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本と手紙と君と

作者: ゆーや

第一章 はじまりの紙片


僕の居場所は、学校の三階、廊下の突き当たりにある図書室の、いちばん奥の窓際だった。

午後の光が、埃をまとったカーテン越しに差し込んでくる時間帯が好きで、決まってその時間にだけ僕はそこへ行った。

本棚の端に、誰にも見向きされない小説が何冊かある。

カバーは日焼けしているし、背表紙のタイトルもかすれているけれど、その中に、僕だけが好きな一冊があった。

『ナメクジに話しかける午後三時半』

主人公は五十四歳の無職、杉田三郎。

庭に出てきたナメクジに話しかけるという、

最後の一文は

「“やっぱり塩は苦手だったか”」

という何の成長もメッセージ性もない。そんな話だった。

繰り返し読むたび、三郎の呟きが、僕の中にも静かにしみこんでいく。

「なぜ塩が苦手なんだ?」「生きるって、夢っているのか?」

そんな突拍子もない問いに、ナメクジは、返事をしない。

――けれど、読んでいると、本当に答えている気がしてくる。


そんなある日、ページをめくると、一枚の紙が、ふわりと落ちた。

淡いクリーム色の、便箋。小さく折りたたまれている。

開いてみると、こう書いてあった。


「この本、好きなんですね。

どのシーンが好きなんですか?

よかったら、教えてください!」


文字は丸くて、すこし跳ねていて、女の子のものだとすぐにわかった。

僕は誰にもこの本のことを話したことがなかったから、胸の奥をこそばゆい指でなぞられたような気持ちになった。

返事をどうしようか、二日悩んだ。

でも、なんとなく――返したい、と思った。

次の週、図書室で新しい便箋に文字を書いて、本の同じページにそっと挟んだ。

そして、その日から、僕たちのやり取りが始まった。

手紙のやりとりは、いつもその本を通して。

返事は数日後、同じページにきちんと返ってくる。

あるときは好きなシーンの話、あるときは「師匠」の呼び方がツボだったという話。

「ナメクジの哲学的な返事って、実は自分の頭の中じゃないかって気づくシーンが好き」

「師匠って呼び始めたときに、わかる、私も家のコタツに敬語使っていたことある」

「三郎がキャベツを供えるの、なんかもう可愛い通り越して泣けてくる」

「どこが感動するの?って言われても、感動はしてないんだよね、でも好きなんだよね」

そんな、意味のないやり取りが続くうちに、僕たちは自然と

「次はこの本、読んでみてください」

と、自分の好きな本を挟むようになった。

本が手紙になり、

手紙が本を渡す手になる。

週に一冊ずつ、お互いのおすすめを、静かに貸し借りする。

読むスピードも、感じ方も、全然ちがうのに、不思議と心地よかった。

気づけば、その時間が、僕の毎週のたのしみになっていた。



第二章 手紙の相手は・・・。


ある日、便箋のすみに、小さな告白のような一文が書き加えられていた。

「わたし、中学三年です。受験生なので、図書室に来るのもあと少しかもです」

読み終えた瞬間、胸の中で何かが「カツン」と音を立てて落ちた。

僕より一つ上。

そっか、もうすぐ卒業なんだ――。

それまで、相手の学年なんて考えたこともなかった。

ただ、本と手紙と、その言葉だけでつながっている世界が、ずっと続く気がしていた。

その日の帰り道、親友の小宮湊斗に何気なく言ってみた。

「なあ、図書室の本ってさ……借りてない人が読んでもいいのかな?」

「は?どゆこと?」

「いや、誰かに渡したい本があってさ。先生の許可とか、もらえんのかなって」

湊斗は僕をまじまじと見て、ニヤリと笑った。

「おまえさ、それ恋だよ」

「ち、ちがうよ……!」

「違わないって。顔真っ赤じゃん。なに?その本、告白代わり?」

「……まあ、そんなもんじゃないけど、手紙をずっとやりとりしてて……渡したいだけ」

湊斗は、そういうのをからかうタイプじゃなかった。

僕の話も最後までちゃんと聞いてくれる、数少ない人間だった。


「よし、俺が先生に聞いてやる。俺、図書委員だしな。頼られがいあるわー」

そう言って、翌週にはもう、先生からの許可をもらってきてくれた。

“卒業記念にこの本を譲りたいという申し出があったため、特例で贈与を認めます”

