10
洗濯をやめ、お茶の時間を作り、アレクが贈ってくるワンピースや髪飾りが似合うようにと、少しは身支度に時間をかけるようになったものの、後宮での生活はユーシェにとっては時間を持て余すものであった。孤児院にいた頃は時間がいくらあっても足りなかったというのに、今は時間をどう過ごすかを考えている。贅沢な悩みだと、ため息が溢れる。
けれど、時間があると、どうしようもないことばかり考えてしまうのだ。後ろめたいことを何度も何度も思い出し、どうすることもできない思いに潰されそうになる。
主が何かに悩んでいるようだとティナは気づいていたが、口の堅い主がそれをティナに漏らすことはなく、ただただ心配そうに見つめることしかできずにいた。
「どうした、最近元気がない」
「い、いえ、なんでもございません。お気を遣わせてしまい、申し訳ございません」
アレクは相変わらず毎日ユーシェの元を訪れる。今日は昼食を共にしていた。
数日前からどことなく元気がないユーシェには、目敏く気付いていた。しかし、そんな日もあるだろうと様子を見ていたが、どうも何かがおかしい。ドルガから接触があったとの報告はないし、孤児院にも異常はない。侍女にも何も話していないようだし、ユーシェが気を落とす理由など何も思いつかず、もう直接本人に聞くことにした。
「食べられるか。お前にこれ以上痩せられては敵わん」
「食べられます。大丈夫です」
俺の分の昼食を一匙掬い、美味しいですと小さな声で言い、いつものように皿を渡してくる。しかし、いつもよりも表情が堅い。何かに悩んでいることは一目瞭然だ。
「何かあったか。それとも…」
ユーシェがゆっくりと顔を上げ、俺を見る。
「夜伽のことか?」
「…っ!」
ヒュッと、ユーシェが喉を鳴らした。てっきりこの間のように頬を赤らめると思っていた俺は、全く予想だにしていなかった反応に眉を顰めた。
「からかいすぎたな。そんなに気に病むとは思っていなかった」
「いえ、その…そういうわけでは…」
消え入るような声で歯切れの悪い返事をし、ユーシェは俯いた。あれからずっと悩ませていたのかと思うと、やりきれない気持ちになった。
すっかり手が止まってしまったユーシェに、食事を摂るように言う。ゆっくりながらもまた食べ始めたのを確認し、ホッとした。せっかく飢餓状態から脱したと言うのに、元に戻られるのは辛抱ならない。
「食べながら聞け。この後宮にいる者たちは、俺が望んで集めたものではない。周りにいる欲にまみれた阿呆と、この国の将来を憂いた年寄りが連れてきた者達だ。いちいち拒むより、その時間を使って溜まった政務をこなした方がいいと判断し、勝手にやらせてきた。阿呆共を蹴散らす理由になることもあったしな。俺はここを利用して、自分に都合のいい事だけを摘みとってきた。だが、ここにいる者達がここを出て行くことは自由だ。その為に誰にも手はつけていない。ここに連れて来られた者達の有限な時間を奪っているという自覚はあるからな。気まぐれでここに一生閉じ込めることはしたくない」
食べながら聞けと言われたから、なんとか食事を口に運んでいたユーシェだが、思いもよらぬ俺の独白に何度も手が止まった。その度に鋭い視線を向けると、慌ててまた手と口を動かすが、何故このようなことを告げられているのか分からないといった顔で、すぐに手も口も止まってしまう。その度に、何度もユーシェに視線を送った。
「ここにいる者に、夜伽を命じることはない。相手がどれだけ望んでいようとな。ここにいる者から選べば、パワーバランスが崩れる。バランスを保つために何人も選ぶことになるのも面倒だ。その娘についてくる、親戚縁者をあしらうのも面倒だ」
普段なら聞くことのないであろう難しい話は、ユーシェの手と口を止まらせることなく、食事を進めるのに一役買った。俺が何を意図してこの話をしているのかが分からないからこそ、相槌を打つことなく、黙々と料理を口に運べているんだろう。時々俺の顔を窺っては、食事を進めていた。
「俺は、妃となる者は、自分で見つけた者にしようと思っていた。別に後ろ盾を持つ者でなくてもいい。他国の姫を貰い受けるつもりもない。そんな繋がりなどなくても、この国は強大な力を持っているからな」
この国は、10年程前までは戦争が絶えなかった。南は海に面しているため特に問題はないが、北、東、西と国境を争う国があり、20年程、常にどこかの国と争っているような状態だったのだ。どの国も隙を見て攻め込んできた。2つの国が示し合わせて同時に攻め込んでくることもあった。だが、10年前にようやくすべての国を文句も言えないほどに叩き潰し、戦争を終わらせたのだ。他の誰でもない、俺が、だ。
