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さて、どうしたものか。
後宮の一番奥の日当たりの悪い部屋の前に着いたアレクは、もうしばらくその場に突っ立ったままでいる。部屋の裏手からポツリポツリと聞こえてくるユーシェとティナの会話をただただ拾っていた。
部屋の前に立つ護衛騎士は、ようやく来てくれたかと、感激を隠さずにいるようだ。余程ユーシェの取り扱いに困っていたのだろう。冷血非道な皇帝にそんな感情を向ける護衛がいたなんて、ディルが見たらさぞ驚くに違いない。
アレク自身も、滅多に向けられることのない感情に、居心地の悪さを感じていた。
さて、どうしたものか。
全てではないものの、この部屋の令嬢と侍女の会話はほとんど聞こえてしまった。それから判断をするに、ディルの報告は正しく、令嬢は限りなく黒に近いグレーだ。
侍女は関連していないのだろう。女官長の指示で令嬢の世話をしているだけで、特に情報も握っていなそうだ。少しばかり令嬢に肩入れしているところはあるようだが、半年も2人で過ごせばそうなるのも無理はないだろう。
それにしても、決定打に欠ける。
ドルガ伯爵が送り込んできた、娘ではない娘。行動範囲の狭さと、常に侍女が側につき、護衛にも監視されていることを思えば、諜報は難しいだろう。だとすれば暗殺か、陽動か…。ただの囮で捨て駒の可能性もある。まずはドルガの近辺をもう一度洗っておく方が先か…。
しかし、そんな情報ではディルは納得しないだろう。表で他のご令嬢と散歩までさせているのだから、こちらも腹をくくって部屋の中に入らなければならない。気が乗らないなどと言っている場合でないことは分かっている。分かっているけれど、面倒だ。ため息をすることくらいは目をつぶってもらいたい。
話の内容を聞くに、もうすぐ戻ってくるであろうこの部屋の主と侍女を待つアレクは、眉間にしわを寄せたまま腕を組み、仁王立ちで入り口に立っていた。
「…っ」
近づいていた足音が止まり、息を飲む音がした。驚嘆の声を出さなかっただけ、令嬢として合格だろう。いや、声を出していた方が、疑いを晴らす要因になったかもしれない。
「お出迎えもせずに申し訳ありません」
ユーシェは深く頭を下げ、ティナもそれに続いた。
「先触れもなく来たのはこちらだ。気にすることはない。顔をあげろ」
「…はい」
戸惑いを隠せないままユーシェは返事をし、ゆっくりと顔を上げた。しかし、目は伏せたままだ。緊張しているのか、軽く手の先が震えている。
アレクはしばしユーシェの見た目を観察しようとしたが、すぐにそれを中断した。
「お前、病にでもかかっているのか」
「…いえ、そのようなことはございません」
「では、何故そのように痩せている。こちらを見ろ」
「あっ」
アレクはやや乱暴にユーシェの頬を掴み、上を向かせた。先程伏せられていた黒色の瞳は、戸惑いに揺れ、そして怯えていた。
ディルの報告に、確かに食事量が少ないとあった。どこかで差し入れか何かを得ているのかと思ったが、それは無さそうだ。頬はこけ、目の周りは窪み、首や腕、足など目に見えるところもほとんど肉が付いていない。この娘は、何処よりも厚遇を得られるであろうこの後宮で、空腹に喘ぐ貧民のような身体つきをしているのだから。
「この様な醜体を晒してしまい、申し訳ありません」
「その様なことを聞いているのではない。何故こんなにも痩せているのかと聞いているのだ。入宮の際に健康に問題があるかどうかの報告はさせていたはずだ。それともここで病にかかったのか」
「いえ、その…」
「あぁもう、立っているのさえ辛そうではないか。中に入るぞ」
「えっ」
「立ち話などする気分にはならん。さぁ行くぞ」
戸惑うユーシェにかまうことなく、肩に手を置いて抱き寄せ、押し込む様に部屋に入った。肩に手を置いて分かったが、やはり骨の感触しかない。こんなにも痩せていて、何故洗濯など出来るというのか。ユーシェ以上にこちらの頭の中が戸惑いでいっぱいだ。
取り敢えずユーシェを目に入ったソファに座らせ、俺もその横に座った。隣に座られるとは思っていなかったのだろうユーシェが分かりやすく身体を硬くしたが、そんなことに構ってはいられない。
「俺の聞くことには正しく答えろ。嘘をつけば罰せられると思え。分かったな」
「は…はい…」
「では1つ目だ。ここに来る前、お前は何処にいた?」
「え…?」
