私に与えてくれる安らぎに比べれば、これくらい当然のことですから」



私は、アレン様との会話を重ねるごとに、彼の穏やかで誠実な人柄に惹かれていった。

彼もまた、私の言葉に真剣に耳を傾け、時折見せる猫のような仕草に、ふと微笑む私を興味深げに見つめる。


図書館での「植物学の相談」は、いつしか、互いの猫への愛情や、日々の些細な出来事を語り合う時間へと変わっていった。

私たちは、共に猫の話題で盛り上がり、まるで昔からの友人のようだった。


その日の夜、私は父にアレン様との会話を詳しく話した。父は、私の話に真剣に耳を傾けていた。特に、アレン様が語った「猫の撫で方」のくだりになると、彼の鼻がピクリと動き、瞳は鋭い光を宿した。


「ほう……なるほど。無理強いせず、安心させるための心の準備……。そして、部位を撫でるタイミング、か」


父は腕を組み、深く頷いた。いつもの辛辣な評価とは異なり、その表情には、どこか納得したような、満足げな色が浮かんでいる。


「リリアーナ、その男は……本物だ」


父の口から、ついにその言葉が出た。私が待ち望んでいた、最高の賛辞だ。父がここまで認める男性は、これまで現れなかった。


「だが、まだ油断はならんぞ。猫の扱いは一流でも、本当に娘を幸せにできるかどうかは、別の問題だ」


父はそう言いながらも、その口元は緩やかに、ゴロゴロと喉を鳴らすような微かな震えを帯びていた。それは、彼が心底から安心し、喜んでいる時のサインだ。

私は、この光景を今までで一番嬉しく思った。


「しかし、彼は貴族。貴族に覚えが良い商家の娘とはいえ、所詮は庶民の私のことはどうお考えになるでしょうか……」


私が不安を口にすると、父は不意に立ち上がり、私の頭をポンと撫でた。


「貴族も庶民も関係ない。私が言っているのだから間違いない。あやつは、お前をちゃんと見てくれる男だ」


その言葉に、私の胸は温かくなった。血の繋がりを超え、前世からの絆で結ばれた父の言葉は、何よりも私を安心させた。




その後、アレン様と私の関係は、図書館での語らいを越え、街での散策や、共に猫を撫でる時間へと発展していった。


そんなある日、私はいつものように王立図書館でアレン様を待っていた。書架の合間を縫って歩いていると、不意に背後から声をかけられた。


「リリアーナ様、奇遇ですね」


振り返ると、そこに立っていたのは、先日父の「猫センサー」によってあっけなく退場させられた、グレン・エヴァンズ伯爵家の三男だった。彼は人好きのする笑顔を浮かべているが、私は警戒を緩めなかった。


「グレン様。お変わりなく」


私が当たり障りのない挨拶をすると、グレン様は一歩、私に近づいた。


「この図書館でリリアーナ様にお会いできるとは、運命を感じずにはいられません。あの日のことは、本当に申し訳なかった。わたくしの愚かさを、どうかお許しいただきたい」


彼は深々と頭を下げた。だが、その目は私の顔色をうかがうように、わずかに泳いでいる。


「あの後、わたくしは深く反省いたしました。そして、リリアーナ様への思いは、日を追うごとに募るばかりで……どうか、もう一度、わたくしにチャンスをいただけないでしょうか?」


グレン様は、切々と訴えかけてきた。彼は、私の手を取ろうと、そっと手を伸ばす。私は咄嗟に身を引いた。

父が指摘した「偽りの匂い」が、今も彼から漂っているような気がした。


「グレン様、その件は……」


私が言葉を探していると、ふいに私の隣に、静かな影が寄り添った。


「失礼、グレン殿。リリアーナ様は、わたくしとの約束がありますので」


アレン様だった。彼はいつもの穏やかな表情を崩さず、しかし、その青い瞳の奥には、確固たる意思の光が宿っていた。グレン様の手と、私の間に、アレン様の腕がすっと滑り込む。それは、決して露骨ではない、しかし確実な、私の保護を示していた。



グレン様は、アレン様を見て、一瞬顔をしかめた。


「これは、アレン殿。ご無沙汰しております。いえ、わたくしはリリアーナ様と少しお話をしているだけで……」


「ええ、存じております。ですが、彼女は今、わたくしにとって最も大切な方ですので。無理な真似は、お控えいただきたい」


アレン様の声は静かだが、そこには一切の妥協がなかった。彼の言葉には、グレン様を圧倒するような、不思議な威厳が備わっていた。グレン様は、アレン様の視線から逃れるように目を伏せ、やがて苦々しい顔で口を開いた。


「……分かりました。では、失礼いたします、リリアーナ様」


グレン様は、捨て台詞を残すようにそう言うと、足早に去っていった。


彼の背中が見えなくなるまで、アレン様は私の隣に静かに立っていた。そして、グレン様が完全に姿を消すと、ようやく私の方を向いた。


「大丈夫でしたか、リリアーナ様? 無理強いをされていませんでしたか」


彼の声は、心配と優しさに満ちていた。私は、アレン様の隣にいると、心が不思議なほど落ち着くことに気づいた。まるで、モチがそばにいてくれた時のように、安心感に包まれる。


「はい、アレン様のおかげで。ありがとうございました」


私が感謝を伝えると、アレン様はふわりと微笑んだ。その時、彼の服の袖口に、やはり黒い毛が一本、キラリと光ったのが見えた。

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