緋色の羽根
闇に横たわる淡雪の素肌を追い求めた指が、その小さな背中に達したとき、そこに深い傷があることを僕は知った。穏やかな草原が唐突に途切れ、荒れ地が現れたようだった。しかもそこは、安易に踏み込んではいけない聖域なのだ。
淡雪は秒針よりも微かに震えたが、何も云わずに僕に躰を任せていた。僕も言葉を発することにためらいを感じ、傷に触れないように腕の位置を変えて、ただ彼女を包むことに集中した。
「緋色くん」
淡雪が云った。
「驚いた?」
僕は小さく、少しね、と応えた。そして、尋ねざるを得ない。
「どうしたの?」
痛むのだろうか。それが心配だった。
「もちろん、話したくないなら、話さないでいいよ」
「ううん。聞いてほしい。緋色くんに」
僕は少し迷った。しかし、淡雪の言葉を信じた。この物語を聞くことができるのは、僕だけなのだ。
「聞くよ」
意を決しそう云うと、空気の動きで、彼女が微かに微笑んだのが解った。
「昔ね、私の背中に、羽根があったかもしれない」
淡雪は少しおどけた風に云った。
「昔……どれくらい昔?」
「十四歳のとき」
十四、か。
僕はあどけない淡雪の姿を想像する。しかし、線が踊ってうまく思い描けなかった。
「それで?」
「私、中学生の頃、虐めに遭っていたの」
「……うん、そうだったね」
それは以前、淡雪が話してくれたことだった。具体的なことは何も聞かなかったが、ただ人間が苦手だと、淡雪はそう云っていた。
「背中をね、シャープペンで刺されたの。何回も。授業中にずっと」
僕は戦慄する。
「そんな……」
赦せない。
憤る気持ちと、淡雪を守ってやれなかった悔しさが、絶望的なほどに僕を貫く。
「終わったことだから、もう大丈夫よ……あの時は、辛かったけどね……」
震えが伝わったのか、淡雪はそう慰める。僕と彼女自身も。
「それでね」
淡雪は再び語り出した。
「ある日、背中にしこりがあることに気づいて。それもちょうど二枚の羽が生えるような、この場所にね……。気づくと、それがどんどん大きくなってきたの」
「淡雪は、天使なのかもね」
僕は云った。言葉にするとばかばかしいようだが、本気だった。淡雪は小さく笑ってその言葉をかわし、続きを紡いだ。
「しこりが小さいときは、なんとなるかな、と思っていたんだけど、だんだん大きく、痛くなってきて、仰向けで寝たり、背もたれのある椅子に座ったりできなくなったの。私、もしかしたら、シャープペンの芯が中に入って、大変なことになっているんじゃないかって、恐ろしくなって……」
苦痛を想像し、辛くなる。
「でも、お母さんには心配かけたくなかったし、もっと酷いことをされるのも厭だし……って、いろいろ悩んだけど、結局、虐めの事も話しちゃった。それで、しばらく学校を休んだ」
「うん……。良かったよ。それで良かった」
僕は心から安堵する。それは、今はもうこの地平の何処にもない、過去の話だというのに。
「まあ、それはそうなんだけど……それで、シャープペンで刺されることはなくなったんだけど、背中のしこりは、やっぱりずっと残っていて、その後も大きくなってきたの」
「お医者さんは何て?」
「それが、レントゲンを撮ってもらっても、結局よく判らなくて……気になるからということで、簡単な手術して、取ってもらったの」
僕は黙って、その言葉を受け入れた。昔、背中に羽根が生えてきて、手術して取った……。
「医学的には、奇形腫といって、身体の出来損ないが瘤になっちゃうことはあるらしいんだけど、私の場合はそれともちょっと違うみたいで……でも、なんかね。小さな骨の塊が、入っていたんだって」
「そうなんだ……」
「ごめんね! 気持ち悪いよね。こんな話」
「いや、ううん……大丈夫だよ。話してくれてありがとう。……でも、不思議なお話だね」
