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王宮で懸念事項に上がっていることになど気付くことなく、ユーシェは与えられた…自分で選んだのだが、その部屋の外で、侍女と過ごしていた。出入り口とは真逆の、人目につかない本来ならば庭であるだろう空間で、だ。周りは後宮の外壁に囲まれ、慣れないものは圧迫感を覚えそうな所だった。
「ねぇティナ、やはりここで作物を育てるのは無理なのかしら」
「なんと言って種や苗を手に入れるおつもりですか。それにこんなに日が当たらなければ育つものも育ちません」
「雑草は生えるのにね」
「毒草なら育つのではありませんか」
「滅多なことを言うもんじゃないわ」
「どうせ誰も聞いていません。こんな奥まった所までわざわざ足を運ぶ人もいませんし」
「それはそうだけど」
漆黒の髪を持つ、細身で背も低いユーシェは、侍女のティナに隠れてしまうほど小柄だ。ティナは大柄なわけではなく、平均的な身長に身体つきなので、ユーシェが小さすぎるのだ。
「もったいないわね。こんなに広いのに」
「そう仰るのでしたら、もっと他の、日の当たるお部屋にご移動くださいませ。空いているお部屋ならたくさんございます」
「いいの。周りの目も気にならないし、ここは私にぴったりの場所よ」
「たまには陽の光を浴びないとお身体に障りますよ」
「あら、時々朝日を浴びているから大丈夫よ」
「こっそり、しかも短時間ではありませんか」
「それで十分よ」
さぁ終わったわ、と立ち上がったユーシェの腕には、濡れた布の塊が乗っていた。先ほどまでしゃがんでいたところには、小さな桶がおいてある。
「こちらは日の当たるところに干してまいりますので、少々お待ちください」
「いつもありがとう。余計な手間を取らせてごめんなさいね」
「大したことではありません。そもそも、洗濯などご自分でされなくてもよろしいのですよ」
「人にしてもらうなんて…落ち着かなくて」
「いいのですよ。さぁ、すぐ戻って参りますので、お休みになっていてください」
さっとユーシェの腕から洗濯物を受け取ると、ティナは背を向けて少し離れた日向に設置された物干し台に向かった。
隣の部屋は、日が当たるのだ。そして、空室。けれど、ユーシェはそこに移動しようとはしない。
そもそも洗濯物も、初めは自室の敷地内に干していた。もちろん日陰だ。けれど乾きが悪かったために、ティナが少し離れた日向に干しに行くようになったのだ。
ユーシェは無駄のない動きでティナが素早く洗濯物を干して行くのを眺めた後、ふと部屋の窓の汚れに気づき、持っていた手拭きで軽く拭いた。
「ユーシェ様」
窓を吹き終わるやいなや、咎めるようなティナの声が聞こえ、ユーシェはゆっくりと声のした方を見た。
「あらティナ、さすが仕事が早いわね」
「私はお休みしているように申し上げたはずですが」
いうことを聞かない主人につい口調がきつくなり、目もつり上がってしまうが、ユーシェは肩をすくめて困ったような顔をしただけだった。そんなユーシェから、ティナは手拭きを取り上げる。
「何かしていないと落ち着かなくて」
「でしたら、お茶をご用意致しましょうか」
「いらないわ」
「では書物をお持ちしましょう」
「それもいいわ。もうここのものはほとんど読んでしまったもの。それよりティナ、朝から働き通しでしょう?休んで来てもいいのよ?」
「お昼ご飯まではまだ時間がございます。それに、ここは仕事量が圧倒的に少ないので、全く疲れておりません。私を遠ざけようとしても無駄ですよ」
「あなたはまるで私の監視役ね」
ユーシェの言葉に、ティナは深くため息をついた。侍女が主人にため息をつくなど本来ならばあってはならないことだが、ユーシェはそれを咎めない。ティナの言葉をひたすら受け止め、流していた。