血で血を洗うような、目も当てられない戦場ばかりだった。街が戦場になることもあった。俺は自ら剣を持ち、馬に乗り、最前線へを身を置いた。後ろで守られるような皇帝にはなりたくなかった。誰よりも敵兵を斬り、屍の山を作った。その剣は何百、何千の血を吸い、常に赤い血に塗られていた。
血塗れの皇帝。そんな二つ名がつくのも納得の所業だった。同時にこの国の軍隊を鍛え上げた。必要なことだったが、やり過ぎだという声があったのも事実だ。だが、その結果、この国の軍事力を他国を黙らせるほどまで押し上げた。俺が在位している限り、この国は他国に無駄に攻め込まれることはないだろう。
「妃となる者を見つけられなくても最悪構わないとも思っていた。妃がいなくても困らないんだ。血筋にこだわる必要はない。適任がいればそれが次代を担えばいいとも思っている。皇帝なんて、誰がなったっていいんだ。この国を、正しく治めることができる者なら、誰だってな。だが…」
ちらりとユーシェを見る。ユーシェの一匙が口に消え、さらに嚥下されるのを確認し、俺は言葉を続けた。
「ユーシェ、俺は今、お前に夜伽を命じないとは、言えない」
「っ!」
跳ねるように顔を上げ、ユーシェは俺を見た。その目はまん丸で驚愕しているのがダイレクトに伝わってきた。握っていた匙を落とさなかったのは奇跡だろうという程の、様子で。
「別に今すぐどうこうという話ではない。ただ、俺がお前を気に入っているということだけは覚えておけ」
「は…、はい…。はい…」
この様子だと、俺からの贈り物に対しても、情欲は感じていなかったのだろう。皇帝らしい高額な物は何一つ贈っていなかった。貴族の令嬢への贈り物としては適しているだろうというくらいの、質素な物を選んでいたから、当然といえば当然かもしれない。
動揺してすっかり手が止まってしまったユーシェに、ゆっくりでもいいから食べるようにと視線を送ると、やや震える手で食事を再開した。
この様子を見ると、ユーシェはただ驚いただけでなく、夜伽に対して恐怖を感じているのだろうか。生娘だろうし、孤児院への寄付金のためにここに連れてこられた娘だ。そもそも俺と顔をあわせることもないと思っていただろうし、そういう関係になるなんて想像もしていなかっただろう。孤児であったからか、自己評価が低いことも関係しているかもしれない。
そもそも夜伽に対して悩んでいたというのに、先走るとは、俺も間抜けだな。
「ユーシェ、俺が怖いならそう言えばいい。強制はしない。お前がここを出たいというのなら、その世話をしてやることも可能だ。お前はどこにでもいける。しっかりとした身元引き受け人を用意することは容易いし、仕事がしたいのならそれを準備することもできる。どこかの貴族の養女になって、のんびり暮らすのもいいだろう。お前の望みが優先だ。お前の意思を無視してここに縛り付けることなどしないから、安心しろ」
「ち、違います。違うんです。その、陛下のことが恐ろしいとか、そういうことじゃないんです」
今度は匙を落とし、今にも立ち上がらんばかりの勢いでユーシェは俺を見た。
「陛下のことを、怖いなどと思ったことは一度もありません。ここを、出て行きたいと思ったこともありません。貴族になることも望みません。その…追い出されるようなことになった際は、仕事だけ…御願いをしたいです」
「追い出す予定はない」
「はっ、はい。申し訳ございません。その、私は、本当に心から陛下をお慕いしております。…ですが、その…、よ、夜伽…の自信が…ありません…。それに…その、私の身体では…その…」
顔を赤くしたり青くしたりしながら、ぎゅっと目をつぶり、両手を胸の前に合わせて握りしめるユーシェを見て、ますます申し訳なくなってくる。俺の前で迂闊なことは言えないとわかっているんだろう。
「ユーシェ、無理をするな。強制する気も、急かす気もない。お前が飯も食えなくなるほど悩むくらいなら、この話は無しだ。まずはお前の身体が優先だ。これ以上顔色が悪くなるようなら、一度医者に診てもらう。いいな」
「…はい。申し訳ございません」
「お前が謝る必要はない。さぁ、食べるぞ」
「はい」
捨て猫のような情けない顔をみせるユーシェの頭をガシガシと撫で、昼食を再開する。もうこの話はおしまいだ。
少しぼーっとしたような顔をしてから、ユーシェも今度こそ昼食を再開した。
これでいい。今は、これで。