「うん……」
淡雪はそう呟くと、また僕を強く抱きしめてきた。
小さなアパートの部屋は、閉め切っているはずなのに冷気が忍び込み、僕らは微熱を持ち寄って、それをやり過ごしていた。
「私ね」
淡雪は再び語り出す。
「手術の前、とても死にたかった。どうして私だけ、何もかも痛い思いをしなくちゃいけないのかって……。校舎の屋上から飛び降りて終わりにしたかった」
「うん……」
「でも、手術が終わったら、痛みなんて嘘みたいになくなって……学校に行かずに、一人で静かに本を読んで……なんだか急に、普通になっちゃった。そして緋色くんと逢えて……。今は、幸せだよ? 緋色くんと一緒に居られるから。……でもね、ときどき考えてしまうの。あのまま、背中の痛みに耐えていたら、羽根が生えたのかなって。すーっと空を飛んで、何処か遠くに行ってしまえたのかなって」
僕は、なんとなくその気持ちが理解できた。
「もしも」
言葉が零れた。
「もしも今、羽根があったら、淡雪は何処かに飛んでいきたい?」
僕は尋ねた。責めるような気持ちはもちろん微塵もなく、恐れや戸惑いの気持ちも皆無だった。あまりに自然で、唇を離れた音に現実味はなく、テレパシーでしているような会話だった。
「判らない。もう、あの時の私は、もう、この世界に居ないから……」
淡雪は囁く。そして一つ、溜め息を吐いて、また話し出す。
「でも、手術って、本当に不思議よね。今まで私の躰の一部だったものが、切り離されたりするじゃない……? 手術ほど大げさじゃないにしても、例えば髪を切ったり、爪を切ったりする……。そのほうが生きていく上では都合のいいはずなのに、どうしてかしら。そうやって健康で綺麗になったあとで、ときどきちょっとだけ、切なくなるの……。たぶん私、本当の自分を、何処かに置いてきちゃったんじゃないかしら……って」
「解る気がするよ」
僕はそう応えた。そして、ひときわ強く、彼女を抱き寄せた。そうしないことが、怖かった。
「君は、ちゃんとここに居るよ……」
「うん……ありがとう」
「僕も、ここにいるよね」
「もちろん。緋色くんは、いつも私のヒーローだよ」
さすがに少し笑う。
「今の話の続きじゃないけどさ」
そして僕も切り出す。
「緋色って、どんな色だったっけ……って、僕もときどき、そう考えることがあるよ」
僕は、眼が視えないのだ。
「そうだよね……」
「あ、ごめん、気にしないで。こちらも特に深い意図は無いんだ。言葉通りの意味」
「ううん」
淡雪は絞り出すように切ない声で応えた。
「緋色は、とても綺麗で、少し渋くて、温かい色だよ。朝陽や、夕陽の色だよ」
そう説明するアルトが、僕を深く包んでくれる。
「そっか」
「そうだよ」
「ありがとうね」
「ううん、こちらこそ」
静かな熱はすっかりと部屋に満ちて、夜が深まる気配がする。
「そろそろ、眠ろうか」
「そうね……」
そうして僕らは、小さくおやすみと云い合い、意識を手放していく。明日と今日が繋がっているのか、いないのか。そんな不安も、微かな息吹のさざ波に呑まれて消えていく。そんな中で、一つの祈りにも似た考えが浮かんだ。
明日、絵を描こう。
淡雪の背中から芽吹く羽根の絵を。
僕は自分の手で描くその絵を視ることはできず、おそらく下手な絵になる。けれど、淡雪はきっと慈しんでくれる。
その羽根は、茨のように鋭い部分があり、淡雪の白い素肌や、僕の手を傷つける。けれど、貝や花弁のように、くるくると廻るしなやかな部分もあって、虚数の世界に限りなく広がっていく。僕らは羽化の爆心地で繭に包まれ、伸びゆく先を知ることはない……。
END
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