身体や病のことを聞かれると思っていたのだろうユーシェは、気の抜けた声を出した。
部屋に入り腰掛けるまでの間に、さすがに病のものを入れることはないだろうし、ここで病にかかったものを放置しておくこともないだろうと考えたのだ。不細工なものを見た目麗しいなどと覚え書きに虚偽を記載するくらいのことは、金でどうにかなる。しかし、病となれば話は別だ。後宮にわざと流行病を持ち込んだりしたら、どうなるのかは考えずとも分かるだろう。ドルガは賢くもないがバカでもないのだ。
「後宮に入る前だ。お前は何処にいた?」
「ど…ドルガ伯爵邸です…」
「ずっとか?」
「いえ…えぇと…」
可愛そうなほどに怯えて隣に座る娘は、とても暗殺者には見えない。そういう演技まで仕込まれているというのなら相当だろう。
「ドルガに何を握られているのかは知らんが、真実を話すのがお前のためだし、ドルガのためにもなるぞ」
「え…?」
「お前が入宮前に本当にドルガ伯爵邸にいたとするのなら、ドルガは虐待の罪にとらわれるだろう。食事を与えず衰弱させていたというのなら、それは虐待に他ならない。こんなに衰弱した娘を後宮に送り出すなど、ドルガも何を考えているのやら」
ドルガをバカではないとしたのは取り消しだ。頭が回っていないのかもしれない。話しながら気付くなんて、自分の間抜けさに呆れてしまう。
「お前が誰であれ、ここの住人となったからには、身の安全は保障しよう。ドルガに人質を取られているのならそう言え。それ諸共保護することもできる。ここにドルガやドルガの息がかかったものが来ることもない。既にここにいるものがそうだと言うのなら、侍女や護衛を変える必要があるな」
「い、いえ、その必要はありません。私は誰にも監視はされていないと思います」
「そうか」
微かに震える声を隠しきれていないが、問いかけに答える気はあるようだな。ドルガで揺さぶりをかけるよりは、身近なものの方が良さそうか。それとも…。
「では何だ。監視も何も付いていないとなれば、お前はわざと食事量を減らし、ここで餓死でもするつもりか?我が庇護下にある後宮で生き死にに関わる問題を起こし、俺を引きずり下ろすためのとっかかりを作るようにでも言われているのか?」
「が、餓死など!そんなつもりは毛頭ありません。わたくしは陛下に仕える身でございます。ドルガ伯爵からのそのような命令は受けておりません」
「では、なんなのだ。お前がドルガに後見されているのは事実であろう」
「それは…そうですが…」
今一度交わった瞳からは嘘が感じられない。餓死の路線ではなさそうだ。病でもなく、餓死でもないとするのなら、なぜこの娘はこんなに痩せているのだ。そしてなぜその理由を話そうとしない。
何も話そうとしない娘への苛立ちが募るが、不安そうに揺れる大きな黒い瞳を見ていると、勢いのままにその苛立ちをぶつけるのはよろしくないだろうと思えてくる。
取り敢えず少し落ち着こう。交わしたままの瞳は、ずっと見ていても不快な気持ちにはならない。なんだか不思議な感覚だ。
「恐れながら陛下、発言をお許し頂きたく存じます」
「これの侍女だな。発言を許可する。なんだ」
茶の準備をし終えたところで、ティナは恐る恐る口を開いた。緊張のあまり、こちらも声が震えている。
「ユーシェ様は、あまりたくさんお食事をお召しになられません。身体が受け付けないのでございます。お食事をお残しになることに御心を痛めていらしたので、私の方からユーシェ様がお召し上がりになられるだけの量にして頂くよう、食事係にお願いを致しました」
「食べられないなど、やはり病ではないのか」
「宮医の診察も受けて頂きました。栄養不足ではありますが、病と言うほどではないとのことでございました。普通の方より、少しばかり食が細いのだろうとのお言葉でございました」
「少しばかり…ねぇ…」
少しばかり食が細くてこの身体つきだなんて、あの宮医はヤブ医者か。
斜め前に立つ侍女をじっと見ると、居心地が悪そうに目を伏せている。宮医の言葉はそのまま伝えているけれど、何か隠していることはあるようだ。
だが、食事量を減らした事に、それ以上の理由はなさそうだな。
「真実をお話ししても、私の妹や弟達は、守られるのでしょうか…」
隣に座る令嬢の膝の上に置かれた拳が小刻みに震えていた。
「もちろんだ。現皇帝、アレキサンダーの名に置いて約束しよう」
震える肩に手を置くと、こちらに向けられた黒い瞳が俺の顔を映した。