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翠の瞳 ~塔の魔術師 外伝~  作者: と〜や
顕現 ――七日目
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10.顕現 9

 小鳥の鳴く声が聞こえた気がする。

 ゆっくりと体の感覚が戻ってきたことを認識して、シャイレンドルは指先をゆっくりと動かした。

 ちゃんと動く。

 口を開き、深く息をすると冷たい空気が肺を冷やす。

 目を開けるのは怖かった。

 目前にあの紅い光景が再現されているのではないか――そんな恐怖が心を塗りつぶしているのも感じる。

 あれは過去のことであって、今のことではないと頭ではわかっているのに。

 恐怖だけが先に立つ。


「目が覚めたかの」


 柔らかい声が耳朶を打つ。塔長の声だ。

 他にも誰かの気配が部屋の中にある。

 おそらく、あの男――ユレイオンの気配。水の済んだ気配。

 現実を五感で感じ始めた途端に、夢の中でみた出来事があっという間に霧散する。

 あの生々しい現場の血の匂いも、鉄の味も。

 綺麗さっぱり消えたところでゆっくり体を起こす。

 手はまだ震えていて力を込めるのは簡単ではなかったが、何とか起き上がれた。


「怖がらんでええ。目を開けなさい」


 心の中を見透かされてかっと頭に血が上りそうになる。

 周囲に風が巻き、髪の毛が浮き上がるのを、ふわりと包んだものがあった。

 ぽんぽんと背中に回された手が落ち着かせるように軽く叩く。

 かすかに香った加齢臭に、頬に当たった柔らかいものが老人の長く伸びた髭だと気づくのに時間は要らなかった。


「落ち着け。ここは過去ではない。今だ。分かるな?」


 窘めるように塔長は小声で囁く。

 シャイレンドルはうなずく代わりに長く息を吐いた。


「よう戻ったの」

「ジジイ……」

「そなたの力が暴走したんじゃよ。覚えておらんか」

「……覚えてねえ」

「そうか。じゃが、ようやく自分の記憶と向き合えたようじゃの」


 ひゅっと喉が鳴った。

 直前のオスレイルやアマドとの会話が蘇ってくる。

 姉や妹の名前に、記憶の蓋が軋んだのだ。

 その隙間から漏れてきた恐怖が力を暴走させるきっかけとなったのも、思い出す。


「そなたの解放を待っておったようじゃな、周りに風の精霊が集っておるわ。わしの契約精霊まで浮かれおって」


 体の周囲に常にふわふわと風を感じるのはそのせいなのだろう。

 塔の特別訓練で感じたこともなかった魔力や精霊の存在も肌で感じられる。


「十年も封じられてきた記憶じゃ。そなたにとってはそれほど辛く、思い出したくもない記憶であったろう。じゃが、自分を責めるのはもうよせ。彼らはそなたが幸せになることを祈っておるのだ。そなたの父も母も、姉も妹も、そなたの無事を喜んでおったであろう?」


 塔長の言葉にシャイレンドルは一言も返さず、表情も変えなかった。

 だが、塔長の彼を抱く腕に力が込められると、わずかに眉根を寄せた。


「痛えよ、ジジイ」

「このくらい、我慢せい。そなたの家族のためにこの腕を貸しておるのじゃ」

「……今度体貸したらぶちのめす」


 シャイレンドルの言葉に塔長はほっほっと笑った。


「なれば今貸せと言うておるが、構わんかの」

「……好きにしろ」


 むすっとシャイレンドルが返した途端に塔長の手は彼の黄金の髪を梳き、撫で、髭越しに頬に柔らかくキスが落とされた。


「おいっ」

「わしに言うな。そなたの家族に言え」


 だが塔長の手はそれ以上は動かなかった。

 やがて髪の毛から離れた塔長の手はシャイレンドルの背に回され、ぽんぽんと叩いた。


「忘れるでないぞ、シャイレンドル・リュフィーユ。そなたの父も母も、姉も妹も、そなたをこれほどに愛しておった。そのそなたが大事でないはずがなかろう? 自分を大事にせよ」

「……うるせぇ」


 それが精一杯の虚勢を張った答えだったのだろう。

 背中を丸め、塔長の体によりかかるようにしていたシャイレンドルは、じきに寝息を立て始めた。

 それに気がついて塔長は苦笑を漏らすとそっとベッドにシャイレンドルの体を横たえた。

 後ろに控えていたユレイオンは、それを介助するとシャイレンドルの夜具を引き上げた。


「相当疲れたようじゃの」

「はい」


 それは当然だろう、とユレイオンは金髪の青年を見下ろしてため息をついた。

 張っては破られる結界を力の限り張り続け、長老たちとともにほぼフルパワーで応対せねばならなかった。

 少しでも気を緩めれば力の暴発に押され、周囲も巻き込んで甚大な被害が出ていただろうことは容易に想像がつく。

 これほどの力を持った男が、未だに無冠だったのだ。

 どれほどのトラウマを抱えていたのだろう。

 力を完全に抑えきるほどに強い、恐怖。

 それをこの男は打ち破ったのだ。

 祭りが終わり、塔に戻ればすぐさま力の計測が行われるだろう。銅位は軽く超える。銀位は確定だろう。

 十年かけて登ってきたこの地位に、この男はあっさりと立つのだろう。

 胸のうちに黒い感情が湧き上がるのを自覚する。

 それは――嫉妬や羨望といった感情なのかもしれない。

 ユレイオンはそっと首を振る。


 ――そもそも、俺には関係のないことだ。


 金髪の魔術師の都合や事情など、自分には関係のないことだ。

 ただ、求められた役割を果たし、必要とされる場に立つ。それだけのことだ。


「ご苦労であったな、ユレイオン。疲れたであろう」


 塔長はそういい、黒髪の魔術師を振り仰いだ。

 他の長老たちは疲労困憊してすでに部屋に引き上げたあとだ。

 魔力切れを起こすまではいかなかったものの、繰り返し同じ結界を張り続けるのは骨が折れた。


「いえ、大丈夫です」


 それに、この部屋はシャイレンドルとの相部屋として割り振られた部屋だ。

 体を休めようにも、塔長がいる限りは休めない。


「今日はわしがシャイレンドルを看ておる。そなたはわしの部屋で休め」

「……承知しました」


 こういったケースは見たことがないわけじゃない。

 おそらくは力の揺り戻しや暴走しがちな精霊たちの制御にかかりきりになるのだろう。

 精霊をなだめるには同系列の魔術師でなければ難しい。

 それも計算の上で塔長は彼につくと言っているのだ。

 自分にできることはもうない。

 ユレイオンは二人に頭を下げると部屋を出ていった。

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