「ティナには悪いことをしたと思っているわ。私なんかについてしまって、肩身の狭い思いをしているでしょう?私が女官長に口添えするから、誰か他の、もっと皇帝陛下と親しくなりそうなご令嬢のところについたらいいわ」
「その必要はありません。女官長からも、くれぐれもユーシェ様をよろしくと言われております。私がいなくなったら、ユーシェ様のお世話をする者がいなくなってしまうではありませんか」
「自分のことは自分でできるわ」
「そう言う問題ではありません。そう仰られるのでしたら、ユーシェ様が皇帝陛下とお近づきになってくださればいいのです。そうすれば私も大きな顔で歩けますから」
「…私は…、そういうのじゃないもの」
ユーシェはティナから顔をそらし、少し距離をとった。
「あちらには、とても美しい方々がたくさんいらっしゃるのでしょう?私は平々凡々な顔つきだし、誘惑できるほどの身体でもない。あるのは少しばかり珍しい、この黒髪だけよ。でも、この髪の毛だけで皇帝陛下の御心を掴めるだなんて思ってないわ」
「では、ユーシェ様は何故ここに留まっておられるのですか?」
責めるではなく、自分の主人を知りたくて、ティナは静かに尋ねた。
後宮は皇帝の妻を決め、それを住まわせる場所。それが無理だとわかっているのなら、今までにもそうした人がいたように、後宮を出て行くことだって可能なのだ。しかし、ユーシェはそうしようとはしていない。
「私に…選択権なんてないわ。そうしろと言われたから、ここにいるだけよ」
「お父上に…ですか?」
「ティナも分かっているでしょう?ここにきて半年、ドルガ伯爵から私宛に文の一つも、言伝の一つもないわ。それが何を意味するのかなんて、火を見るより明らかだと思わない?」
「それで…よろしいのですか?」
「いいも何も…、私はここを出てもどこにも行くところがないわ。ドルガ伯爵だって、許さないわよ」
「……」
「だからティナ、あなたもここに無理に留まらなくていいのよ。私のこと…苦手でしょう?」
「そんなっ、そんなことはございません。何故そのようなことを仰るのですか。私の態度が悪いということでしたら…っ」
「違うわ、あなたを責めているんじゃないのよ」
慌てて頭を下げようとしたティナの肩にそっと手をおき、ユーシェはティナの動きを止めた。ティナの瞳には戸惑いが浮かぶ。
「貴女だけじゃないわ。私を見ると、みんな顔をしかめるでしょう?」
「それは…っ、苦手とかそういうことではなく…」
ユーシェに初めて会った時、ティナは思わず顔をしかめた。目上の人に対しそんな事をするのは罰せられても仕方のない事だったが、ユーシェはそれに見ないふりをした。その後護衛騎士と対面した時も、同じ反応に、同じ反応を返していた。
「その理由は分かってはいるつもりなのだけれど…。でも、貴女達はすごいわね。それ以降は絶対に顔色を変えないようにしていたもの」
「申し訳ありませんでした」
「昔の話を蒸し返したりしてごめんなさいね。頭を下げさせたかったわけじゃないのよ。ただ、他の方は…私のこの髪を見たら、きっと侮蔑の言葉を投げかけてくるでしょう。気味が悪いと思うことは、仕方がないと思うの。でも、私はこの母譲りの髪をとても大切に思っているから、蔑みの言葉をかけられたくないのよ」
ユーシェの黒髪は、この国には一握りしかいないと言われている。茶色や金色が多く、焦げ茶色の髪色もあるが、黒だけは少ないのだ。そのため、呪われているだの、縁起が悪いだの、ユーシェは様々な嫌悪の言葉をかけられてきたのだ。
「この髪だから、ドルガ伯爵に目をつけられたわけだけれどね。物珍しければなんだって良かったのだと思うわ」
「…私はユーシェ様の御髪の色は素敵だと思います。もっとお手入れをさせていただければ、艶のある美しい御髪になりますよ」
「ありがとうティナ。でも…いいわ。今のままで十分よ」
「ユーシェ様…」
「ふふ、おかしな話をしてしまったわね。そろそろ部屋に戻りましょうか」
肩を落としたままのティナを気遣い、ユーシェは部屋へと足を進めた。