10.顕現 8
※残虐なシーンや性的暴力のシーンがあります。苦手な方は読み飛ばしてください。
気がつけば、シャイレンドルは床に倒れ伏していた。体を支えて起き上がろうとして、その腕が細く、手も小さいことに気づく。
意識を失う前のことが夢ではなかったのだ、と思い知る。体が縮んだ時、あの声はなんと言った?
――あの日に戻す。
そう言った。
あの日、とは何のことだ? この体は一体……。
ぼんやりと痛む頭を振って思考をまとめようとしたが、バタバタと走り込んでくる足音に思考を中断させられた。
さっきも似たようなシーンを見た。もしや、と振り仰ぐと、腰に手を当てたエプロン姿の母親が立っていた。
顔を見る前に母親だと分かった。なぜかはわからない。鼻筋の通った、目の大きな女性。うねる黒髪を後ろにまとめている。
「何やってるの、シャル。今日の水汲み当番はあんたでしょうが。なんでティアがやってるのっ」
「だって、ティアが」
「言い訳しないっ。とっとと行って代わってらっしゃい」
ようやく起き上がったシャイレンドルはお尻をぺしっと叩かれ、悲鳴を上げる。夢なんじゃないのか。何でこんなに痛いんだ。
しぶしぶ表に出ると、桶を担いでよろよろ歩く妹のところへ走る。顔を見る前からやはり妹だと分かった。まんまるの目とうねる黒髪は母親譲りだ。
「お兄ちゃん」
ごめんなさい、と涙目になる妹の手から桶を取り上げる。中には半分も水が入っていない。
「なんだ、全然ダメだな、ティアは。仕方ないから俺がやるよ。お前は家に帰ってな」
何を言っているのだ、と愕然とする。自分の体なのに自分の思うとおりに動かなかい。自分が押し付けたのに謝ってくる妹にかける言葉じゃないはずだ。なのに。
――これが『あの日に戻る』ということなのか? 俺の知っているはずの記憶を追体験させられているのか?
そう気がついた途端、まるで早送りのように時が過ぎていった。
水を汲みに行くのは少し離れた場所にある井戸だ。シャイレンドルの家は神殿の寮からは少し離れていて、神殿内にある井戸を使わせてもらっていた。水を汲み上げ、二つの桶を満水にして家まで運ぶのは、十に満たないシャイレンドルの体でも重労働だ。
神官たちは皆顔見知りで、父親もここに務めている。今日は休みだからと家の用事をしていたはずだ。
桶を満たし、それを担いで家に戻る。家の外にある瓶に一滴も無駄にしないように流し込むと、桶を家の裏に置き、裏口から家に戻った。
「ただいま、母さ――」
言葉が続かなかった。
床に倒れていた母親と父親。目と口を開いたまま、ピクリとも動かない。床に広がる赤い色。
「ひっ」
「おいおい、まだいたぞ」
至近距離にぬっと大男が現れた。手にした曲刀は赤く濡れている。
部屋の中を見回せば、妹は壁の近くで力なく座り込んでいた。背後の壁に赤い色。
テーブルの上には姉が手足を投げ出して横たわっている。その腰を掴んでニヤついているヒゲの男の顔が歪んだ。
「ああ、具合がいいぜ、こいつ。抵抗しなきゃ殺さなかったのによお。上玉だったし、惜しいことした」
「お前が首締めたからだろうが」
――何を、言っている。
「お、そいつ珍しいな。ソッチ趣味の貴族サマには高く売れるんじゃねえ? 殺すなよ」
「分かった。おい、坊主。抵抗するなよ。抵抗したら殺しちまうからな、お前の姉ちゃんのようによ」
曲刀を持っていた男はそれを床に落とすとシャイレンドルに両手を伸ばしてきた。
――ころ……される?