そんなメモが本のしおりに添えられていた。

そして、卒業式の日の放課後。

校庭が少しだけ静かになった時間。

僕は図書室のいつもの席で、その本を持って待っていた。

高梨心春――

それが、手紙の差出人の名前だった。

彼女は制服の第二ボタンを外して、ゆっくりと僕の前に立った。

はじめて会うのに、もう何度も会っているような、不思議な気持ちだった。

「……あなたが、長沢陽真くん?」

「うん。高梨心春さん、だよね?」

お互いに、名前を呼び合った瞬間、笑ってしまった。

どうしてか、わからないけれど、可笑しかった。

紙の上で何十回も繰り返した名前が、声になるだけで、なんだかこそばゆかった。

「この本……もらってもいいの?」

「うん。卒業祝いってわけじゃないけど、なんとなく……」

心春さんは、本を両手で包み込むように受け取って、小さくうなずいた。

「大事にします。……あの本、何度も読んだけど、やっぱり最後のあの一文が、好きで。」


「“やっぱり塩は苦手だったか”?」

「そう、それ。それだけで終わるの、ずるいよね。でも、なんか、いい」

本を挟んで、僕たちは、はじめて向かい合った。

けれど、心春さんは春に旅立ち、僕はそのまま中学三年へと進級した。

彼女の通う高校と、僕の通う高校は、違う場所だった。

連絡先も聞かないまま、それっきりになった。

なんとなく、それでいいと思った。

あの春の午後が、ちゃんと一つの物語だったような気がして。


第三章 再会


季節は巡り、時間は流れ、僕は大学生になった。

文学部。

小説を読むのも書くのも、相変わらず好きだったけれど、誰かとその話をする機会は、あまりなかった。

都会の学生生活は、どこか音が多すぎて、言葉の奥行きが浅く感じた。

夏休みに、ふと思い立って、近所の図書館へ足を運んだ。

場所は違えど、匂いはあの頃と同じだった。

午後三時過ぎ。

僕は無意識に、古びた棚の隅へと歩いていた。

そこに、一冊の本があった。

『ドアノブをひねったら昨日だった』

かつての『ナメクジに話しかける午後三時半』とは別の意味で、昨日を永遠と行き来するだけの何も起きない物語だった。

でも、妙に惹かれてページをめくる。

何も変わらない日々を淡々と繰り返す主人公。

過去にも未来にも行かず、「昨日」に閉じ込められたような世界。

――そのとき、ふいに、背後から声がした。

「この本、好きなんですね。

どのシーンが好きなんですか?

よかったら、教えてください!」

その声を聞いた瞬間、振り返るまでもなかった。

声だけで、心が跳ね上がった。

そこに立っていたのは、大人っぽくなった高梨心春さんだった。

髪は少しだけ短くなっていて、服装も、表情も、五年前とは違っていた。

でも、あの頃と同じ瞳で、僕をまっすぐに見ていた。

「……君も、“昨日”に閉じ込められてたの?」

僕がそう言うと、心春さんは、くすりと笑った。

「うん。ちょっとだけ、探しものしてたのかも」

二人で並んで、本を手に持ったまま、図書室の窓際に腰を下ろした。

時間が巻き戻るわけでも、物語のような奇跡が起きるわけでもないけれど――

そのとき、たしかに、昨日と今日の境界線がゆるやかに溶けた。


第四章 また会おう。


それから、連絡先を交換した。

週に一度、図書館で会って、

それぞれが読んだ本を紹介しあったり、

近くのカフェで、あの頃のように、本について語ったりした。

あのときと違うのは、

もう手紙じゃなく、言葉がそのまま相手に届くこと。

目を見て、笑って、黙っても平気になったこと。

心春さんは、美術系の専門学校に通っていた。

小説に挿絵をつける仕事がしたいって、語ってくれた。

「あなたが、“本の中の空白を大事にする人”だって思ってたから、また会えてよかった」

ある日、そんなことを言われた。

僕は何も言えず、ただ頷いた。

あの空白を埋めるように、二人の時間が少しずつ重なっていった。

いつのまにか、「また会おうか」が当たり前になっていた。


ある日、ぽつりと、彼女が言った。

「ねえ、一緒に暮らす?」

その言葉は、どこまでも静かで、でも疑いのない声だった。

「……うん。暮らそう」

終章 それでもナメクジは塩に消える

新しい部屋には、本がたくさんある。

彼女の描いた絵本も、僕の好きな古本も、静かに並んでいる。

ある日の午後三時半。

僕たちはあの頃みたいに、窓際に座っている。一冊の本を手にしながら。

『ナメクジに話しかける午後三時半』

今でも、たまに読み返す。

「やっぱり塩は苦手だったか」

そう呟いてページを閉じると、

心春が隣で笑う。

未来なんて、ドアノブの裏側になくたっていい。

昨日に閉じ込められていたとしても、

誰かと一緒なら、それでいいと思える。

僕たちは今、静かに、でも確かに、“めでたしめでたし”の続きを生きている。


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