周りを一生懸命見回す。何か助けになるものがないかと。
だが、誰も動かない。助けを呼ぼうとする声も恐怖でカラカラに乾いた喉からは出てこない。
「そうそう、声を立てないようにな。良い子だ」
良い子。馬鹿な。目の前で家族が殺されて、今度は自分の命が消えようとしているのに。
恐怖で心が塗りつぶされていく。
――ヤダ、コワイ。ダレカ、ダレカ……タスケテ!
その祈りは通じない。ぐいと強く腕を捕まれた途端、恐怖が完全に少年を支配した。シャイレンドルは恐怖に全てを委ねた。
風が髪の毛をふわりと持ち上げた。身の回りをくるくると巻き始めた風が、スピードを上げて目の前のありとあらゆるものに襲いかかった。
悲鳴が上がる。目の前にいた男の体が分断され、赤い液体が視界を染めた。腰を振っていた男は机もろとも粉々に吹き飛ばされた。残る一人は逃げようと腰を上げたところで背中から切り刻まれ、壁を染めた。
風の勢いは止まらなかった。目の前にある全てのものを細切れに変え、家の屋根は吹き飛んだ。生活の場であった家がかろうじて四方の壁が残っているだけの廃屋に変わってようやく、風は消え、シャイレンドルはその場に倒れ伏した。
意識を失った少年の内側で、シャイレンドルは身を縮めていた。
――嘘だ。ウソだウソだウソだ。こんなこと、俺は知らない。知らない。何も知らない。こんな……こんなことっ。
「嘘じゃないわ。十年前に起こったことよ。あなただけが見ていた事実」
声と共に姉だと名乗る女性が横に立つ。
「俺が、俺はっ、死にたくっ、なかったっ」
「ええ、そうね」
「俺のせい、で、家族がっ」
「違うわ。見ていたでしょう? あなたは。ちゃんと見ていたはずよ。父も母も、ティアもあの時にはもう死んでいた。わたし……姉のイグレーンも、死んでいた。聞いたでしょう?」
「でも、だって、あれはっ」
――さっさと水を汲んでいれば俺は間に合ったかも知れない。
「間に合ったとして、あそこに骸が一つ増えただけよ。あなたが生き残ったのは間違ってない」
「だって、あんなっ」
――家族の体を切り刻んだのは間違いない、自分なのだ。許されるはずがない。
「ええ。あなたの力の発現のきっかけは恐怖だった。目の前のものを全て吹き飛ばすほどの恐怖。あなたが力を使えないのは、無意識で自分を恐怖しているから。同じことを繰り返すのではないか、と。大事なものをまた壊すのではないか、と思ってるから。……違うかしら?」
シャイレンドルは首を振った。今の今までそんなことすら覚えてなかったのに、家族のことすらほとんど忘れかけていたのに。
「でも、貴方が殺したんじゃない。家族を助けたいと思ったのではなくて?」
「違う。……俺は怖かっただけだ。死にたくなかった。誰か助けてって……」
「ええ、その力のおかげであなたは生き延びた。シャル。……もう自分を許しなさい。わたしたちはみんな、あなたが無事成長していることを喜んでいる」
頭を抱えていたシャイレンドルの手に、イグレーンはそっと手を重ねて頭を上げさせた。
イグレーンの後ろに人影が立っている。にこにこと柔らかな微笑みをうかべる父、腕を絡めて寄り添う母。足元に立つティアも天真爛漫に微笑み、手には花を一輪持っている。
「あなたが自分を失ったままでいることを、みんな悲しんでいる。いいえ。……あなたがわたしたちを忘れてしまったことが悲しかった。あなたには笑っていてほしい。『わたしたちのいとしご』よ」
頬を涙が伝う。
「それでも自分が許せないなら……自分の運命を受け入れなさい」
「運命……?」
シャイレンドルは顔を上げた。イグレーンは愛しい弟の金髪を撫で、額にキスをした。
「そう。いつかわかるわ」
もう眠りなさい、という声のあと、シャイレンドルは闇に落ちるように眠りに落ちていった。




